雨の日、夢の中
大きく息を吐いた。
灰色に染まった空はあたかも青色を隠すように、いやらしくも空を覆い、追い抜かれそうな焦燥は腹の底からぐつぐつと煮え湯のように燃えたぎりながらあてのない出口を目指してせり上がってくる、まるで僕の中など居たくはないかのように熱く熱く迫り上がる。
ポツポツとコンクリートを打つ雨が濁流のような勢いを増し、先ほどまで空を覆っていた雲はずんずんと厚みを帯びていく、どうにも威圧感と共に頭上に重くのしかかる。
重圧だ。それは何もしない僕に当てつける重圧だと思う。
頭が痛い。
こういう日は何もしたくない。
ただただ気ままに、何も考えず、何も選ぶ事もなく、浮遊するように世界の隅で或いはこの小さな部屋の隅でうずくまって矮小である事を自覚し、すやすやと夢の中に逃げてしまえばいい。
それは逃げる事、逃避などと言うがたまには悪くない。悪くない。
そうして僕は汚い布団にうずくまり、手を足の間に挟みながら小さくなって、この世の事など忘れて僕は眠る。
四回目のチャイムが鳴った。
『雨の日、夢の中』
彼女はどうやら家の合い鍵をいつの間にか作っていたらしい。
でも僕は夢の中で、彼女が黒いスーツを濡らしながら入って来た事も、白い頬が林檎のように赤く染まっている事も見えているようで見えては居ない。
ただ、そうだろうと思い込んでいるだけで想像に過ぎないし僕は今、夢と現実の境を浮き輪を使ってたゆたって居るだけに過ぎない。
いや実際には起きているのかもしれない。でも僕が寝ていると思って居るのだから僕は多分寝ているのだ。
彼女は僕の顔を覗き込んで、小さな溜め息を吐いた。その淡い息が肌にかかって少しだけくすぐったい。髪についた水滴が僕の頬に当たって、彼女はびしょ濡れのまま油まみれの台所でやかんに水を入れて火にかける。
夏だというのに外は寒かったのか彼女は火をつけたコンロの前に手をかざし、黒い真珠のような瞳でごうごうと燃える火を見つめている。
彼女の立つ場所には水滴の後がポタポタと花火のように絨毯に広がり、部屋の中だというのに其処だけ雨が降ったかのように思える。
外はごうごうと雨足をまして台風がきたのではないかと勘違いをしてしまう。
白いコップを洗ったばかりの篭から取り出して、コーヒー豆を二杯入れてお湯を注ぐ。
真っ黒い泥水のような液体をミルクも砂糖も入れずに彼女は両手に抱えながら僕のベットの脇に置いた。
それからようやく、彼女は濡れたスーツを面倒くさそうに脱ぎ散らかして、チェストから僕のTシャツを取り出すと短い短パンとTシャツ共々着替え、ベットにもたれ掛かりながら泥水のようなコーヒーを僕のベット脇から自分の足下に置いて、何かを考えるようにそのコーヒーを包み込み飲む。
その姿は凄く卑猥だと僕は思う。
綺麗だとか神々しいなどとは思えないのに何故かその姿だけが卑猥だと感じる。
ただココで僕が起きてそういう雰囲気になるのかと聞かれたら多分違うのだろう。
彼女のその一挙一動が卑猥でありその動作こそが妖艶であり美しいのだ。
これが僕の彼女であると触れ回りたいが、恐れ多くもそれを聞きつけた僕よりも社会的地位の大きな人間が彼女を奪い去ってしまったのならば僕はココからもう二度と出ることは叶わないだろう。
此処でやはり今君は僕と居て幸せだろうか? などと問うのは野暮なのかもしれない。
彼女の世界では僕は今まさに寝息を立てているのだろうし、それを聞いた所で幸せでわないと答えられてしまったのならばどうだろう?
それこそ終わってしまうのではないか? それだけは聞くに聞けない言葉だ。
何という安っぽいプライドであろうか、何という悲しい人間であろうか。
でも僕は今寝てしまっているのだ。彼女の背中を見ながら眠ってしまっているのだ。
動く事も可能だ。まぶたを今まさに開ける事も可能だろう。でも僕はそうはしない。
それをすれば僕は君に今まで思っていた事をぶちまけてしまうのでは無いだろうか。
そうしないが為に僕はいまココで寝ているのだ。そうだ。
今世界ではこんな事をしている間にも何千という人間が死んでいる。
でもそんな世界の事などボロアパートに住む僕にとっては関係のない事だし今此処にあるのは彼女と汚い台所と少し焦げたやかんと濡れてしまった彼女のスーツと黒い泥水のようなコーヒーだけだ。
無駄な世界。僕という人間が居て彼女という人間がいる箱庭のような始まりの世界。
会社用の茶色いバックから緑色のブックカバーのついた小説を一冊取り出して、社員旅行で作ったと言った硝子と貝殻のしおりを取り出して彼女は静かに本の世界に浮遊する。あるいはその世界の住民になる。
現実と物語の境目。
活字と想像の境目。
その間を彼女は何もせず何も考えず、僕という存在を忘れて、現実を忘れて、コーヒーとメンソールの煙草だけを頭に残しながら彼女は浮遊する。
僕と同じように夢と現実の間を浮遊する。
雨音がトタンを叩く音が変速的に部屋を包み込む。
冷蔵庫の放熱ファンが気味の悪い音を立てて、水道の蛇口が一定に水滴を流しに落とす。
その音が広がり包み込みながら世界から僕に向かって閉鎖していく。
小さな小さな幸せ。オーケストラなど行けない僕らにとっての幸せ。
雨が止めば彼女と一緒に近くの河川敷を歩こうと思った。
大学の近くの河川敷はどうにも夜型の僕には厳しいけれど、それでも多分綺麗だろうと思う。
そう決めた。そう決めたけれど僕が果たして起きる頃に彼女はココに居るだろうか?
その前に少しだけ惰眠を貪ろう。それがいい。そうしよう。
おやすみなさい。