韓非子(かんぴし)
この話の韓非子は男装女子で僕っ娘です。
李斯視点。
別に家は貧しかったわけじゃあないが、名家というには程遠かった。
まあ、通常のやつなら満足できる士族階級。けして悪かぁない。
だけどオレの立場としては不満だった。
郷里で一番の天才児。そのくせ腕っ節もけっこう強くて女の振り向く男前。
なんで小役人程度に収まっていられるかい。だから就学目的で街に出た。
都会はいいねぇ、お姉ちゃんが綺麗だ。うかうか遊び暮らすのも楽しそうだが
大志を抱く身としてはさっさと師匠を決めざるを得なかった。
たどり着いたのは荀子先生。たけのこじゃないからな。勘違いするなよ。
一応、儒家ではあるけれどその思想はちょいとばかり変わっていた。
「人はもともと悪いもんじゃ。だからこそ礼によって性根を叩きこまんといかんのじゃ」
思うに先達の儒家である孟子の「性善説」に対抗したんだろ。
そっちもけっこう幅を利かせた学説だがオレはうちのセンセの説のほうが性に合う。
人間なんてもとからろくでもない。
まあ、何やかやでもともと天才的に頭のいいオレはあっさり頭角を現して、
並み居る先輩たちも一目おかざるを得ない存在となった。
「裏の邸にさ、人来たの知ってる?」
酒飲みながらだべってる時に一人がそう言った。
「知らねェ。誰だよ、それ」
「王族らしいよ。小国の韓のだけど。師匠が勢い込んでる」
「けっ」胸くそ悪りぃ。
「学問に王道なしじゃねえのかよ。挨拶もなしで引きこもって師匠の方から訪問か。
何様のつもりでいやがる」
「だから王族だって。妾腹らしいけど」
「なんであろうと学ぶ時は学問所に来て意見を交わして共に学ぶのが筋じゃねえか。
気取ってやがる」
ぐっ、と緑に濁る酒を煽った。
「ちょっと行って説教してやる」
「おい李斯、酔ってんじゃね?」
「酔ってねえ、酔ってねえ」
で、忍び込んだのがその邸だ。小さいながらも俺たちの詰め込まれたボロ屋とは段違いで
床は磨いてあるし、銀の香炉から品のいい匂いがする。
俺は不機嫌に部屋に入り込み、そして出会った。
「…………」
落ち着いて考えてみたらあたりまえのことだ。妾腹ってことはそいつの母は王の寵姫なわけだ。
もちろん美女に決まっている。母親に似てるってよくあるよな。その上高貴なお育ちなわけだから。
「だ、だ、だ、誰?」
そこらの娼家じゃお目にかかれない美貌の主が唇を震わせた。
「ひ、ひ、人を呼……」
呼ばれちゃ困る。俺はとっさにそいつの口をふさいだ。
そのやわらかさに驚いて思わず抱き寄せるともっと驚く羽目になった。
「おま……女………」
「黙ってて!」彼女は叫んだ。
「そもそも儒家の思想が古すぎると思う。堯だの舜だの当時は理想的だったかもしれないけれど、王様だって獣の皮着て木の実や雑草食べていた時代だからね。今とは違うよ」
よってきた赤犬を撫でながら韓非は言葉を続けた。
「でも荀子先生の発想はわりにいいと思う。だからわざわざ留学したわけだけど。
しかし発展のさせ方が凡庸だ。礼によって教育し矯正するなんて無駄だよ。
むしろその欲望を利用して操ってやったほうがいい」
韓非はその外観に似合わず無茶苦茶辛らつなヤツだった。物の見方がパネぇ。
夢も希望もかけらも探さずに現実を見据えて対処法を探す。
「おまえ、むしろ法家の思想に向いてんじゃねえ?」
「わかる?うちの国の申不害を尊敬してるんだ。韓てさぁ、中央にあるけど小さいから。まだつぶれてないのは昔宰相だったあの人のおかげだよ」
少しうつむく。
「だけど王族には評判悪いんだ。俗っぽいって。だから儒家のもとにしか留学できなかった」
「特権を持つやつらには恨まれるからな。秦の商鞅も最期は悲惨だったし」
辺境の田舎国家を絶好調の新興国に変えた商鞅は代が変わった途端に殺された。
「秦は物騒だね」
「だが成り上がるならあの国に限る。他は氏素性のないやつなんて結局は信頼されないが、
あの国は野蛮で面白い……ごめん」
韓非の国は秦に狙われている。それを避けるために彼女は必死で学問をつんで進言しているが
その父、安はそれを取り入れようとしない。
風が木の葉を吹き上げる。オレたちの連れてきた犬はそれを追って走っていった。
「有能な妾腹なんて周りには迷惑なだけだからね。それでも、女であるよりはいい。
ほうびかつなぎにされるだけだ」
「ばれてねーの?」
「母上は王座乗っ取る気満々だからね。正室の一族はきっついから無理だと思うけど」
風が衣の袖を翻す。少年めいた清潔さと寵姫の美貌が不思議に溶け合っている。
「ま、内心びくびくだ。吃音もそのせいだと思う。君の前じゃでないしね」
見上げて微笑む口もとに胸が躍った。
「……捨てちまえよ。おまえのことを認めない国なんて」
オレもけっこう馬鹿じゃねーつもりだったけれど、こいつの前ではそうは言えない。
こいつの話を聞き、こいつの文を読むとわかる。天才とは紛れも無くこいつのことだ。
性別も生まれも関係ない。
韓非は腕を延ばしてオレの首を捕らえ顔を近づけた。葉鳴りに紛れてくちづける。
しばらく見つめ合ってそれから目を反らした。
「無理。僕は国を捨てられない」
彼女はオレの髪に指を絡めた。
「……それより君が韓に来てくれれば……」
今度はオレが目を反らした。
彼女の家臣になり共に暮らす。それはひどく魅力的だった。
だが、それでいいのか。その才も、身分も彼女に劣り、一生彼女の庇護下にいることが幸せか。
オレの中の何かが叫ぶ。そのごみのような矜持をオレは捨てられない。
折れそうに強く抱きしめた。
「……いつか、おまえに似合う立場になったら迎えに行くよ」
彼女は答えなかった。ただ目を伏せて、熱い涙を一滴こぼした。
「本気だ。絶対迎えに行く」
「期待しないで待ってるね」
無理やり微笑んだ顔が妙に儚げだった。不安をごまかそうとオレは軽口を叩いた。
「そっちこそ大丈夫か?がんばって迎えにいったら誰だよ、こいつって顔で見られるんじゃねえの」
「ないない」
「そんなことになったらオレ純情だから殺しちゃうかもしれないよ?」
「ないって」
「別に男を作ってもやっぱ殺すよ」
「ないってば」
赤犬が山鳥をくわえて帰ってきた。オレたちは犬を誉めてやり、頭を撫で回した。
別れるときも別にお互い泣きはしなかった。
ただ見つめ合って、互いに手をあげて、右と左に別れた。
振り返らなかった。振り返ったら負けだと思った。
そして、彼女の足音は次第に遠くなり消えていった。
その日も風は吹いていた。
たぶん毎日風は吹く。
あの日から、ずっと。