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宵闇色の悪魔

 青い空に鐘の音が鳴り響く。涼やかな風にのって、かすかに聞こえてくるのは朝の合唱コーラスの歌声だ。そして色あせた木の葉のざわめく音。

 それは自分の部屋で迎える、いつも通りの朝だった。だというのに、慣れ親しんだ空気の中で少年は一人立ち尽くす。

 喉元を押さえて。


「そん……な……」


 真っ青な顔で呟く。その声は聞くに耐えないほど掠れた耳障りな声だ。信じられなくて、知っている曲を口ずさんでみる。けれど昨日まで学園一と言われた歌声からは程遠い声が出るばかりで、怖くなって口を閉じて。


「歌えなくなったんだね?」


 背後かかった声に少年の心臓は跳ね上がった。

 慌てて振り返れば、窓辺に見知らぬ青年が腰掛けている。茶色の髪と同じ色の目。だが何より目を引くのは、ゆらりと風に揺れるコートだ。

 宵闇色のコート。


「あんた……誰だ?」

「俺はオルフェ」

「オル、フェ?」

「そう……君たちが言うところの悪魔だよ」


 噂話が少年の脳裏をよぎった。悪魔は生徒の願いを叶える。けれど決してその言葉に乗ってはいけない。壁の外へ連れだされてしまうから。

 少年はぶるりと体を震わせた。青年が目を光らせる。


「ねぇ。君には叶えたい願いはないのかい?」

「っ……」

「もう一度歌えるようになりたいとか」

「っ、僕はまだ歌える……っ!」


 顔をしかめて叫ぶ。だがそれさえも面白いと言わんばかりに青年はにこりと微笑んだだけだった。


「また来るからさ、それまでに考えておきなよ」

「来なくていい!」


 笑いながら青年は窓の向こうに消えた。少年は慌てて窓辺から外を覗きこむが、はるか下に見える地面と目の前の大樹以外に何も見えない。


「なんなんだ……」


 狐につままれたような気持ちで少年が独りごちたところで、朝食を知らせる鐘の音が鳴り響いた。



###



 野菜と果物ばかりの朝食をトレイに載せて少年は席についた。楽しげな生徒の声でざわめく食堂の片隅。一人で座った少年は懐から出した本を広げる。そうしてふと、天井を見上げた。

 目に飛び込んできたのは真っ白な吹き抜けの天井と、そこから吊るされた大きな垂れ幕だ。緑の布地には青い光を纏った巨大な大樹が織り込まれていて、その下には金糸で巨大な文字がこう描かれている。

『ユグルの祭り』


「いやぁ、あと二日かぁ……!」


 傍らから聞こえた声にそそくさと少年は手元の本に目を落とした。適当にフォークで刺した野菜を口に入れたところで、少年の横にトレイが置かれる。

 ユジだ。


「今日も朝から教科書か? 祭り近いのに変わんねぇな、パートリーダーさん」

「……別に」

「かぁーっ! やっぱり学園一位ともなると落ち着いてんな!」

「お前だってもう何回もやってるだろ」

「回数の話じゃねぇよ。お前は独唱ソロやるじゃんか。普通緊張とかするだろ?」


 ユグルの祭りではこの学園の中心に存在する大樹に歌を捧げる。歌には様々あるが、少年はその祭りの中で独唱ソロを歌わねばならないのだった。

 ユジの言うところの心配は、ない。けれど……無意識の内に喉に触れそうになった少年は、慌てて手を引っ込める。


「ユグルの祭りって言えばさぁ、この話知ってるか?」

「この話?」

「大樹の話」


 噂好きのユジは、齧りかけのりんごを片手に少し声を潜めた。


「もうすぐ枯れるんじゃないかって」

「……馬鹿だな、だから祭りがあるんだろ?」


 呆れながら少年は答えた。

 大樹といっても普通の植物と同じだ。冬になれば葉は枯れる。特別なのは新たな若葉をつけるのに歌が必要ということだけなのだ。何も深刻な話ではない。

 しかしユジは首を横に降った。


「葉っぱじゃなくて、樹自体が枯れるって意味だよ。昔は歌うと大樹が光ったらしいぜ? でも、今は歌っても光らないだろ。それが枯れてるって証拠らしい」

「……お前、もうちょっと疑った方がいいぞ? この前だって最後に大樹を光らせたのは悪魔だ、って言って先生に怒られてたじゃないか」

「違う違う! 大樹を光らせた少年が悪魔になった、って言ったんだ!」

「同じことだろ」


 鼻先で笑い飛ばせば、ユジはぷうと頬をふくらませた。


「なんだよもう……! 折角先生たちがお前に期待してるって教えてやろうと思ったのにさ」

「俺に?」


 驚いてまじまじと見つめると、ユジは嬉しそうに頷いた。


「ここ十数年の中でも特にお前は優秀だからな。 だから先生たちは期待してるんだよ! 大樹を本当の意味で復活させてくれるかもしれないってさ。いやぁ、友人として鼻が高いね、俺は」


