第4話 サイ
「……寝てるのか?」
何度か扉を叩き、声を張ってみても、部屋の中からは寝返りを打つ衣擦れの音すら聞こえてこなかった。
サイは少しの間その場に立ち尽くしていたが、やがて乱暴に頭を掻きむしった。
ハンツに絡まれて泣いていたという話が頭にこびりついていたが、俺が今ここで扉をぶち破って入ったところで、気の利いた慰めの一つも言えるわけがない。それに、昨日のキマイラ戦の疲労がまだ残っているのだろう。
「……まあ、明日になればいつも通り起きてくるだろ」
サイはそう自分に言い聞かせ、踵を返して隣にある自分の部屋へと戻っていった。
*
翌朝。 窓から差し込む陽の光で目を覚ましたサイは、違和感に眉をひそめた。
いつもなら、とっくにネイが部屋にやってきて、やかましいくらいに朝食の準備や装備の手入れを急かしてくる時間だ。しかし、隣室からは何の物音もしない。
嫌な予感が足元から這い上がってくるのを感じながら、サイは部屋を飛び出した。
「おい、ネイ! 起きてるか!?」
扉を叩くが、昨日と同じく返事はない。ノブを回しても鍵がかかったままだ。
「クソッ……おい、親父!! ちょっと鍵開けてくれ!」
サイは階段を駆け下り、宿の主人を怒鳴りつけるように呼んで合鍵を持たせた。 主人が震える手で鍵を開け、扉がギシリと音を立てて開いた瞬間――サイの呼吸が止まった。
「……ネイ!!」
ベッドは整えられたまま。その傍らの冷たい床板の上で、ネイは泥だらけの服を着たまま倒れていた。
駆け寄って抱き起こすと、その身体は氷のように冷たい。顔は透けるように白く、固く閉じられた目元には、昨日流したであろう涙の跡が赤く、色濃くこびりついていた。
(なんだこれ……なんでこんなに冷たいんだ!?)
サイの胸の奥で、心臓がドクン、ドクンと嫌な音を立てて跳ね回る。
今までどんな強敵を前にしても感じたことのない、明確な『恐怖』だった。サイは毛布でネイをくるむと、そのまま彼女を抱き抱え、街で一番腕のいい治療師の元へと全速力で駆け出した。
*
「……彼女の相棒というのは、あんたかい」
静まり返った治療院の廊下。診察室から出てきた初老の治療師は、壁に寄りかかって息を荒げているサイをひどく冷たい目で見据えた。
「ああ。ネイの具合はどうなんだ!? キマイラの毒でも残ってたのか!?」
「毒? 違う。……あんた、彼女に何をさせたんだ」
治療師の静かだが怒りを孕んだ声に、サイは眉間に皺を寄せた。
「は? 何をって……どういうことだよ」
「とぼけるな。彼女の身体は中も外もボロボロだ。こんな無茶、よほど強制でもされない限り普通の魔道士がやるはずがない」
「だから意味がわかんねぇって言ってんだろ! 今は討伐の依頼も受けてねぇし、昨日だってあいつはずっと休んでたはずだ!」
声を荒げるサイに対し、治療師は大きなため息をつき、ひどく重い事実を告げるように口を開いた。
「彼女は、意図的に『魔力枯渇』を何度も起こしている。それも、致死量の一歩手前まで限界まで魔力を絞り出すという、常軌を逸したやり方でだ」
「……魔力枯渇? なんでそんなこと……」
「自分の魔力の『器』を無理やり広げるためだろう。……あんた、魔力枯渇がどれほどの苦痛を伴うか知っているか?」
サイが黙り込むと、治療師は忌々しげに言葉を続けた。
「全身の血が逆流し、内臓を直接炎で焼かれるような激痛が走るんだ。何度も嘔吐し、息もできなくなり、最悪の場合はそのまま心臓が止まる。命がけの拷問と何も変わらない。彼女の魔力回路は、その無茶な拡張のせいでズタズタに焼け焦げている」
「な……」
「昨日休んでいた? 冗談を言うな。彼女の服には『静寂の森』の泥がこびりついていた。彼女は一人で森へ行き、あんたの知らないところで、死ぬ思いで自分の命を削っていたんだよ」
治療師の言葉が、重い鉄の塊のようにサイの頭を殴りつけた。
『……あいつ、怒らせると魔法の加減ができねぇんだ』
酒場で仲間たちに笑いながら言い放った自分の声が蘇る。
ネイがどれほど強力な魔法を撃てるようになったか。それは彼女の才能だと思っていた。だが、違った。彼女は、サイが酒を飲み、笑い、女を抱きに行っているその裏で、たった一人で血を吐くような苦痛に耐え、あの極大魔法を手に入れていたのだ。
「なんで……」
サイの口から、掠れた声がこぼれ落ちる。
「なんであいつは、そこまでして……」
