末妹の結婚、あるいは兄という生物の苦悩と苦労について
ジェーン・オースティンの「高慢と偏見」をベースとしております。
プロローグ【兄は激怒した】
「ジェーン・オーランド、僕は君との婚約をなかったことにさせてもらいたい」
朗々と響く声が告げたのは、私の破滅だった。彼、マイセン・リーンツワルトは私の婚約者だ。少なくとも、この婚約は彼の一存で破棄できるものではないのだから、この場で一方的に叫ばれたところで私たちが婚約者である事実は覆らない。
だとしても、だ。
余所様が主催した社交パーティの途上で叫ぶだなんて、非常識にもほどがある。暖炉の前でワイン片手に談笑をしていた夫人たちも、ブリッジに興じながら昨今の情勢について面白おかしく話していた男性たちも、ぴたりと声を止めてこちらを凝視している。幸か不幸か、彼と私の両親は別の部屋にいるようで、この滑稽な劇の観客の中に蒼褪めた顔は見えない。
彼の隣にいるのはこのパーティの主催者であるヴェネティア氏の末の妹である娘だ。確か名前はリディだっただろうか。何度か話したことのある相手ではあるが、いつも柔らかく笑うばかりでろくな会話をしたことがない。十人がいれば十人が可愛いと評するだろう愛らしい顔立ちをしていて、私と同じ十七歳とはとても思えないほどに幼く見える。有り体に云えば、庇護欲をそそると云うのだろう。いかにも男性が好きそうだと思うし、実際に彼女に関する噂を何人もの男性がしているのを聞いてきた。有り体に言えば、空っぽな磁器製のお人形のような少女だった。
「僕は真実の愛を見つけてしまった。君に非はないことはわかっているが、真実の愛の前に契約は無力だ。君との婚約はこの後父母にも通して正式に破棄させてもらう」
「あら、まあ」
困ったように声をあげたのは私ではなく彼の隣に佇むリディさんだった。明らかに婚約者を奪った側なのに、あの当事者意識の欠けた反応はなんなのだろう。
私は無性に腹が立って、この婚約者の頬をひっぱたいてやろうと一歩踏み出した。今日こそ読んでやろうと思っていたまま机の上に残してきた論文、マイセンに付き合わされて行った演劇の退屈さ、好きでもないのにした刺繍でできた指の刺し傷。すべてを右手に載せて振りかぶった、
その時だ。
「失礼、お嬢さん」
低い男性の声が私を引き留めた、次の瞬間。
「何をやっているかこの馬鹿妹がぁぁぁぁあああああ!!」
「ぎゃっ!」
「きゃっ!」
スパパーン! と小気味いい音が会場中に響いた。それはもう、それだけで胸がすくような気持ちよさだ。できれば私もあのくらいの張り手をかましてやりたいものだと、尊敬の念さえ抱いた。
感動で打ち震える胸に手を当てて見つめた先には、この社交パーティの主催者である男性、フィッツ・ヴェネティア氏が鬼の形相で二人を見下ろしていた。
前のめりになったマイセンは無様に頭から地面に転がり、リディさんは僅かに膝を落として頭を抑えながら涙目で彼女の兄を睨めつけた。その様さえ幼げで可愛らしいものだから、これがただの幼子への教育の一環なのではないかと錯覚する。
いや、もしかしたら実際にそうなのかもしれない。リディさんと親しくはないが、彼女の言動の幼さは少しでも見聞きしていればわかる。だからきっと長子であるヴェネティア氏はこうして何度も教育してきたのだろう。見たところ、それは実を成していないようだが。
「オーランド嬢、そして皆様、このたびは身内の醜態をさらして大変申し訳ございません。是非ともうら若き少年少女の酔狂な遊びであったのだと、流してくださいますよう」
「いやだわ、お兄様! あたしは何もしていなくってよ?」
「黙れ、愚か者」
リディさんに向けるヴェネティア氏の視線は極寒零度だったが、それ以上にその隣に立つマイセンに投げた視線は冷たかった。その温度差に私は少し幻滅したが、それでも彼はいないよりはマシな人物だっただろう。
「もうっ、もうっ! あたしはなーんにも悪くありませんのに」
「それでは皆様、引き続き今宵をお楽しみください。酒も肉もご遠慮なさることのないように! くだらない観劇にこそ酒とつまみは必需品でございますので」
役者のように大仰に、少なくともマイセンよりもずっと上手にそう纏めると、ヴェネティア氏は彼の末妹とマイセンを引きずって部屋を去って行った。あとにはヴェネティア夫人が場を取りなし盛り上げている声が響く。
私は慌てて彼らの後を追う。このごにおよんで役者の去った舞台に一人で立てるほど、私の神経は図太くない。リディさんはずっと「あたしは悪くないわ!」と主張していたし、マイセンは「真実の愛を邪魔しないでください!」と叫んでいた。きっと二人はお似合いの脳みそをお持ちなのだろう。ヴェネティア氏の苦労が偲ばれる。
三人を追って屋敷の奥へと進んでいく。ヴェネティア家は決して広くはないオズボーン領を統治する古い家系だが、それにしても随分と高そうな調度品や絵画が飾られていた。どれもこれもニスの新しさが目立つ。
ここに嫁いできた女性はきっと安泰なのだろうな、と、自身の今後を考えながら思う。残念ながらヴェネティア家には現在、未婚の男子がいない。このまま婚約が破棄されれば、私は路頭に迷ってしまうだろう。
そんな私の心配を余所に、オレンジ色の灯りの点るホールを抜けた先の扉を開いたヴェネティア氏は、その中にポーンと二人を投げ入れた。すでに私たちを話の種にしているだろう大人たちの雑談は遠く、暖炉の温かさなどここには届かない。
ヴェネティア氏は溜息を吐いて私を見やるだけで、私がついてきたことを咎めはしなかった。
彼らに続いて中に入る。マイセンとリディさんは当然のように革張りの赤いソファに座って私たちを待っていた。リディさんはともかく、いいえ彼女もかなりだけれど、マイセンも面の皮が厚い。
ヴェネティア氏は私に一人がけのソファを勧めると、自身は二人の前のソファに陣取った。よく鞣された革のソファは柔らかく、重たい心に合わせるようにからだは沈んでゆく。
そして、深い、それは深ぁい溜息を再度吐いた後、ヴェネティア氏はその反動でさらに深く吸った息のすべてを声にしたのだ。
「手順は守れと言っただろうが!!」
私はその声の大きさに彼がこの離れた部屋を選んだ理由を察し、その言葉に彼が私の味方ではないことを知ったのだった。
**********
諸君、限嗣相続と言うものをご存じだろうか?
