第5話
鼻をつく薬草の匂いと、見慣れない白い天井。
重い瞼をこじ開けたネイは、数秒遅れて自分がどこにいるのかを理解した。
(ここは……治療院……?)
視線を巡らせると、ベッドの傍らに置かれた丸椅子に、サイが身を屈めるようにして座っていた。彼の大きな手は自身の顔を覆っており、その背中はひどく丸まっている。
サーッと、全身から血の気が引いていくのがわかった。
(どうしよう……見つかったんだ)
部屋で一人、意識を手放した記憶が蘇る。鍵は閉めていたはずだが、この状況を見れば、彼が扉を開けて倒れている自分を見つけ、ここまで運んできたことは火を見るより明らかだった。
限界を超えた魔力枯渇。その痕跡は、治療師が見れば一発でバレる。 彼に、知られてしまった。自分が常軌を逸した無茶をして、命を削っていたことを。
「……サ、イ……?」
掠れた声が出た。ビクッと肩を震わせたサイが、弾かれたように顔を上げる。 その目はひどく充血していて、いつもの不敵な余裕など微塵もなかった。
「ネイ……! お前、気がついたか……!」
「あ、あのね、サイ! 違うの、これは……!」
ネイは弾かれたように身を起こそうとし、激しい眩暈に襲われてシーツを強く握りしめた。それでも、必死に口を動かさなければならなかった。
重い女だと思われたくない。
気味が悪いと突き放されたくない。
彼にとって「便利で手間のからない相棒」でいなければ、隣に立つ資格すら失ってしまう。
「ごめんね、心配かけちゃって……! ほら、この間のキマイラ戦で、私の魔法が全然通用しなかったじゃない? それが悔しくて……ちょっと、森で魔術の練習をしすぎちゃったみたい」
乾いた唇に無理やり笑みを貼り付け、ネイは努めて明るい声を出した。
「本当に、ちょっと無理しただけだから! もう全然大丈夫だし、後で一人で宿に帰れるから……サイは、気にしないで飲みに行ってきてよ」
サイの表情が、さらに苦痛に歪んだ。
まるで刃物で胸を抉られているかのような、見たこともないほど痛々しい顔。
(やめて……そんな顔、しないで……)
サイはいつも通り、呆れたように笑って「バカかお前」と言ってくれればいい。私のことなんて適当にあしらって、自分の手柄と欲望だけを満たしてくれれば、それでいいのに。 彼のその苦しそうな顔は、ネイの罪悪感と惨めさをこれでもかと刺激した。
今すぐ彼にここからいなくなってほしかった。これ以上、自分の惨めな嘘を聞かせたくなかった。
「ほら……あのお店の、アイちゃんだっけ。サイが最近狙ってるって言ってた子」
込み上げてくる熱い嗚咽を必死に喉の奥へ押し込み、ネイは決定的な言葉を口にした。
「今日こそ落とすって、この間も張り切ってたじゃない。キマイラの報酬でお金もいっぱいあるんだから、ぱーっと楽しんでおいでよ。……私のことなんか気にしてたら、他の奴に取られちゃうよ?」
他の女の腕の中へ、大好きな男を送り出す。
心臓がズタズタに引き裂かれ、血を流しているのが自分でもわかった。それでも、これが彼にとって一番「都合のいい女」の振る舞いのはずだ。
「……だから、行って」
シーツを握る手が、震えを隠すように白くなる。
早く行って。私を一人にして。これ以上優しくされたら、本当に壊れてしまう。
病室に、重く息苦しい沈黙が落ちた。 サイは何も言わず、ただ血を吐くような目でネイを見つめていた。やがて、彼の口から、絞り出すような低い声が零れ落ちる。
「……どうして」
そのたった一言に込められた感情の重さに、ネイは息を呑んだ。 怒りでも、呆れでもない。それはただ純粋な、彼自身の内側から血を流しているような、痛切な問いかけだった。
「どうして」
そのたった一言に込められた、サイの血を吐くような響き。
それを受けた瞬間、ネイの顔に無理やり貼り付いていた「都合のいい女」の笑みが、音を立てて崩れ落ちた。
もう、誤魔化す気力すら残っていなかった。 ズタズタになった魔力回路の痛みよりも、彼のその苦しげな顔を見ていることのほうが、ずっと胸を抉られるように痛かったからだ。
「……サイに」
震える唇から、ぽつりと声がこぼれ落ちる。
「サイに……ただ、生きていて欲しかっただけだよ」
それは、彼女の奥底に横たわる、たった一つの偽らざる真実だった。
いつか必ず訪れる彼の「死」の未来。それを打ち砕くためなら、自分がどうなっても構わなかった。笑い者にされても、都合よく消費されても、命を削り尽くしても。
ただ、明日も彼が息をして、笑って、馬鹿な夢を語ってくれてさえいれば、それでよかった。
「それ以外に、理由なんてない……」
ネイはゆっくりと顔を背け、窓の外の薄暗い空へと視線を逃がした。
これ以上彼を見ていたら、せき止めていたものがすべて決壊してしまいそうだった。惨めで、重くて、鬱陶しい自分の感情を、これ以上彼にぶつけるわけにはいかない。
「……明日には元気になるから。だから、お願い」
シーツを握りしめる手に、ぎゅっと力を込める。
「今は、1人にして欲しい」
拒絶の言葉だった。
今まで一度だってサイの誘いや頼みを断ったことのないネイが、初めて明確に彼を突き放したのだ。
病室に、痛いほどの沈黙が降りた。
サイが息を呑む気配がした。何かを言おうとして、唇を震わせ、けれど結局、何の言葉も紡げなかったのだろう。
今の彼には、彼女にかけるべき言葉も、慰める資格も、何一つ持ち合わせていなかったのだから。
衣擦れの音がして、丸椅子が静かに後ろへ引かれた。 重い足音がベッドから遠ざかっていく。
ガチャリ、と。 木製の扉が開かれ、そして、静かに閉まる音が病室に響いた。
サイは、本当に何も言わず、黙って出ていった。
一人きりになった白い部屋で。
ネイは丸く身を縮こまらせ、シーツに顔を押し当てて、声にならない声で泣きじゃくった。 彼を突き放した胸の痛みと、これで本当に彼との繋がりが途絶えてしまうかもしれないという絶望が、冷たくなった身体を容赦なく苛み続けていた。




