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夜明けの小鳥


「着いたよ」


 壁の外へ出てからは灰色の建物の屋上を飛ぶように移動した。青年が再び声を上げたのは、地面に降りてからだった。

 薄汚い建物と建物の間、柱にかけられた古びたランタンに照らされて、木製の扉がぼんやりと浮かび上がっている。

 青年から降ろされた少年は、怪しげな雰囲気にたじろぐ、が。


「怖いかい?」

「っ、そんな訳ないだろっ!」

「ふふっ、良い返事だね」


 青年は躊躇うこと無く扉を開ける。


 ――瞬間、全てが溢れだした。


 人いきれで湿った空気。香辛料と肉と油と酒の混じった匂い。あちこちに吊るされたランプのくすんだ橙色の光。たくさんの人々が騒いでいた。足音。食器同士のこすれあう音。楽しげな笑い声。怒鳴り声。

 今まで経験したこともない量の匂いと音の渦に圧倒されて、少年は立ち尽くす。青年は得意気に少年を見やる。

 その時だ。


「あらあら、オル坊じゃない!」


 喧騒を縫って高い声が飛んできた。途端に青年が顔をしかめる。


「その呼び方はやめてくれ!」

「どうして? うり坊みたいで可愛いでしょう?」

「なんで俺がうり坊なんだ……」


 うんざりしたように青年が呻く。声の主はその傍らから現れた。真紅のドレスに身を包んだ妙齢の女性だ。


「まぁ! 学園の生徒じゃない」


 不躾な声と視線に、少年は思わず女を睨み返した。すると彼女は薄青色の目を瞬かせて。


「かわいい!」


 次の瞬間、彼女は思い切り少年を抱きしめた。


「えっ、ちょっ、何をむぐ」

「やーん! このちょっと気の強そうな感じ! オル坊がちっちゃい時よりずうっと可愛いわ!」

「なっ、なんなんだよあんた……!?」

「この人はライラさんって言ってね」


 慌てる少年をよそに、青年はどこまでもマイペースに話を続けた。


「俺がこの街に来た時に色々世話を焼いてくれた人なんだ」

「そういうことを訊きたいんじゃない!」

「あぁじゃあこう言えばいいかな」


 青年はにやりと笑った。


「しばらく君の面倒を見てくれる人だよ」

「はぁ!?」

「いやー、俺、生活力ないからさ」

「冗談じゃない! なんでこんな人と……!」

「あら、『こんな人』だなんて失礼しちゃうわね」

「失礼でもなんでもないだろ! いきなり抱きついてくるなんて!」


 少年の言葉に、女はピタリと動きを止めた。


「じゃあ貴方は『こんな人』に世話されなかったらどうするのかしら」

「それは……」

「壁の外に出なくちゃいけなくなった自分が可哀想、って一人でいじける?」


 少年は言葉に詰まって顔を俯けた。彼女の言葉は容赦がない。冷たくはないが、暖かくもなかった。

 彼女が小さく鼻を鳴らす。


「どうせ壁の外は野蛮な場所だって教えられてきたんでしょう? 自分の目で見たこともないくせに決めつけるのは一番良くないことよ」

「じゃ、じゃあどうしろっていうんだよ」

「そんなの決まってるじゃない。この壁の外のことを知って判断すればいいのよ」


 不意に女は立ち上がった。不思議に思った少年が目で追うと女がにこりと微笑む。


「あなたはまだまだ子供なんだから、たくさんのことを学べばいい。その学ぶ機会を作るのが私達大人の役目だわ」

「学ぶ……?」

「まぁ見てなさい。絶対に外の世界が好きだって言わせてやるんだから!」


 女は返事も待たずに人混みに消えていった。呆然とする少年の耳に、苦笑交じりの青年の声が届く。


「びっくりしただろう? 彼女はいつもあぁなんだ……俺も初めて会った時はびっくりしたよ。壁の中にはいないタイプの人だったし」

「え……?」


 まるで自分が壁の中にいたことがあるかのような発言に、少年が声を上げた時だった。

 不意に拍手と口笛が響く。見れば、ぽっかりと空けられた部屋の一角に、あの女性が現れたところだった。壇上にゆっくりと上がり、一礼して顔を上げる。自信に満ち溢れた表情だ。微かな笑みのせいか、ひどく惹きつけられる。

 彼女は静かになった部屋でそっと口を開き……そうして少年は、どきりとした。

 彼女が、歌い始めたからだ。

 隣の家に住む男の子にずっと恋をしていて、でも恥ずかしくて言えない。それだけの大したこともない歌。

 だというのに、彼女が恋する少女の気持ちを恥ずかしげに頬を赤らめて歌えば、はやし立てるような声が飛ぶ。彼女が鈍感な男の子のことをおどけて歌えば、笑いながら他の人間が手拍子をとる。

 それは、彼女の時だけではなかった。

 彼女が歌い終えた後、次から次へと他の客が歌い始めたのだ。

 腕っ節の強そうな中年の男性が、腰の曲がったお婆さんが、若い仕事仲間の男が二人組で。挙げ出したらキリがないくらいたくさんの人間が、かわるがわる歌う。その度に聞いているものは笑い、野次を飛ばし、手元の机を叩いて勝手に伴奏をつけて盛り上がる。