この制度の目的は、端的に言えば資産の散逸を防ぐためのものだ。土地は代々家にこそ受け継がれ、割譲して兄弟姉妹に明け渡すことはできない。相続できるのはその家の長男であり、いない場合は親族から相応しい男を選ぶことになる。たとえ土地の維持費に金がかかろうが、それが原因で借金を作ろうが、基本的に売ることはできない。呪いのようなクソな制度である。この制度ができた原因については他国に土地を渡さないためだとかなんだとか大仰なのか狭量なのかよくわからない理由もあったりするわけだが、ここではそれは置いておこう。妹の結婚とこの話は関係ないからだ。いや、関係ないことはないのだが。
妹の結婚! それこそが現在の、ひいてはこの十年の私ことフィッツ・ヴェネティアの最重要課題だった。土地を相続できるのが私しかいない以上、私が死ねば妹たちは路頭に迷う。もちろん次の相続人と結婚するなり、それなりの関係を築けば養ってもらえる可能性はあるが、次の相続人は私の息子である。万が一にも息子に継がせることができなければ、親戚の男に継がせることになるが、妹たちはアイツを毛嫌いしていたし、何より経営手腕が我が父よりも最悪なので論外だった。私とて生まれた土地に愛着はあるのである。何せこの十年で妹や息子の他に育てたものでもあるのだから。
土地以外の財産については個人資産なのでそれぞれに渡すことはできるが、妹たちの一生を養うにはとても足りない。仮にタウンハウスを建てて住まわせてやったところで、それを維持するためにも金がかかる。幾らこの十年で領地経営が持ち直したとは言え、とても一生分の責任など負えないのである。
ならば兄として何をしてやるべきか?
そう、結婚である!
いかに金持ちで、いかに妹たちに優しくでき、いかに妹たちを養えるか。そんな相手を探してやることこそが私の、ひいては金も爵位もないジェントル階級の末端に席を置く者たちの命題なのだった。
さて、そんな四人の妹のうち、三人は順当に、いや、かなりの波瀾万丈を経験しながらも無事に結婚してくれた。私自身も無事に結婚をして長男を得たことで、この家は少なくとも次代までは安泰である。
あとは末の妹を片付けるだけ。と、思っている間に、あいつはやらかした。
ことの発端は一ヶ月前に遡る。
「お兄様、あたしを愛してくださる方を見つけましたの!」
執務室にノックもなしに飛び込んできたリディは、開口一番にそう言ってのけると、キラキラと輝く眸で相手の素性をまくし立てた。
リーンツワルト家の嫡男。芸術的な素養がありパトロンとして金銭的にだらしないところは見受けられるが、よくも悪くも馬鹿正直で嘘を吐けるタイプではない。実家は太いし親の興した事業も順調。無論、私がまとめていた妹の結婚相手候補のリストにも入っている人物だったが、それもかなり下の方に書かれていた。
なぜなら、金銭よりも、愛よりも、もっと重要な問題が彼にはあったからだ。
つまるところ、彼にはすでに婚約者がいたのである。
「リディ、リディ、待ちなさい。それは禁断の愛とかそう言うやつではないのか? 十七歳になるおまえが憧れるのはわからないでもないが、おまえの姉さんが十七歳の頃にはもう俺と話してくれないほどには大人びていて──」
「禁断ではありませんわ! だって婚約者の方とマイセン様は愛し合っておりませんもの!」
頭痛が酷くなった。首都より伸びる灰色の空模様が常態となっている我が所領は、偏頭痛持ちに優しくない。さらに言えば、この末妹は妹たちの中で一番偏頭痛持ちに優しくない娘だった。
我が妹は贔屓目なしに可愛い顔立ちと性格をしている。他人に愛される才能で言えば、この世で横に並ぶものはいないだろう。そして他人を愛する才能も、きっと誰よりあるのだと思う。それと引き換えに、少しばかり頭が悪いだけで。
「リディ、一般的に婚約者のいる人物と恋仲になることは推奨されない」
「あら、当然ですわ。あたし、まだ彼とは何もございません。ただ彼があたしを愛してしまっただけ。しかも彼のおうちが偶然にもお金持ちで、偶然にも我が家と家格が釣り合ってしまっただけですわ。あたし、ただ彼と結婚をしたいだけよ?」
「おまえの姉さんたちはあれほど結婚に悩んでいたのに、なんでおまえだけそんな破滅的に積極的なんだ……」
「だってあたし、お姉様たちみたいな才能はございませんもの!」
快活に言ってのけるリディの言葉に間違いはない。リディには長女のような忍耐力も、次女のような知性も、三女のような健気さもない。これは妹を卑下して言うのではない。ただ適材適所と言うだけだ。この末の妹には、愛される才能しかない。
だから、たとえ制度上現在の状態が限りなく不倫に近い不道徳な状況であったとしても、リディが選んだマイセンなる人物はきちんとリディを愛してはいるのだろう。リディには今までにも多くの求婚者がいたが、私はそれらを吟味していたし、その中で幾つか出した合格者の中からリディが誰かを選ぶことはなかった。
曰くに、「あたし、愛があればお金は要らないなんて思えないの。きっと死んでしまうわ」と言う発言は三女を想起しながらのことだったのだろうが、そこに悪意はなかった。この妹は言葉を選べないだけで、誰かを蔑むような知性を有していない。まあだからこそ言葉も選べないわけだが。
すっかりと冷めた珈琲を口にする。いつの間にか応接用のソファに我が物顔で腰掛けてふよふよと笑う妹は、すでに自分の人生を決めきっていた。別に結婚なんてしなくてもいいんだぞ、と、今のある程度の資産を有する自分は言うこともできなくはないが、それをこの妹は認めないだろうし、私も望まない。それはとてもリスクの高いことだからだ。
それに、夢見がちに烟る私と揃いの青い目は、すでに自身の結婚式の姿を映している。
「ねえ、お兄様。あたしがいなくなっても寂しがらないでくださいね」
「嫁がいて、息子がいて、どうして寂しくなどなるものか」
「あら、あたしはあたしを愛してくれる人には敏感よ?」
思い上がりも甚だしいと言うには、あまりにも妹の言葉は確信に富んでいた。厄介な才能を持って生まれたものであるが、その言葉に私は実感を抱かない。
十年前、父が亡くなり当主となった私は十八歳で、リディは七歳だった。一足早く大人と同じことをしなくてはならなかった私にとって、リディは妹ではなくもはや娘のようなもので、この娘を結婚させることこそが私の最後の役割でもあった。
だからこそ慎重になっていたのが実情だが、長女のような失敗をさせず、次女のような制限を受けさせず、三女のような憂慮を抱かせずに育てたつもりの妹に、また一つ不要なことをしていたことを突きつけられる。妹たちが私に遺していくのは、いつもそうした小さな陰りを照らす光なのだ。この末の妹は、自分から幸せになりに行こうとする。
「リディ、マイセンくんについて教えなさい。おまえが嫁ぐまでの段取りを詰めていこう」