 無邪気なユジの言葉に少年は腹の底が冷えたような気がした。

 


###



 その日はじりじりと時間が過ぎていった。

 午前の講義が終わり、講堂で午後の歌のレッスンが始まる。いつも通りのことなのに、ひどく時間が流れるのが遅い。

 それもこれも、喉の調子が一向によくならないからだった。それどころか、どんどん悪くなっていっている気さえする。


「諦めてしまいなよ」


 不意にそんな声が響いたのは、少年が講堂へ向かって歩いていた時だ。

 驚いて辺りを見回すが、廊下に見えるのは楽しげに話す生徒ばかりで宵闇色のコートなんてどこにも見当たらない。

 勿論、それでいいはずだった……が、何となくからかわれているような気もして。諦めてたまるか。少年は唇を噛み締め、急いで講堂の中に入る。


 練習は、もう始まっていた。


 真っ白な柱が幾本も並び立ち、ドーム状になった天井の窓からは煌めく日差しが降り注ぐ。

 現実離れした澄んだ空気の中で、他の生徒達が女教師の弾くピアノに乗せて合唱の練習をしていた。その中にはユジも混じっている。真剣そのものの表情には、食堂で目にした屈託さなど欠片もない。

 息遣い。震える空気。高く澄んだ、感情さえ感じさせない聖なる歌声。響きあって重なりあう幾つもの声は学園に鳴り響く鐘のようにどこか人を寄せ付けない。そうだ、これだ。これこそが自分が出すべき声なのだ。じっと耳を傾けながら少年は必死に己に言い聞かせる。合唱の練習が終わるまで。

 やがて壇上の教師が少年の名を呼んだ。

 いくつも並んだ長机の脇をすり抜けて歩いていく。衣擦れと足音がやけにはっきりと聞こえた。講堂中が静かになり、壇上に上がった少年に視線が注がれる。

 心臓が狂ったように鳴り出すのを何とか無視しながら、少年は拳をそっと握りしめた。

 そしてピアノの音が流れ始めて。


「……!」


 真っ白な講堂に響く、引き攣れた声。

 誰よりも先に異常に気づいたのは少年自身だ。慌てて声を止める。喉元を押さえる。

 けれど、駄目だ。駄目だった。

 生徒たちが不審な視線を向けてざわついている。

 とうとう伴奏も止まる。


「レイ・アグリア君?」


 ピアノを弾いていた教師が顔を上げて少年の名前を呼んだ。彼女の堅い声と尋ねるような視線に講堂が一気に静まり返る。

 返事をしなければ、と少年は直感的に思った。けれど考えれば考える程、唇は意味もなく震えて、全身を巡った冷たい予感が体を強ばらせて。


「レイ・アグリア君? どうしたのです?」

「っ、あ……」

「その、声」


 教師は驚いたように言葉をきる。彼女の視線が、不快と恐怖の混じったものにかわった。

 少年はふらりと一歩後ずさる。

 やけに息が上がって掠れた空気だけが口から出入りしている。いっそ息なんてできなくなればいい。いますぐにこの耳障りな呼吸が止まればどんなに救われるだろう。そう思う。思うのに。


「……使えない子ね」

「っ……!」


 少年は踵を返して駈け出した。驚いたような生徒の群れをかき分け、講堂の外に飛び出す。目の前に広がるのは人気のない廊下だ。少年は一瞬足を止めそうになる、が。


「やっぱり駄目だったね」

「駄目なんかじゃない……っ」


 また青年の声だけが聞こえてきた。怒鳴り返して少年は走り始める。行き止まりになったら適当な階段を登る。時節、少年を探すような騒がしいやりとりが聞こえた。その度に物陰に隠れ、やりすごしてから走りだした。

 それからどれだけ経っただろうか。

 階段が途切れ、道がなくなる。少年は近くの小部屋に転がり込んだ。薄暗い部屋は物置だ。壁に一つ窓があるばかり。入ってくるのは緩やかな風と橙色の光。肩で息をしながら、部屋の奥の暗がりに進んだ少年はそれを見つめ。