 どれもこれもひどい音程だし、ひどい音量だ。

 それでも、少年は釘付けになった。心が騒ぐ。人々の感情が少年の中の何かを揺さぶってくる。

 壇上の近くにいた女が、どうだと言わんばかりに微笑む。その笑顔は眩しくて。


「外の世界は好きになれそうかい?」


 少年は我に返った。青年が面白がるように少年の方を見つめている。少年は顔を赤くしながら目を逸らした。


「そ、そんなに簡単に好きかどうかなんて分かるわけ無いだろ」

「ふふっ、そうだね。そうかもしれないな」


 見透かしたような青年の口調に少年は唇を尖らせた。

 歌と心地良い喧騒が二人の間に落ちる。視界の端では、酒場の人たちに引っ張られて、再び女が壇上に上がっている。


「……ねぇ」


 今度は少年が口火を切った。


「なんだい?」

「なんで僕を助けたの?」

「……助けて、って言ってくれたからだよ」

「それだけ?」

「それだけ。それはとても勇気のある行動だと思うから」

「…………」

「分からないって顔してるね。うん、でもそれでいいと思うな」


 青年は優しく笑った。じわりと目元が熱くなって少年は慌てて俯く。小さく鼻をすすった。青年は何も言わない。なにか言ってくれればいいというのに。そっと、頭を撫でてくるだけで。

 再び女の歌声が響き始めた。知らない言葉だ。それでも穏やかな歌声は鼓膜に染みて、少年の中の凍りついた何かを少しずつ溶かしていく。

 溶かして、そして。


「……オルフェ」

「なんだい?」


 深い色の目が、少年を見つめた。その視線を受け止めて、少年は口を動かす。


「お願いがあるんだ」

「なにかな?」

「……連れて行って、欲しい」


 あの、大樹のところに。



###



 青年に連れられ、大樹の近くの壁の上に立ったのは、夜も随分更けてからだった。


「…………」


 空気はひどく冷たく、澄んでいる。

 少年は静かに白い息を吐いて、上を見上げた。

 壁の上から見ても、なお果てが知れないほどに大樹は大きい。

 星の瞬く夜空をほとんど覆い隠した木陰は、優しい闇色に染まっている。涼やかな風に乗って、枯れ葉のざわめく音が届いた。大樹もまた、歌っているのかもしれない。

 少年はそっと目を閉じる。代わりに静かに唇を開けて、ゆっくりと息を整える。

 歌えないかもしれない、とは不思議と思わなかった。ただ歌いたい、とだけ思った。だからこそ、青年に連れて来てもらったのだ。


 酒場で楽しげに歌う人々を見て。

 自分もあんな風に歌いたいと、思ったから。


「――――、」


 少年はゆっくりと唇を動かした。

 夜闇に響く旋律は、独唱ソロで歌うはずの歌だ。堅く、古めかしい言い回しで飾られた歌詞。

 そこに想いを乗せる。悲しかったことも。辛かったことも。壁の外は案外悪くないのかもしれない。そう思ったことも。

 自分のありのままの気持ちを、伝えたい想いを、込めて。


 ――なら、伝えてあげればいい


 風もないのに枯れ葉がざわめいて、大樹が囁いた気がした。お前ならきっと出来るはずだ。手伝おうじゃないか。私も、と。

 瞼の裏に青い光が舞った気がしたのは、その時だった。それを追いかけて、歌を紡ぐ。時節掠れながらも、止まることなく空気を震わせ続ける。この世界のすべての人に届くように。



 綺麗に歌えなくなったって。

 いらないと言われたって。

 それでも……それでも、生きたいと思った、その気持ちを、伝えられるように。



###


 それは、突然のことだった。

 葉が落ちる。樹がざわめいて枯れ葉が消えていく。その傍から新しい若葉が生え始める。

 けれど、それだけじゃない。


「……すごい……」


 青年は感嘆の声を上げた。

 光が、舞い始めたからだ。

 淡い青い光。青というよりは蒼だ。青年の記憶にある宵闇色とは違う。


 朝日が登る直前の、夜が残す最後の色。透明で深い空の色。


 そんな蒼い灯が、まるで蛍のように大樹と少年自身から現れ、いくつもいくつも舞い上がる。

 きっと国中に、この優しい蒼の光は届いているだろう。これを目にした者は、何かを思わずにはいられない。青年は誰に言われるでもなくそう直感して。

 優しく目を細めて呟く。



###



「いい歌ね」

「ライラさん?」

「あ、ごめんなさい。こっちの話よ」


 戸締まりを終えた酒場の外。

 奇しくも青年と同じ言葉を呟いたライラは、蒼の光が舞う夜空から目をそらした。不思議そうな顔をした酒場の店主に笑いかければ、ならいいが、と彼は続ける。


「それにしたって驚いたなぁ。これ、大樹が光ってるって奴なんだろう?」

「そうね。歌が捧げられ、大樹がそれに応じる時、大樹は美しく輝く……だったかしら?」

「そうそう! ただの伝説だと思ってたからさ。爺さんが酒飲み過ぎた時によく話してくれてたよ」

「ふふっ、楽しい思い出ね……あぁ、そういえば、さっきお願いしてたことなんだけど」


 ライラの言葉に、酒場の店主が一つ頷いた。


「大きな布が欲しいってやつかい?」

「えぇ。色なんだけど、この光みたいな蒼がいいなって思って」

「この光みたいなねぇ……家内の店にあるかなぁ……」

「無理言ってごめんなさいね。でも出来る限り探してみて」

「それはまぁ、構わんが」


 そこで店主は少しばかり首を傾げた。


「それにしても、いきなり大きな布が欲しいだなんてどうしたんだい? しかも蒼なんて……ライラさんは赤い服が好きなんだろう?」

「あぁ、今回は私の服を作るわけではないの。コートを作りたいのよ」

「コート?」

「えぇ、男の子が家に来るから」

「へぇ! どんな子だい?」

「そうね……」


 ライラはもう一度空を見上げた。

 夜空に舞う、夜明けの蒼の光。

 それにあの少年の姿を垣間見た気がして、自然と彼女の顔がほころぶ。


「素敵な歌を歌う、勇気のある小鳥さん、ってとこかしら」


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