「流石お兄様! ええ、ええ! もちろんですわ! あたし、必ず愛とお金を掌握して、幸せになってみせますわ!」
だからお兄様も安心なさってね。そう笑う末妹は、やはりこの世で最も愛される才能を持って生まれてきた娘なのだった。
リディの主張と私の調査を統合すると、マイセン・リーンツワルトとその婚約者のジェーン・オーランドの間に恋愛関係がないのは確かなようだった。婚約と恋愛は別なものだ。それは私自身が身をもって知っていることであるし、同義であることもままあるのだとも知っている。問題の二人は前者だっただけのことである。
さらに好都合なことには、二家の間に借財などはなく、この婚約は我が国の悪しき風習もとい限嗣相続の被害によってもたらされたものであろうことは容易く想像できた。
オーランド家とジェーン・オーランドにとっては災難なことであろうが、我がヴェネティア家とてなりふりは構ってられない。なにせ今までどれだけ釣書を見せても却下してきた末の妹が、ようやく見つけてきた暫定結婚相手なのだ。庇護されなければ生きていけないリディには、私が生きているうちになんとしてでも嫁いでもらわねばならない。リディが生きるために必要な金の総額は彼女の姉たちの比ではないのだ。
で、あれば、だ。
リディの告白から三日後には必要なことは出揃っていた。首都から届いた霊媒詐欺師の母からの手紙には、誠に不本意ながら十分な情報が記されている。礼の返事を進まない気持ちで書こうとして、どうせまた居住地を変えているだろうと言う素晴らしい言い訳を思いついて万年筆を置いた。執務机の上に無駄紙が増えなかったことに満足してしまうのは、二十年来の貧乏性がなせる技だろう。
窓の外は相変わらずの曇天だが、今日の頭はすっきりとしている。
ベルを鳴らして呼び出したヴァレットにリディを連れてくるように命じる。心なしかベルの音さえ涼やかに聞こえるものだから、見通しの立った計画ほど気持ちの良いものはないのだろう。
ほどなくしてやはりノックもなく開いた扉から、客観的に見ても可愛らしいと言うより他にない顔が覗いた。私は手招きをしたリディを机の前に立たせ、当主らしく重々しく両肘をついて手の甲に顎を載せる。小鳥のように首を傾ぐリディとは対照的だ。
「なぁに、お兄様? なんのごよう?」
「リディ、おまえの嫁入りのための段取りが決まった」
「あらあらあら、まあまあまあ!」
途端、その青い目は先日の夢見がちな靄を晴らして、宝石のごとき輝きを放つ。
夢想から現実、さらには確定した未来を見ることにシフトした眼差しはどこまでも美しく透明で、宝石商がいればどれだけの高値を出しただろうと考えるほどだった。私と同じ青い目を持つ妹たちの中でも、その宝石をこれほど輝かせることができる者は他にいない。
「それで? お兄様、あたしは何をすればよいのかしら?」
「なにもしなくていい。なにもしないでくれ」
「あら?」
ことり、リディは首を先ほどとは逆に傾いだ。
「お兄様、これはあたしの結婚でしてよ?」
「そうだろうとも、おまえの結婚だ」
「それならどうしてあたしはなにもしないでよいのかしら?」
「すでにマイセン・リーンツワルトがおまえを愛しているからだ」
ことり、きょとり。何を言われているのかわからないと言うように、いや、事実わかっていないのだろうリディは、脳味噌の小さな小鳥の眼差しで私に疑問を呈する。
私は母から届いた手紙を畳み、丁寧に封筒に戻して、もう貼りつくことにはないにも拘らずその封蝋を親指で押した。ちょっとした現実逃避である。
「リディ、おまえがマイセンくんと話したのは何度だ?」
「ほんの数回ですわ、お兄様。誓って二人きりで会ったりはしておりません」
「もちろんその通りだろう」
調書にも、二人が同じパーティに参加した回数は四回と書かれている。規模もさして小さなものではないし、リディもマイセン・オーツワルトもその友人たちと参加している。となれば接触は必然的に限定的なものとなるし、ジェーン・オーランドが彼の隣にいたこともあっただろう。
そう記載された箇所をコツンと指で叩く。たった四回、ほんの数言のやり取りで、マイセン・オーツワルトはリディを愛したと言うのである。
結婚に愛は必須条件ではないが、あるに越したことはない。これもまた十年の学びによって得た教訓の一つであるが。しかし。
「リディ、一つ確認だ。おまえはたった数回の中身のないような会話をしただけの相手が、おまえの肖像を描く好意を愛だと捉えるか?」
「ええもちろん!」
「ならばよし!」
何も良くない。良くないが、いいのである。リディがいいと言うのだから、それでいいのだ。この妹がそれを愛だと断言できるのならそうなのだろうし、ジェーン・オーランドにしてもそんな気持ち悪い男と結婚しないで済むことは幸いだろう。
正直なところ、そのようなストーカー気質もとい粘着質もとい繊細そうな? ちょっと芸術家肌な? 男などにリディを嫁がせるのは不安があるのだが、私の懸念などリディの生存戦略的本能を前にすれば滓のようなものである。肉体がたくましければ嫁を守れるとも限らないし、無関心だから無害であるわけでもない。
私は放り出していた筆を執ると、リディに説明をするために白紙にインクで計画を認めた。
そして──そして、である。
段取りは完璧だった。つまるところ、先の二回のパーティでそれとなくリディにマイセンくんとジェーン嬢に挨拶をさせ、二人の間に冷め切った関係を意識させる。その間、私は二人の両親に接触してリディの嫁ぎ先や姉たちの話を出したり、遠い親戚筋に嫁取りに苦労している男がいる話を振り、たとえ二人が成婚しなくてもジェーン嬢の後先には困らないだろうビジョンをそれとなく植え付ける。
そうして今日、三度目の社交パーティ。我がヴェネティア家が主催となったこの日に、両家を揃えてリディ含めた三人の若者の進退について話し合う場を設ける約束を取り付けようとしていたのだ。して、いたのだ。
それも想像を遙か上をいく馬鹿もとい浅慮もとい情熱的だったマイセンくんと、予想より異常に彼にとって魅力的に見えていたらしいリディによって破綻したわけだが。
大声でリディを叱った後、私は頭を抱えた。目前のソファにきょとんとした顔で座るリディは客観的に見て愛らしいが、ジェーン嬢から見れば無思慮で無神経な女に映ることだろう。それが不当なことであると咎めるつもりはないが、それを超越して阿呆なのはその隣で私にはたかれた頭に手をやりつつ、何かを決心した顔で私を見つめる君の婚約者の方なので、恨み節はそちらにぶつけてほしい。そして一度ぶつけたのならそれきり忘れてほしい。なにせリディの嫁ぎ先になる男なので。変に禍根を遺してはいけないのである。
「ああー、オーツワルトくん。君、リディについては本気なのかね」
濁った声で質問を投げるのが精一杯だった。