「それは私より、相棒であるあんたの方がよく知っているんじゃないのか? 彼女は今、何とか命は繋ぎ止めたが、いつ目を覚ますかは分からない。……あんたのせいでないと言うのなら、彼女が目覚めた時、ちゃんと向き合ってやることだな」
治療師はそう言い捨てて、再び診察室へと戻っていった。
廊下に一人取り残されたサイは、壁に背を預けたまま、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
震える両手を見つめる。
つい先ほどまで、冷え切ったネイの身体を抱きしめていた手だ。 彼女はなぜ泣いていたのか。なぜ命を削ってまで強くなろうとしたのか。
自分は、何一つ分かっていなかった。 最強を目指すと豪語しながら、すぐ背後にいたはずのたった一人の相棒の心すら、見ようともしていなかったのだ。
治療院の清潔で殺風景な部屋の中、規則的な寝息だけが静かに響いていた。
サイはベッドの傍らに丸椅子を引き寄せ、そこに深く腰掛けてネイの寝顔を見下ろしていた。
すう、すうと、弱々しいが確かな呼吸。治療師の処置のおかげか、先ほどまでの死人のような青白さはいくぶんか和らいでいる。
乱れた前髪の隙間から覗くその顔を、サイはまじまじと見つめた。
(……こんな顔、してたんだな)
普段はローブの大きなフードを目深に被り、俺の背中の後ろに隠れるようにして歩いているから気にも留めなかったが、こうして改めて見ると、造作の整った美しい顔立ちをしていた。
サイは無意識に手を伸ばし、彼女の固く閉じられた目元をそっと指の腹でなぞった。 そこには、昨日ハンツに絡まれて流したであろう涙の跡が、薄っすらと赤く残っている。
その赤みを見た瞬間、ハンツのニヤついた顔が脳裏に蘇り、みぞおちの奥からドス黒い怒りが沸騰しかけた。だが、突き上げた拳の行き場はどこにもなく、虚しく膝の上に落ちた。
ハンツを殴る資格など、俺にはない。
あいつに『夜のほうも便利ないい身体をした女』だと吹聴したのは、他でもないこの俺自身なのだ。俺が蒔いた種が、ただでさえ限界まで擦り切れていた彼女の心を決定的に壊した。
(俺の世話を焼き、黙って身体を開き、無茶な討伐にも文句ひとつ言わずについてくる……)
それが『便利』だったのは、俺が有能な相棒だったからでも、金払いが良かったからでもない。彼女が俺に対して、底知れないほどの『好意』を向けてくれていたからだ。 そんな当たり前のことにすら気づかず、俺は彼女の献身に胡座をかき、ただの便利な道具として消費し続けてきた。
ハンツの下心丸出しの誘いと、酒場での自分の浅ましい笑い声が重なる。
「……っ」
胸の奥から、強烈な吐き気が込み上げてきた。俺はハンツと何も変わらない。いや、彼女の好意を間近で搾取し続けてきた分、俺のほうがよっぽどタチの悪いクズだ。
『サイ、お願いだから今回の依頼だけは取り消して! 黒鋼のキマイラなんて、今の私たちじゃ無茶すぎるよ……!』
キマイラ討伐に向かう前、必死に俺の袖を掴んで止めていたネイの声が蘇る。
どうして彼女が、あんな拷問のような苦痛を伴ってまで魔力の器を広げようとしていたのか。その理由が、氷解するようにサイの頭を満たしていった。
俺だ。
俺が『最強になる』と息巻いて、Sランクの魔獣に無謀な戦いを挑むからだ。 俺が彼女の制止を聞き入れず、自分の命すら軽く扱って死線に踏み込むからだ。
俺の背中を守るために。俺を死なせないために。 彼女は自分の命を削り、内臓を焼かれるような痛みに耐えて、あの極大魔法を手に入れた。
キマイラの首を落とし、「ついにSランクの首を獲った」と無邪気に笑っていた自分を思い出すと、そのまま舌を噛み切りたくなった。あれは俺の実力なんかじゃない。ネイが命をすり減らして作り出した、血みどろの勝機だったのだ。
俺が自分の手柄だと自惚れて、仲間と酒を煽り、金で別の女を抱いて気炎を上げている間。
彼女はたった一人で暗い森に籠り、冷たい泥土に這いつくばって、血を吐きながらまた俺の助けになろうと命を削っていた。
「……最低だな、俺は」
静寂に包まれた病室に、掠れた声がポツリと落ちた。
「ははっ……なんだよ、それ。俺、マジで……どうしようもねぇな」
乾いた、ひどく惨めな笑いが込み上げてくる。
サイは両手で顔を覆い、膝に突っ伏した。どれだけ剣を振って強くなったつもりでいても、自分の足元で血を流しているたった一人の相棒すら守れない。それどころか、自分が彼女を殺しかけていた。
両手の隙間から漏れ出す不格好な嗚咽を、サイはただ必死に噛み殺し続けた。




