母の弥生
ガチャ
唐突に開いた玄関の開閉音にビクッと体が驚いた。
寝てたのか?
瞼をパチパチ瞬いた。
フローリングの上に体育座りで寝入っていたらしい。
壁に掛けられた時計を見遣ると、長針は円の最下を示して短針と重なりつつあった。
「ただいまって、なにやってんの暁」
いつの間にか帰ってきていたボディラインがはっきりとした黒スーツ姿で、座り込む俺を見ろしている母の弥生に呆れた声で尋ねられた。
横にたつ母を無言で見上げた。しかし母は後頭部に左手を回し、仕事のせいか少し乱れた黒髪を擦った。
「ほら、退けい!」
細い脚で俺の脇腹を軽く蹴った。
それでも俺の口から言葉は出なかった。
上げられていた脚を下ろし、母ははぁとため息を吐くと携えている手提げの黒革鞄をリビングに向かって投げ捨てた。
鞄は縦回転しながらローテーブル上の一割程度麦茶の入ったコップに近づいていく。
偶さかかそれともコントロールが抜群に優れているのか、鞄の角がコップの縁に直撃しトンと音を立てて横転した。
「あーあ風でコップが倒れちゃったー」
わざとらしく力抜いた口調で喋った。
自分でやったんだろうが! といつもなら怒鳴るのだがそんな気も起きない。
「やけに元気ないね、失恋でもした?」
表情を作らず聞いてくる母に答えることもなく俺は無言を貫く。
うるせーよ。
「ま、仕方ないか。あんな大地震があっちゃねー」
なんだよ気づかれてたのか。
「あたしだって悲しいよ。でもねいろはちゃんが死んだとは決まったわけじゃない」
本能的に言い返していた。
「何で母さんがいろはのことについて喋ってるんだよ! 俺だって死んだなんて考えたくないしあってほしくない……」
消え入るように俺の言葉は段々小さくなっていき黙り込んだ。
俺が黙り込むと母はまた喋り出した。
「暁、お前はほんとバカだな。何もわかっちゃいない。勝手に決めつけたらいろはちゃんが悲しむよ、暁が私を死んだと思い込んでるって、だから悪い方に考えるな良い方に考えろ」
「地震が起きたってだけで不幸だよ」
「ぐちぐち言ってないで退け、そして溢れたお茶を何でも良いから拭いてこい」
強気な母の口調に無言でその場を退いた。
俺はポケットに手を突っ込みハンカチを取り出し、ローテーブルを見据えた。
白いローテーブル上に映えるコップの縁から麦茶の薄茶色が膜を張るように広がって溢れていた。
そんな光景さえも憎らしく感じた。
まずは倒れた中身のないコップを立てさせて、溢れている麦茶を拭き始める。
ハンカチのサラサラした表面とローテーブルのツルツルが密着し、ハンカチを動かすと細かく微かな水の粒を残してを拭き取った。
それを何回か続ける。
入り口で立っていた母がリビングに入ってくて背を向けている俺に近づいてくる足音が聞こえ、振り返って見ると母な何かを案ずるような憂い顔をしていた。
そのまま俺の背後まで近づくとおもむろに口を開いた。
「明日の朝早くに出掛けるから仕度しといて。現地でいろはちゃんに手助けたいから、よろしく」
さっきとは打って変わって口調は弱気で声が揺れていた。
母に背を向け黙々と拭き作業を続けた。
「携帯落ちてるよ、鞄のなか入れとくね」
どこに落ちていたのか母は親切に俺の鞄にスマホを入れた。
それと同時にほぼ拭き終わるとゆっくり立ち上がりいつもの白さを持ったーテーブルをみ見つめながら思考に入った。
岩手県で甚大な被害が出ているのは必然だろう。そこでいろはが無事かどうかをこの目で確かめたい。
ならなぜ通話が繋がらなかった?
…………ダメだわからない。
やっぱりいろはは……いやいや母さんにまた良い方に考えろ、と怒られそうだ。
でもごもっともだ。証明されてもいないことを決めつけるのは、よろしくない。
「夕飯何食べたい?」
唐突に横から声がする。
横目に窺うと感情の読み取れない母の顔が、至近距離で俺を凝視していた。
咄嗟に答える。
「何でも構いません」
するとフッと鼻で笑いながら
「何でもって答えになってないわ」
そう突っ込むと感情の読み取れない顔が優しい微笑みに変わった。しかし口の端を上げてにやついた。
「少しは元気出たかな?」
「うるせえよ」
口ではそう言う俺は胸中で、すぐ近くに家族がいることの大切さに改めて気がついた。だってこうして落ち込んでる時に助けてくれるから。
「私は漬物さえあれば十分だから」
突然話題を戻してきた。
「親なら息子に何か作れや」
「暁がお母さんに合わしなさい」
「三色揃ってねぇ食事を育ち盛りの息子に与えるなよ」
母は指を三本立たせた。
「たくあんの黄色とキムチの赤と暁落ち着け、の三色揃ってる」
「ちゃっかり俺に向かっての言葉が紛れてるよ!」
口角を上げどや顔になると短く文句ないよね暁、と勝ち誇ったように言った。
文句しかねぇよ!
「なんだぁその不服そうな顔は?」
「どうせ明日、キュウリの旧くんを岩手行くとき持ってくんだろ?」
一瞬目を見開いて俺を刮目して口を開けた。
「当たり前だよね」
右手の親指をピンと立たせて漬物最高! と珍な台詞を平然と言った。
もう呆れて言葉が出なかった。