少年は笑う。
「ねえ、大丈夫」
心配そうな声音で問いかけられる。同時に、ハンカチが差し出されていることに気づいた。大の字で目を閉じていたので、だいぶ時間が経ったように思えたが、実際は十五秒くらいしか経過していなかったのかもしれない。僕
はハンカチの主の顔をあらためる。というか、わかっていた。憧れ続けた人の声を忘れるはずがなかった。声は、主の優しさを体現するかのように柔らかだった。
藤崎奈々子が、ピンク色のハンカチを片手になおも心配そうな表情で僕のことを見つめていた。
「ええ、ああ、うん」
そう言って、殴られた場所を触ろうとしたが、藤崎さんがそれを慌てて止める。
「ダメ、さわっちゃ。青くなってるから」
藤崎さんは僕の腕を取り、起き上がるのを助けてくれた。
「保健室行こう。あと先生にも言わなくっちゃね」
「大丈夫だよ、これくらい」
「なに言ってるの! あとが残ったらどうするの!」
強がる僕に、藤崎さんはなかば本気で怒っていた。好きだった人と、やっとまともに話せたと思ったら、こんな状況だとは情けない。そう思うと、僕は女の子に介抱されていることが途端に恥ずかしくなった。慌てて、クラスメートたちの顔を見回す。
「えっ」
そこには、僕の予想とはまったくべつの光景が広がっていた。男子生徒も女子生徒の間にも嘲笑の笑みはなく、一様にみんながどこか罰のわるそうな、申し訳なさそうな顔をしていた。
ごめんな、助けてやれなくて。いまさら白々しいが、そう言っているような気がしないでもなかった。
「高見くん」
藤崎の声に振り向くと、彼女は持っていたハンカチを僕の目もとに近づけた。そして、右目と左目のあたりを軽く順番にぬぐった。そっとした柔らかい手つきだった。
「殴られたくらいで男が泣いてちゃ、格好わるいぞ」
いたずらっぽい表情で言うと、藤崎は僕の腕を取り、教室を横切った。
しばらく廊下を歩き、教室棟を出ると不意に立ち止まった。
そして、クルリと振り向くと、最高の笑顔でこう言った。
「でも、ちょっと格好よかった」
「どっちだよ」
僕は照れ笑いを浮かべながら言った。
結論を言うと、僕はその日から嘘のようにいじめられなくなった。一度だけ、あのふたりがちょっかいをかけてきたこともあったが、僕が「やめろよ」と強い声音で言うと、意外にもあっさりと引き下がった。
意味がよくわからなかったのである日、保健室に送ってもらって以来、ちょこちょこはなすようになっていた藤崎さんに正直に打ち明けてみた。
すると彼女は声を出して、おかしそうに笑った。
「なんだよ、なにがおかしいんだよ」
「えっ、ごめん、ごめん」
そしてコホンとひとつ咳払いをはさみ、藤崎さんは言った。
「いじめはね、勇気のない人がいちばんターゲットにされやすいの」
「勇気?」
「そう、勇気。そしてあの日、高見くんは、大塚くんや宇野くんに勇気を見せつけた。だからいじめられなくなった。それだけよ」
「でも……」
納得できないように僕は、つぶやき、
「でも、僕はたしかに大塚に挑んだけど、一発で倒されちゃったんだよ?」
と疑問を露わにした。
「ちがう。そうじゃないの」
「どういうことさ」
「私は勇気のない人がねらわれると言ったわ。決して、弱い人がねらわれると言ったわけじゃない」
得心がいかない僕の表情を見て、藤崎さんはもういちど笑った。
「フフフ。まだ私の言っていることがわからないみたいね。だからね、大塚くんとの喧嘩に勝つことが大切ではないの。大塚くんと逃げずに喧嘩をすることができると、示すことが大事なの」
「そういうもんかなあ」
「そういうものよ」
そして会話の流れで僕は、じぶんでも信じられないような打ち明けばなしをしてしまった。いまでも、なんでこんなはなしを藤崎さんにしたのかわからない。ただ、秘密を共有したような気になれて、少し嬉しかったのはたし
かだ。
