第6話 サイ
ガチャリ、と。
背後で重い木の扉が閉まった音が、サイの耳には自身の首をはねる断頭台の刃の音のように聞こえた。
サイは扉のノブから手を離すことができず、薄暗く冷たい治療院の廊下に立ち尽くしていた。
『ただ、生きていて欲しかっただけだよ』
『今は、1人にして欲しい』
扉の向こうで絞り出されたネイの震える声が、何度も何度も、呪いのように頭の中で反響している。
(……拒絶、された)
これまで、あいつが俺を突き放したことなんて一度たりともなかった。 俺がどれだけ身勝手に振る舞おうと、危険な討伐に連れ回そうと、夜に乱暴に抱き寄せようと、あいつはいつも控えめに笑って、俺のすべてを受け入れていた。
それが「俺自身の魅力」だの「相棒としての信頼」だのと、心のどこかで自惚れていた。俺が前を歩いているから、あいつはついてきているのだと。
「……ふざけんなよ、俺……」
サイはノブから手を離し、壁に背を預けると、ずるずると冷たい床へ崩れ落ちた。
両手で頭を抱え込み、自身の髪を乱暴に掻きむしる。
あいつは、他の女のところへ行けと言った。
死にかけの蒼白な顔で、無理やり笑みを作って。俺に「都合のいい女」として見限られないよう、必死に自分の心すら殺して。
どの面下げて、酒を飲んで他の女を抱けるっていうんだ。あいつが命をすり減らして俺を生かしてくれたというのに。
(『生きていて欲しかっただけ』……)
その言葉の重さに、サイは息が詰まった。 俺が「最強になる」と息巻き、死線をゲームのように楽しんで無茶な踏み込みをするたび、あいつは背後でどれほどの恐怖と絶望を味わっていたのだろうか。
俺が気持ちよく剣を振るい、手柄を立てて歓声の中心にいた裏側で、あいつは一人、隠蔽魔法を張った暗い森の中で、内臓を焼かれるような激痛にのたうち回っていたのだ。
すべては、底抜けの馬鹿で無謀な俺を、死なせないためだけに。
「……っ、ぐ……」
ギリッ、と奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。
自身の愚かさと、底知れないクズっぷりに、再び強烈な吐き気が込み上げてくる。
『あの歳であの器量だぞ。絶対手ェ出してんだろ?』
『……まあな。服脱ぐと、結構いい身体してるよ』
酒場での自分の浅ましい笑い声が、耳にこびりついて離れない。
あの時、俺の言葉を聞いて他の男に絡まれたあいつは、路地裏でどんな気持ちで涙をこぼしたのか。どんなに惨めな思いで、自分の価値をすり減らしたのか。
俺は剣の腕だけを一丁前に磨いて、Sランクに手が届くと思い上がっていた。
だが、その実態は、背後にいるたった一人の少女の血と涙と命を啜って生き延びていた、ただの寄生虫じゃないか。
「……俺は、どうすればいい……」
サイは血が滲むほど強く拳を握りしめ、冷たい石の床に打ち付けた。
ドンッ、と鈍い音が廊下に響くが、拳の痛みなど、あいつが味わった苦痛に比べれば無に等しい。
今すぐあの扉を開けて、床に土下座して、あいつを抱きしめて謝り倒したかった。
『もう無茶はしない』『お前をただの便利屋だなんて思ってない』と、ありったけの言葉で伝えたかった。
でも、今の俺の汚い手で、ボロボロになったあいつに触れる資格なんて、どこにある? あいつは「1人にして欲しい」と泣いたのだ。俺の存在そのものが、今はあいつを傷つける凶器でしかない。
扉の向こうからは、何の音も聞こえてこない。
それが余計に、声を殺して泣いているあいつの姿を想像させて、サイの心臓をズタズタに切り裂いた。
剣を振ることしか知らない不器用な男は、薄暗い廊下で膝を抱え、ただ自身の無力さと取り返しのつかない後悔の念に、静かに、そして無様に打ちのめされていた。
窓の外が白み始めている。
サイは服を着たまま自分の部屋のベッドに横たわり、瞬きもせずに染みの浮いた天井を見つめていた。
昨晩、治療院から戻ってきてから、結局一歩も部屋を出なかった。
酒を飲んでバカ騒ぎをする気になどなれるはずもなかった。目を閉じれば、青白い顔で無理やり笑おうとしていたネイの痛々しい姿が脳裏に焼き付いて離れず、罪悪感と後悔がどろどろと胸の奥で渦を巻いて、一睡もできないまま朝を迎えてしまった。
ギィ……と、微かな軋み音が壁の向こうから聞こえた。
続いて、パタン、と静かに扉が閉まる音。そして、引きずるような重い足音が少しだけして、やがて聞こえなくなった。
ネイだ。 治療院から、隣の自分の部屋へ戻ってきたのだ。
サイは弾かれたように身を起こしたが、ベッドの端に腰掛けたまま、そこから一歩も動くことができなかった。 扉のすぐ向こうの廊下に出れば、隣の部屋のドアノブには手が届く。だが、その扉を開けて、今の俺はあいつに何を言えばいい?
「悪かった」と頭を下げるか? 「もう無茶な討伐はしない」と誓うか?
――全部、今更だ。 あいつがどれほどの痛みに耐え、魔力回路を焼き切るような真似をしてまで俺を生かそうとしてくれたかを知った今、そんな上辺だけの言葉を並べたところで、薄っぺらすぎて反吐が出る。俺の陳腐な謝罪なんかで、あいつの削られた命が元に戻るわけじゃない。
『ただ、生きていて欲しかっただけだよ』
ネイが泣きそうに顔を歪めて絞り出したその言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。
自分の命を削り、泥にまみれ、他の男に安い女だと笑われても。それでも見返りすら求めず、ただ俺が明日も息をしていることだけを祈ってくれていた。
そんな常軌を逸した献身を捧げてくれる彼女に、俺はいったい何を返せるというんだ?
金か? これから先、守ってやることか? 違う、そんなもので釣り合うはずがない。俺の命そのものを差し出したって、あいつが俺に向けてくれている途方もない想いの重さには、きっと足りない。
(そもそも……俺たちは、恋人ですらない)
サイは両手で顔を覆い、深く息を吐き出した。
俺が勝手に夜の相手として抱き、勝手に「便利だ」と都合よく扱って、あいつの好意にただ乗りしていただけだ。愛の言葉なんて一度も囁いたことはないし、あいつも俺にそれを求めてこなかった。
じゃあ、俺はあいつをどう思っている? これだけ後悔して、自分のクズっぷりに吐き気を催している俺は、あいつのことを愛しているのか? それとも、ただ「自分に都合よく尽くしてくれる存在」を失うのが怖いだけなのか?
「……分かんねぇ……」
今のサイには、自身の感情の正体すら理解できなかった。ただひたすらに、自分が彼女の隣に立つ資格のない、底抜けの愚か者だという事実だけが重くのしかかっている。
隣の部屋の壁越しに、かすかな物音がした。
ただ壁一枚隔てたところに彼女がいる。その気配を感じるだけで、心臓を鷲掴みにされたように息が詰まり、苦しい。
サイは頭を抱え込んだまま、ひんやりとした朝の空気の中で、ただ己の惨めさと無力さに身をすくませるしかなかった。