この問答にさしたる意味はないのだ。計画は破綻した。それがすべてである。何せあれだけの聴衆の目前でやらかしてくれたのだ、リディの結婚が平和裏に終わるはずがない。
「はい、お義父さん。リディさんの肖像画が遂に十枚を超え、僕は決心いたしました」
「お義父さんではないし肖像画については訊いていないし訊いたとして聞かなかったことにしたい事実だが、」
「なのでジェーン、どうか僕との婚約をなかったことにしてほしい」
マジかぁ、である。この場にいるもう一人の登場人物に、ここで話を振ってしまうか。せめてそこはリディではないのか。いやリディはすでに結婚することを決めてかかっているし、その結果が変わらないのであれば二人の間に言葉は不要なのかもしれないが、この若者は度を超して生真面目かつ真剣かつ後先を考えない。
リディ、リディ、我がヴェネティア家の末妹よ。姉たちの結婚にもそれは紆余曲折あり、私が正しいと思う男が必ずしも良いものであるとは思ってはいないが、おまえは本当にこれでよいのか。よいのだろう。よいと一度リディは肯定したし、私もならばよしと結論を出したのだから。
「それで、婚約がなくなった私はどうなりますの?」
「それは相応の慰謝料を──」
「リディの持参金の半分を君に渡そう。君が望むのなら、新しい嫁ぎ先も紹介できる」
生真面目馬鹿の言葉を遮って、私はジェーン嬢に向き直る。
部屋の灯りは点されているが、それだけでは照らしきれない月の白さを帯びた頬が痛々しい。彼女の眼差しはやはりその婚約者と同じように真剣だったが、その堅牢さは比ではなかった。当然だろう。彼女はこれから再び自身の人生設計をしなくてはならないのだから。
リディの持参金については最初から考えていたことである。幾らマイセンくんの方から惚れたとはいえ、リディが彼女の婚約者を奪ったことに変わりはない。であれば、リディにも相応の痛手がなくては相手は納得しない。
禍根になり得ることは芽の一つ、種子の一つまで回収して根絶やしにするのが私の方針である。特にリディは己の存在を他者に委ねることでしか生き残れないので、徹底したリスク排除が肝要なのだ。
ジェーン嬢の顔には酷く侮辱された者の不満がありありと見えた。当然のことだろう。当然ではあるが、これが私に用意できる最大の代替品である。謝意はあるが誠意はない。そこに関しては言い切ろう。精一杯にの謝罪と償いはするが、この行為が誠意あるように見えるとは端から思ってなどいない。
そも、リディのために用意してきた持参金はジェーン嬢の両親が用意してきた資産よりも多い。一番上の妹の時に痛い目を見た私は、持参金については抜かりなく用意してきたのだ。それもこれも、こうした日がいつか来ることを予想していたから。
貴族は政略のために結婚するが、我々は、あるいは我々のような家庭に生まれた女性は生存のために結婚する。そして私は、ジェーン嬢とリディであれば、リディの生存を何よりも優先する。なぜなら私は家族であり、長子であり、オズボーン家の当主であるのだから。
ジェーン嬢は一度唇を噛み、そして再び口を開こうとした。
が、
「あらお兄様、それでは全然足りないわ! あたしの持参金、全部ジェーンさんにお渡しにならないと」
「リディ!?」
再び妹がやらかした。
唖然とする私を余所に、リディは滔々と絵本を読み上げるように優美にかつ幼い声で言葉を紡ぐ。
「だって持参金はあたしのお金よ? お金の使い道はあたしが決めるわ。それに持参金がなくったってマイセンさんのおうちは裕福ですもの。あたし、マイセンさんのご両親にもきっと愛されるわ。愛されたらね、持参金がなくたって、それを他のパーティでからかわれたって、非常識だって言われたって、あたし平気よ」
唖然、呆然、自失にして陶然。呆れてものを言えなくなった私とジェーン嬢と余所に、マイセンくんは恍惚の表情でリディを見つめていた。
当然だろう、堂々としていてもリディは人形のように可愛らしく、その声は柔らかく優しい。内容の愚かさにさえ目を瞑れば、誰だって見惚れることに間違いはないのだ。内容の愚かさに逆に目を瞠った私とジェーン嬢がこの場にいるので、二対一でこの場でのリディの声の有効性は低かったが。
「リディ、キミは愛のためならお金など要らないと言ってくれるのだ」
ね、と続こうとした言葉は、
「勘違いなさらないで」
ぴしゃりとリディによって遮られた。
「あたしのお姉様の中にはお金ではなく愛をとって結婚をされた方もいるわ。あたし、そうした幸福を否定するつもりはないの。でもね、違うのよ。あたしは違うの。あなたは今のあたしを愛してらっしゃるのだわ。お兄様の稼いだお金の恩恵を一等に受けて育った、オズボーン家の末の娘を愛してらっしゃるのよ。あたしはお金がなくては生きていけないの。お姉様たちのような才覚はございませんもの。でも愛のない結婚はいやよ」
絶対に、いやよ。はっきりとリディは念を押した。
それもそうだろう、と、私は頷く。オズボーン家の末に生まれたということは、それだけ姉たちの結婚の苦労も見てきたということなのだ。私がそうであるように。あるいは、女である分だけ切実に。
リディは言葉を失したマイセンくんの顔を覗き込む。今日のためにしつらえたナイトドレスの裾がカーペットに深い影を描き、豊かな髪が肩を滑る。ああ、あれはもう逃げられないだろうと私は確信するのだ。オズボーン家の青い目を誰よりも綺麗に輝かせることのできるリディが、今、本気でそれを磨いてみせているのだから。
「あたしとの愛のためにお金を使わない生活も想像できるあなた、それならどうか、あたしのためにお金を使ってくださいね。最も正しい使い方で」
にこりと。それは綺麗に笑ってのたまったリディに、マイセンくんは小さく「はい」と答えるより他はなかった。
話は変わるが、この応接間に置いたソファはその材料のために非常に重厚であり、座面も柔らかすぎるほどに柔らかい。ゆえに、勢いよく立ったところでするのは衣擦れの音ばかりである。
つまるところ、私が眼前をジェーン嬢のナイトドレスと同じ碧が過ったと思ったときには、スパパーンと綺麗な音が響き渡っていた。
「素敵な茶番をありがとうございました」
ジェーン嬢のはたき落としは綺麗に愚かな若者二人の頭に決まった。冷然とした笑みを湛えるジェーン嬢は、今は私に向き合っている。ゆらりゆらりとローテーブルを回り込んで私のもとへとやってきた彼女に、私は再びの深い溜息を吐いた。
「手加減はしなくていい。君の思うように」
「当然ですわ」
そうして、この夜で最も美しい打撃音が部屋には響き渡った。
無様な顔をさらさずにこの部屋を出て行けたのはジェーン嬢だけ。それがこの夜の顛末である。
その翌々日、私は謝罪のために訪れたオーランド家で、なぜか彼女の両親相手に彼女の進学を後押ししていた。リディとジェーン嬢が口を揃えてジェーン嬢の大学進学を提言していたからである。リディは再びやらかしていた。私が訪れる前日にジェーン嬢と直接会い、彼女を説得していたのだ。