「そういえば、あの日の少し前、僕、変なできごとに遭遇したんだ」
「変なできごと? なにそれ?」
「うん、笑わないでくれよ」
「笑わないわよ」
「えっと、どこかはなせばいいのかな。ある日の学校帰り、おかしなやつと出会ったんだ」
「どんな人だったの?」
「なんていうか、真っ黒いスーツを着て、やたら丁寧な口調で話す男でさ」
そこで藤崎さんは、驚きで目を見開いた。両手を口もとにあてがっている。
「私、その人のこと聞いたことある!」
「えっ、どこでさ?」
「高見くん、知らない? この辺りの都市伝説というか噂で、喪服の紳士の男に急に声をかけられた子どもは不幸になるっていう」
藤崎さんは目を輝かせている。案外、この手の与太話が好きなのかもしれない。
「ええ、うらやましいなあ。で、どうだった?」
「どうだったって、なにが?」
「だから、ほんとに不幸になったの?」
じれったそうに藤崎さんは聞く。
「うーん、むずかしいな。実は僕、その男にこんなのもらったんだ」
ポケットの中から地球破壊爆弾を取り出し、手のひらにのせる。ドクロマークを藤崎さんのほうにむけた。
「ええ! すごーい」
藤崎さんは、先ほどより好奇心で目を輝かせて、爆弾をのぞきこむ。
「それで、これはなんなの?」
「地球破壊爆弾」
「ええ!?」
思ったよりもはるかに大きな反応だったので、僕は慌てて付け加える。
「いや、たぶん、ただのイタズラだと思うよ。さっきの噂を聞きつけて、子どもをびっくりさせようとしただけかもしれないし」
ヨオゼルが最後は透明になって消えた事実は伏せておいた。そんなことを藤崎に教えると、仰天して失神してしまうかもしれないとなかば本気で心配したからだ。
「まあ、たしかに、そうかもしれない。というか、そう考えるのがいちばん現実的よね」
言葉とは裏腹に、藤崎さんは残念そうだ。
「それで暗いはなしになるけど、僕はいじめられているとき、自殺してやろうかと思ったんだ」
藤崎さんは答えなかったが、目は打って変わって真剣そうな色が灯っている。
「けど、だんだん、なんで僕が死ななきゃいけないんだ。なにもわるいことしてないのに。あまりに理不尽じゃないか、と思いはじめてさ」
「うん、もっともだね。けど、ごめんね。助けてあげられなくて」
「いいよ。藤崎さんは、僕のことを笑わなかったし。それで、どうせならみんなを巻き込んでやりたいと思ってしまったんだ僕は。そうだ、いざとなったらみんな滅ぼせる。ゼロにしちゃえると思ってね。そうなると、途端に怖
いものがなくなって。大塚も宇野も、なんだ大したことないじゃんって。だって、僕はいざとなったらゼロにしちゃえるんだもん」
「なるほどね。それが高見くんが急に勇気を持ったわけだったのね」
「変なやつとか思わない?」
心配そうに聞く僕に、藤崎さんは強い口調で言った。
「思うわけないよ。きっかけは爆弾でもなんでもよかったのよ」
「うん。そうだね」
僕は空を見上げ、うんと背伸びをした。そしてふと思った疑問を口にした。
「でもさあ、けっきょくこの爆弾は本物だったんだろうか」
「どっちでもいいんじゃない。高見くんがちょっとでもそれをきっかけにして、勇気を持てたんなら」
「それもそっか」
僕は視線を下ろして、爆弾に描かれたドクロマークを見た。
私の出番がなくてよかったです。
そう言ってるように思えて、少し笑った。
「ほんとそうだよ」
「うん、なにか言った?」
藤崎さんが問いかける。
「いいや、なにも」
少なくとも僕は、喪服の紳士との出会いで不幸になることはなかった。
第一部完結です。ひとまず、最後まで読んでいただいてありがとうございました。小説を書くことじたいがひさびさで、リハビリのつもりで取り組んだ作品ですが、わりとじぶんでも楽しんで書けたと思っています。一応、第二部以降の構想もありますが、まだ執筆はしておりません。気長にお待ちいただければ、嬉しいです。