 背後で、小さな物音がした。

慌てて振り返る。視線を向ける。先生だろうか。そう思ったが違った。

 そこにいたのは、青い顔をしたユジで。

 ほっとしかけた少年はしかし、ユジの手に握られているナイフを目にして身を固くする。


「ど……して……」

「だって……歌えなく、なったんだろ」


 ややあってからユジが返した。感情を感じさせない乾いた声。信じられない思いで少年が見つめる中、ユジの声は続く。

 先生が言ってたんだ、と。


「歌えなくなった子供は病気だから、殺さなきゃいけないって。でないと俺たちも歌えなくなってしまうって」

「な、何言ってるんだよ……! でたらめだ!」

「じゃあさっきの歌はなんなんだよ!」


 ユジは少年をきっと睨みつけた。少年は言葉に詰まる。そんな彼を軽蔑の眼差しでユジは見つめる。


「おれは……俺は嫌だ! お前みたいに歌えなくなるのは!」

「っ……そんなの……僕も同じで、」

「じゃあ分かるだろ! これ以上迷惑かけないでくれよ!」


 めい、わく。その言葉がずん、と胸の奥に響いた。体中が痛い。ユジの握る刃はまだ自分を傷つけていないのに。


「……い……やだ……」


 少年はふらりと一歩後ずさる。

 ユジは決して近づいてこようとはしなかった。夕日でさえ、今やユジ一人を照らすばかりだ。こちら側は暗い。あまりにも暗い。

 一人だ。自分は、一人なんだ。一人になってしまった。真冬の凍てつく寒さのように密やかに心が凍りついていく。それは止めようがなくて、止めようとも思わなくて。

 ユジに、一体何を期待していたんだ。

 そう思った瞬間、ぎりぎりで耐えていた何かが、めちゃくちゃに壊れて散らばってしまう音がする。


「……っ!」


 なけなしの力を振り絞って少年は駈け出した。ユジが驚いた顔をして、慌ててナイフを構え直すのがちらりと見える。

 けれど、もうどうでもよかった。ユジと自分の間にある窓枠に手をかけ飛び乗る。

 風が吹く。枯れ葉のざわめく音。茜色の空気の中で地面は遥か下だ。

 躊躇ったのは、一瞬。

 目をぎゅっと閉じた少年は足元の窓枠を蹴ろうとして。


「――本当にそれでいいのかい?」


 声が、降ってきた。

 少年は、はっとして顔を上げる。

 大樹の枝に青年が腰掛けていた。逆光のせいか、彼の表情はよく見えない。ただ、深い色の瞳が見えるだけだ。何もかも見透かすような、透明な光を宿した目。

 その目に映る、張り詰めた顔をした自分が、見えるだけで。


「……わけ……ない……」


 ぽつりと呟いた言葉はそのまま少年の鼓膜を揺らして、体を震わせた。ぐらりと揺らいだのは、折角決めた覚悟だ。あぁ、折角決めた、決めることが出来た、最後の覚悟なのに。


「いいわけないだろ……っ!」


 少年はくしゃりと顔を歪めた。


「僕だって生きてたいよ! 死にたくなんかない! でもどうしようもないじゃないか! 使えない、って言われたんだ! 迷惑だって……! だからっ……だから……っ」

「…………」

「……ッ、助けてよ……っ!」


 少年は、叫んだ。

 風が一際強く吹く。枯れ葉のざわめき。翻る宵闇色のコート。青年の表情は変わらなかった。ただ、その唇だけが確かに動く。


「――いいよ」


 青年の手が伸びる。その手を少年は何も考えずに掴む。悪魔、と怯えたように叫ぶユジの声が遠く聞こえた。けれどそれがどうしたというのだろう。

 躊躇うこと無く少年は窓枠を蹴った。浮遊感は一瞬だ。そのまま青年に抱きかかえられる。

 青年は大樹の枝の上を駆けていった。枯れ葉が散る。程なくして視界が開ける。すぐ足元に真っ白な線。

 いや、線ではなく分厚い壁だ。少年がそう認識した時には、青年は壁に降り立ち、そして壁の外へ身を躍らせた。

 境界は、あっさりと超えられる。

 それまで誰も出たことがなかったのが嘘みたいに、なんの前触れもなんの手続きもなんの合図もない。一瞬だけ見えたのは空だ。

 夕日が投げかけた鮮烈な朱と、夜が追いかけていく群青色が交じりあう空。

 空っぽの心に、ひどく染みる色だった。


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