幸いにして必然的なことに、私が学生時代に将来的な必要性のために作った友人の中には大学勤務の者もいたし、我が家の次女は自立して生計を立てている。
一冊の本を両親の前に差し出せば、二人の眉間に寄っていた皺も和らいだ。まったく、持つべきものは賢い妹と将来性の高い友人である。
その場に召喚されたジェーン嬢は難しそうな顔こそしていたが、優雅に、堂々とカーテシーをして私からの謝罪を受け取った。もはや覚悟は決まりきっていると言いたげな彼女は、きっとこれから女性であるがゆえに苦労をするし、そのたびにリディとマイセンくんを恨むこともあるだろう。
けれどそれで良いのだ。どうせ遠くの大学へ行く女性である。そこで価値観が変わることもあるだろうし、相応の金額を渡した時点で法的には私たちの方が強い。何より、敵意との物理的な距離は安心に繋がる。
その後のジェーン嬢について私の知り及ぶところではないが、何故かリディと文通をしていると知って、とことんまでリディの才能に呆れ果てたのは別の話である。
なんにせよ、こうして私こそフィッツ・ヴェネティアの最後の大仕事は完遂されたのだ。
**********
わたしには三人の姉と一人の兄がいる。姉たちは全員この屋敷を出て行って、残るはわたし一人きり。お兄様がわたしの嫁ぎ先について思い悩んでいたのは知っていたが、わたしはその相手を見つけられないでいた。
だって、わたしには才能がないのである。お姉様たちみたいに身分が違う相手と結婚しても素晴らしい手腕でお屋敷を切り盛りすることも、才能と努力で自立をすることも、貧乏な暮らしの中で愛に幸せを見出すこともできない。それがわたし、リディ・ヴェネティアという人間なのだ。
フィッツお兄様はよくわたしに言う。
「おまえはひとに愛される才能だけはある、この世の誰よりも」
それは本当にそう思うわ。全肯定。わたし自身だって何一つ疑ってはいない。
だってお義姉様はわたしにとても優しく接してくださるし、数年前に生まれた甥っ子だってわたしが抱き上げて笑わないことはないわ。お兄様だってわたしのために全力で嫁ぎ先を探してくださっているけれど、わたしがこの人は嫌だと言えば素直に引き下がってくれる。
前回のパーティでわたしに嫌味を言ってきたあの家の子も、今日は楽しくお茶をしてくれた。だってあの子のハンカチの刺繍がとても素敵だったの。だから誰が刺したものなのって訊いたら、彼女のお姉様だって教えてくださったのよ。
お姉様! ああなんて共通点かしら。彼女のお姉様はつい先日、ずっと遠くへ嫁いでいってしまったのですって。それってとても寂しいことだわ。お手紙だってすぐには届かないし、お返事に嘘がないとも限らない。ちゃんとお姉様に届いている保証さえなくって、どうしてそのハンカチを大事にしないでいられるかしら?
わたしはそうやってたくさんの人からたくさんのお話を聞いて、たくさんの人生について教えてもらうのが好きだった。ある方にはお庭に咲く花が一番に美しい季節を教えてもらい、ある方にはおうちで生まれたばかりの仔馬の毛並みの手触りを教えてもらう。
そうした中で、特に興味を持ったのが絵を描くのがお上手だというマイセン・リーンツワルトという青年だった。
手習いで絵を描いたことはあったけれど、やっぱりわたしには才能がなかった。お義姉様には「とても前衛的な筆致で描かれた猫ねぇ」と言われたし、お兄様には「芸術なんてのは流行りが大事だ。まずどこぞの画廊を買収して、この絵が素晴らしい価値を持つものだと界隈に流せばいい」なんて身も蓋もないことを言った。恐らく芸術はもっと複雑な力学でできていると思うのだけれど、お兄様はすぐにそうして先回りしてしまう癖があるのだ。
だから、そうした制約とは無縁に絵を描ける彼に興味を持った。とある社交パーティの場で、彼の描いた絵が飾られていたから。それはひっそりとした廊下の隅であったけれど、一目でこれは美しいものだと知れた。
愛おしい場所。わたしがその絵にタイトルをつけるとしたら、そう名付けるだろう。それはただの一室を描いた風景画だったけれど、柔らかく揺れるカーテンの影には白い揺り籠があって、今にも赤ん坊の笑い声が聞こえてきそうだった。ああ、きっとこの人は幸福を知っている。愛を知っている。この世界を知っている。
それに、描かれている調度品はどれもきちんとした歴史を持っているだろう、古くてよいものだ。
わたしが彼と結婚すると決めたのは、その時だった。
幸いに、彼はすぐにわたしを愛してくれた。目を見ればわかるわ。わたしたちとは違う、翡翠の目。あなたがわたしを見るとき、それは春の森の梢になる。あたなはわたしにあの風景画と同じ幸福を見ている。
それなら、なんの不安があるかしら?
早速お兄様に相談すれば、トントン拍子に計画はできあがった。流石はお兄様だ。妹を無事に嫁がせるための執念に関しては、お兄様の右に出るものはいないだろう。
わたしは何もしなくていいらしい。もちろん、お兄様が仰るのならそれが一番正しいのだと思うわ。ちゃんとジェーンさんとマイセンさんの婚約をなかったことにしてから、わたしは結婚する。そのためにお兄様はお二人の両親を説得する。
それはね、きっと、とても正しいことなの。この上なく綺麗に終わらせて、始めるための手順だわ。わたし、それを否定するつもりはなかったのだけれど。
「それで、どうしてリディさんが私のもとへ一人でいらっしゃったの?」
家庭教師の先生みたいな声でジェーンさんがわたしに訊ねる。彼女の声は深い拒絶を孕んでいて、とても硬質だ。きつく結い上げた髪が痛そうで、真っ直ぐに伸びて彼女の背を覆う髪は鎧のようだった。
本当はお兄様がきちんとした手順を踏んで、つまり先触れを出してから明日訪れる予定だったのだけれど、それを届けようとした使用人にわたしはもう一通の先触れを渡した。そのすぐ後を追って、わたしはこうしてやってきたのだ。
今、わたしはジェーンさんとテーブルを挟んでお茶をしている。彼女の背は曲がることなく、背もたれを必要とすることもない。紅茶の水面が緊張しているかのように微振動している。我が家よりもずっと古びた調度品が置かれた応接室は、それだけ彼女の人生が格調高く、堅実だったことを表しているのだろう。
わたしはその破壊者だ、けれど。
「こちら、小切手ですわ」
わたしは一枚の紙を彼女の前に差し出す。
ジェーンさんはそれを手に取ることなく、僅かに眉を上げてすぐに戻した。わたしに向けられた眼差しは相変わらず硬い。
「フィッツ・ヴェネティア様の提示されていた金額ですか?」
「いいえ、わたしの持参金のすべてです」
書かれた金額はお兄様が提示する予定だったものの倍額だ。わたしがお兄様の執務室から未使用の小切手を盗み、そう記載した。だってそうでもしないと、きっとお兄様は勝手に値切ってしまうもの。お兄様が小切手を持ってジェーンさんのご両親に説明にあがる予定は明日。その前に、なんとしてでも彼女にこれを届ける必要があった。
ジェーンさんは不可解と不愉快を混ぜて作った猜疑の目でわたしを見る。わたしはそれを微笑んで受け止める。先日はたかれた頭はとても痛かったけれど、顔でなかったのはきっと優しさか、または錯乱だ。彼女の手はとても綺麗な乳白色で、そこにわたしの髪飾りによってできた傷が見えなくて安堵する。あの日につけていた髪飾りは、お兄様が職人に造らせた特注の銀細工の花であったから。危なくなったらこれで相手を刺しなさいと渡されたそれは、とても硬いものだったのだ。
ジェーンさんはお兄様によく似た深い吐息をした。きっと彼女もまた未来と今までをよく考える人なのだろう。昨日と今日と明日、家族と家族になる人、お話をしてくださる人しか知らないわたしとは違う。
壁際に置かれた本棚に詰め込まれたは革装の本は、わたしたちのような階級に生きるものにとっては権威の証らしい。お兄様はお客様を迎えることが決まるとよく新しい本を買い求めるけれど、きっと彼女はきちんとそれらの中身を知っている。たまになぜかそうしたものとは違う理由では本を買うこともあるけれど、お兄様は基本的に本を読まない。
「あなた、あの言葉本気で仰っていたの?」
「持参金のすべてをということですか? ええ、もちろん。わたし、嘘は申しませんわ。だってどれだけ嘘をついても、いつも見抜かれてしまうのです」
はああああ。と、深い深い深い溜息がジェーンさんの口から吐き出された。でも、お兄様みたいにその次に声を荒らげたりしない。フィッツお兄様はよく「うちは成り上がりも同然だ」なんて仰るけれど、きっとこういう差のことなのかもしれない。
オーランド家の応接室のソファは適度な弾力があって座り心地がいい。何度も生地を張り替えて使い続けているのだろう。真鍮の留め具は真新しくて、きらきら光っている。我が家のソファはお兄様が当主になってから買い換えてしまったから、わたしはあのソファの生地が今のもの以外になったところを見たことがない。そうした僅かな部分でさえ、家格というものは出てしまうらしいのだ。
「たったこれだけのお金を渡してどうするのです? 婚約はなくなり、私の人生は詰んだも同然。この家はいずれ私のいとこのものになります。そうすれば私はここにはいられなくなるのです。これだけのお金で私が生きていけるとお思いですか」
その心配と糾弾はよくわかった。限嗣相続、という制度がそうさせるのだそうだ。個人の資産は動かせるけれど、土地と屋敷だけは血の繋がった男性しか相続できない。だから私たち女はその家の当主が死んだら屋敷には住めなくなるし、土地から得られる収益もなくなってしまう。わたしたちが、ひいてはフィッツお兄様が、結婚をことのほか重要視する最たる理由だ。
けれど、でも。
「でも、あなたはきっと不幸になるわ」
私は知っているのだ。知ってしまったのだ。だって、ジェーンさんにとって残念なことには、マイセンさんはわたしを愛してしまったから。
そしてわたしも、お兄様をそろそろ安心させて差し上げるために結婚をしてしまいたいし、その相手はマイセンさんしかいないと思ってしまったのだ。
だからわたしは、ジェーンさんに彼女の気持ちに気づいて欲しい。彼女が幸福になるための、いいや、少なくとも望まぬ結婚のために恨み辛みの混じった人生を送らなくて済む選択をしてほしい。
憮然と唇を引き締めたジェーンさんに、わたしは言葉を続ける。
「ジェーンさんはマイセンさんを軽蔑なさっているでしょう?」
「軽蔑?」
「ええ。理由は存じませんけれど、あなたは彼のことをお好きではないわ」
「それは……そうでしょう。これから先の人生を考慮しての結婚ですから。けれど、結婚に恋愛は必要?」
「いいえ、そうとは限りませんわ。でも、愛は一つの枷です。たとえばそれは自由の。たとえばそれは暴力の」
「暴力……」
「愛ゆえの暴力というものもあるそうですが、わたしにとってそれは欺瞞です」
嘘なのです、何もかも。
ジェーンさんは息を呑み、わたしは紅茶を飲んだ。ぬるくなった紅茶は少しだけ渋くて、いつかのお姉様の痛みを想起させる。お姉様はあの屋敷で温かな紅茶を飲んだことはあったのだろうか。
たとえジェーンさんがマイセンさんを軽薄で浅慮と軽蔑していても、マイセンさんがジェーンさんを愛していなくても、彼女がわたしのことを嫌いでも。二人の結婚は成立する。
でも、それで? それで二人とも、幸せを手放すのだろうか。好きでもない相手と、ずっと同じ家にいられるのだろうか。
「ジェーンさんは賢い方ですわ。あなたのお父様にパーティでお聞きしましたの。手習はどれも優秀で、特に踊りとバイオリンが得意。でも本当に一番よくしてらっしゃるのは、算術の本を読むこと。つい先日もドドスン博士という方の論文を読んでらっしゃったって」
「なんでそのことをお父様が……。いえ、だからどうだというの?」
「わたしとマイセンさんは学者にはなれません」
それだけの頭がないことはわかりきっている。わたしには愛される才能しかないし、マイセンさんは幸福な絵しか描けない。
「あなた、ここを出て大学に入るべきだわ」
わたしたちよりもずっと頭が良くて、どこへでも行けるひとだもの。
ジェーンさんは今度こそ本当に心底から嫌そうな顔をした。そこには怒りがあって、困惑があって、言葉にできない感情があるのだろう。顔色はいよいよ白くて、吐き出せない言葉が華奢な喉と胸を膨らませている。彼女のワンピースの胸元に飾られたシンプルなリボンは、きっと聡明な女性たちの間でこそ映えるのだ。
「どうして……どうしてあなたにそんなこと言われないといけないの!」
「それは本当に、その通りなのですけれど……」
でもきっと他に、誰も言ってはくれないだろう。お兄様は彼女を他に嫁がせたがっているし、彼女の家族もそれを彼女の幸福だと思っている。彼女のお父様は彼女が算術の本を読むことに対して、彼女とよく似た溜息を吐いてらっしゃった。望まれていないのだ、そうした生き方は。
わたしたちは、そうした生物だ。結婚によって家族に安寧を与える装置。わたしはそれを嫌だと思わない。けれど、彼女は違う。違うから、わたしは言う。
「そのお金は学費などに充ててくださいな。わたしからあなたにお渡ししたことは内緒になさって。きっと明日、お兄様がその半分の金額の小切手を持ってくるでしょうから」
「不正だわ! 正しくない。そんな小狡いこと……っ」
「それはわたしの持参金、わたしのお金。明日お兄様が持ってくるのは、慰謝料だとお思いになってください」
そうして、逞しく生きてください。
なんて、わたしに言う資格がないのは百も承知だけれど。お兄様がよく言うように。わたしには誰かに愛される才能しかないように。彼女にはきっと、もっと才能を輝かせる場所があるはずだ。
だって、
「ジェーンさんは、メアリお姉様にそっくりな野心的な目をお持ちだわ」
「……あなたのお姉様?」
「ええ、ご自分の思うがままに。ご自分のお好きなお仕事で生計を立ててらっしゃるの。でもそれ以上に、とても聡明で、お兄様にどれだけ反対されてもご自分の夢を諦めなかった方よ」
ジェーンさんは今度こそ口をつぐんだ。ゆらゆらと不安定にテーブルの上で揺れていた紅茶の水面が静かに凪ぐ。
わたしは嘘は言わない。言えない。すぐにバレてしまうと知っているから。ジェーンさんはとても聡明で、姉に似ている。結婚なんてくだらないと、男なんて必要ないと家を出て、でも家族であるわたしたちを愛している。
窓から見える空は相変わらずの灰色で、でも雲の切れ間に天使のはしごが下りている。それを掴み登るのなら、きっと今しかないはずだ。
「ジェーンさん、わたし、あなたに何かを無理強いしたいわけではないわ。ただ、わたしはわたしの生き方を諦めないし、あなたも諦める必要はないと言いたいだけなのよ」
「諦めさせたのはあなたではなくって?」
「そうかしら?」
そうなのかしら。今までの彼女の方が、ずっと何かを諦めていたように思うのだけれど。それが嘘か本当かは、わたしにはわからない。
けれど、
「わたし、あなたに息子の家庭教師をしてほしいわ」
「家庭教師を?」
「ええ、うんと頭が良くて、うんとお上品で、うんと厳しい先生がいいの」
お兄様を教育なさった家庭教師の先生は、それはもう厳しい方だったそうだ。わたしとお兄様は十一も年が離れているからあんまり詳しくはないけれど、今のお兄様がいるのはその方のおかげ。つまり、わたしが今生きているのはその方のおかげなのだ。
それなら、そんな人にわたしはわたしの子供を預けたい。きっとそうすれば、この世の誰よりも生きる術を身につけられるから。
そのためには、ジェーンさん自身に自分で生きてもらわねばならない。
「私はあなたの子供を憎くて憎くて鞭で打つかもしれませんよ」
「殿方の寄宿学校では珍しくないわ」
「わざと頭の悪い子に育てるかも」
「それに気づかないようならもとから才能がなかったのよ」
ジェーンさんは煩悶するように唇を噛む。うっすらと赤みを帯びた唇に、紅は塗られていないようだ。なんて潔くて、美しいことだろう。
「……これは今日から、私のお金ですね?」
「差し上げたものですから」
「それなら、このお金で学校に通うのは悪いことではないわね」
「もちろん。お金はその権利を買うものです」
「あなたが少しでも損をして……、そのお陰で私が得をすると考えると、気持ちがいいわ」
「そうでなくっちゃ!」
ジェーンさんは小切手を手に取ると、矯めつ眇めつその金額を確認して、指でなぞる。インクはもう乾ききっているから、彼女な指は汚れないし、金額が書き変わることもない。
わたしはとても嬉しくなって、嬉しくなって、嬉しくなって、彼女の手を取りたくなった。その時ほどその小切手を恨めしく思ったことはない。小切手がくしゃくしゃになっても使えるものなのか、わたしは知らなかったから。
明日、お兄様はこの家にやってくる。きっと冷めきってから長いお茶を出されて、彼女の両親に笑顔で挨拶をされるだろう。そうしてお兄様も笑顔で返して、冷たいお茶を丁寧に飲むのだ。本来珈琲の方がお好きな方だから、紅茶が冷めきっていてもお兄様は気にもしないだろう。
お兄様が出した小切手には、ジェーンさんの手にしたものの半額が書かれている。そのお金が正しくジェーンさんのために使われるのか、お兄様は頓着しない。ただ渡したという事実だけがお兄様には大事だからだ。
「ジェーンさん、」
わたしは彼女に声をかける。
「きっと立派な学者様になってらしてくださいね」
「……あなたのためにはならないわ」
そう、その通り。誰も彼もがそうあるべきだ。わたしたちはいつだって、わたしたちのために幸せになるべきで。わたしの幸せには、愛と、お金と、そして家族の安寧が必要だというだけのこと。
だからわたしは彼女のためにマイセンさんと結婚を諦めることなんてしないし、わたしのせいで結婚などという彼女の性に合わないだろう選択肢が奪われたのなら、それ以外の道を見つけるお手伝いをする。なるべく彼女の、望む通りの。
にっこりと、わたしはわたしのために微笑む。きっとマイセンさんが何度も夢想しながら描いたのだろう肖像画より、ずっと綺麗に笑えただろう。
ジェーンさんは呆れた吐息で紅茶の水面を揺らして、そしてその揺らぎごと飲み干した。わたしは三つ、彼女は一つお砂糖を入れた紅茶だ。
「ああ、きっとあたし、帰ったらお兄様に怒られるわ」
それだけがちょっと憂鬱だったけれど、手をあてた頬はきっと薄紅色をしている。
ジェーンさんは何故か驚いた顔をしてわたしを見つめ、そして何か納得したように苦い顔で首肯した。
「それでもきっと、あなたのお兄様はあなたを許すのでしょうね」
酷く皮肉のこもったその声の、けれど棘のないことには。わたしは気高く咲こうとしている薔薇の蔓に触れることを許された気になって、笑ってしまったのだ。
彼女がどれだけ、わたしの愚かさに呆れていようとも。わたしには、それだけで十分だった。
「リディ! ああ、なんて君は美しいんだろう!」
いつものようにそうわたしを讃えるマイセンは、けれどいつにも増して興奮している。感涙に咽び、レースのハンカチで目元を拭い、それでも溢れる涙をだらだらと流し続けている。
ことこの結婚式にあたって、彼が用意してくれたドレスは確かにわたしのためだけにあつらえられたかのように軽やかなレースで覆われていて、彼の肖像画への情熱を呼び覚ますには十分だっただろう。今日、わたしは誰よりも幸福なのだから。
「今日の君をそのまま絵にできないのが無念でならないよ。どうして僕は君の旦那なのだろう?」
「まあ、あたしの旦那様より専属画家をお望みなの?」
「両方さ!」
まっさらなウェディングドレスが重いので、わたしはずっと控え室の鏡台の前に腰掛けている。お金とドレスの重さは比例しないけれど、愛と結婚式の費用は比例しやすいので注意が必要だ。
愛とお金は同じものではない。けれど、お金の使い道に愛は表れる。
「今からでも遅くない。このドレスをそのまま買い取って、家でも着てほしい。そして絵のモデルになってくれ」
「あら、まあ」
それは素敵な申し出だこと。
けれど、でも。
「あたしのことを愛してくれたあなた、あたしが愛すると決めたあなた。あたしのためにお金を使えるのなら、あたしのためにお金を使わない選択もできるわよね?」
わたしはことりと首を傾いで、マイセンを見上げる。彼はうっと言葉に詰まり、そして酷く哀しそうな顔をするのだ。
ああ、なんて可哀想! その原因を作っているのがわたしだなんて、不思議な話だ。こんなに情熱的にわたしを愛してくれる人が、いったいどれだけこの世にいたものだろう。いいえ、きっと他にはいやしないわ。お兄様やお姉様はわたしをとても、それはそれは愛してくれるけれど。そこにはこれほどの情熱など存在しない。
部屋の隅で苛々と腕を組んでわたしたちを見守っていたお兄様は、いよいよわたしたちの間に割って入る。
「マイセンくん、」
「はい、なんでしょうか、お義父さん」
「父ではないが。いや似たようなものだともはや認めるが、だな」
お兄様は難しい顔をして何度か口を開け閉めして、幾つかの言葉を見繕っているようだった。きっと話したいことがたくさんあって、そのどれを優先するべきか考えているのだろう。
お兄様は、優先順位をつけたり計画を立てたりするのが得意だ。わたしの結婚はお兄様の人生において計画的に行われる予定だった。他のお姉様たちの結婚も同様だっただろう。
けれど何一つ、どれ一つ、お兄様の思惑通りにことは進まない。良いことも、悪いことも。宿命も運命も。偶然も必然も。なべてそれらはわたしたちのもとへとやってくる。お兄様の計画性の高さと執念を超えて。
「君は……、いや、君がもし、今後お金に困ったら、」
そして、わたしことリディの生活に暗雲が立ち込めたなら。
「君の描いた絵を私が画廊で売り捌こう。なに、伝手はあるし、やろうと思えば幾らでも流行は作れる」
酷く、真面目に。どこまでも真面目に。お兄様なりのリスクヘッジはいつまでも終わることなく。きっと一生、終わることなく。
けれど、お兄様はいまだにわかってらっしゃらない。わたしが選んだこの人が、お兄様の計画を狂わせることにかけてどれだけ天才的で、そしてわたしのことをどれだけ愛しているのかなんて。
「お恥ずかしいのですが、あれらの絵は僕のリディなのです。他の誰かの手に渡すなんて、とてもとても」
滂沱の涙を流していたのなんて忘れたみたいに、マイセンは恥ずかしげに、けれど誇らしげにお兄様にそう告げた。絶句したお兄様はわかっていない。きっと一生理解できない。換金可能な愛があって、いざという時にそれをできない人のことなんて。
わたしの素敵なお兄様。あなたはわたしの肖像画が五十枚を超えたことも、壁中にそれらの飾られた部屋でわたしがプロポーズをされたこともご存知ね。そしてあなたはわたしに言ったわ。「本当に良いのか?」って。わたし、きちんと答えたでしょう? 「だから良いのよ」って。
お兄様には、あの絵の中の幸福が見えただろうか。絵の中のわたしたちがどれだけ幸せそうに笑っていたか、わかっただろうか。
お兄様はマイセンに対する言葉を失して、途方に暮れたような目でわたしを見つめる。わたしがこれから先、どれだけの幸福の中を歩いて行くのか、測りかねている。その道行きの果てなんて、見えるはずもないのに。
「ああ、そろそろ行かないと。リディ、僕のリディ。先に行く僕を許しておくれ。会場で待っているから」
「ええ、もちろんよ、マイセン」
ぐずぐずと鼻を鳴らしてわたしの手を両手で包んだマイセンは、名残惜しげにそれを放して、やっと扉の向こうへと消えた。わたしは彼にさらさらと手を振る。すぐに彼に会えることを、そして会えたのならこれから一生彼のともに生きていくことを、わたしは疑っていないから。
残されたのはわたしとフィッツお兄様の二人きり。まるであの執務室のようだけれど、今日はとても静か。同じことと言えば、用意されている机の上に手紙が置かれていることだけだ。それはたったの一通だけだったけれど。
「……それはジェーン嬢からの呪いの手紙か?」
お兄様はその手紙を見咎めて苦渋と不安に満ちた声でわたしに訊ねた。
「いいえ、お祝いのお手紙ですわ」
お姉様やお兄様の家族は、すでに会場で席に着いている。それもこれも、この控え室がお兄様の望んだ会場のものより、ずっと小さなもので、わたしの晴れの日の仕上げをしてくれる使用人たちが入れば、それだけでいっぱいになってしまうものだったからだ。
この土地にしては珍しい晴れ晴れとした空のもと、その陽光に照らされたステンドグラスの下で、彼らはわたしを見ることになる。わたしたちの愛の見届け人にはお母様が選ばれた。お兄様は断固として反対したけれど、一番上のお姉様がさらにそれに反対して押し切った結果だ。
そうしてわたしたちを祝福する人々の中に、ジェーンさんはいない。彼女は遠く、首都にある大学で、今日も分厚い教科書を開き、ノートを取っていることだろう。そしてそのノートを取るのと同じペンで、この手紙は書かれたのだ。
「“リディ・リーンツワルト様”か」
お兄様は手紙を慎重に手に取って、小さく笑った。
わたしは少し、驚いた。お兄様にその手紙の意味が、中に書かれている内容が、伝わったのだろうと知れたからだ。
「リディ、おまえは以前に言ったな」
「何をかしら?」
「“あたしがいなくなっても寂しがらないでくださいね”と」
あら、あらあらあら。まあまあまあ。
わたしは口に手を当てて、お兄様を見つめる。
いつも眉間に皺を寄せて家族のことを考え続けているお兄様。ありとあらゆる伝手を使い、軽い謀略とペテンと話術で社交パーティを乗り切ってきたお兄様。愛想は売るものであって、損切りがとてもはやいお兄様。
そんなお兄様が無償の笑みを浮かべて、わたしを見ている。
「俺の最後の仕事はこれで終わった。おまえが片付いて、正直ほっとしている」
お兄様の肩が、いつもより数センチ下がっていた。眉は少し下がって、青い瞳は青い空にかかったとても薄い雲のように柔らかい。
「どうやら俺はおまえを愛していたらしい」
だってこんなに、寂しいのだから。
わたしは、あたしは、何をこんなに泣いているのだろう。これから先、わたしの幸福はこんなにも約束されているのに。愛にも、お金にも、一度だって困ったことはなかったのに。
ああでもそれは、最初はすべて、お兄様が用意してくれたものだった。あたしは一番最初に手にしたそれを、今日、手放すのだ。
「今さら気づいたのね」
あたしはお兄様の手を取った。温かく、硬く、何度もあたしを抱き上げてくれた手だった。それを額にあてれば、もう片方の手が優しく優しくあたしの髪を撫でてくれる。髪型を崩さないように慎重な手つきの、なんと物足りないことだろう。
あたしたちの涙は、この数分だけ。たった数分と狭い部屋に閉じ込められた、永遠。
「さあ、行くぞ」
花嫁のエスコートには慣れていると、お兄様は言う。そうだろうと、あたしは思う。
願わくば、その最後があたしであればいい。いいや、最後でなくても構わない。ただこの手の大きさを、この手の優しさを、この手の中の愛を。他の誰かが知る日が、少しだけ遠くあればと願うのだ。
そしてわたしはその日、お兄様の手を放したその瞬間に、リディ・リーンツワルトになったのだった。
ご覧いただきありがとうございました。
そのうち他の姉たちの結婚に苦労した長兄のお話も書きたいところ。
もし書きましたらまたお読みいただけますと幸いです。




