第3話
キマイラ討伐からしばらくの間、彼らが受けるべき高ランクの依頼は掲示板に貼り出されなかった。
ぽっかりと空いた休日の間、サイは毎晩のように歓楽街へ繰り出し、同業の冒険者たちと勝利の美酒に酔いしれていた。
一方のネイは、彼が酒場や別の女のベッドで笑っている間、毎日一人で森の奥深くに立ち入り、自らの命を削っていた。
(もっと、もっと魔力の器を広げないと……!)
隠蔽と結界を張り、意識が吹き飛ぶまで魔力を絞り出す。
内臓を直接火で炙られるような激痛。喉の奥からせり上がる血の味と吐き気。何度も泥土に突っ伏し、気絶し、冷たい夜露に叩き起こされては、再び絶望的な枯渇状態へと自身を追い込む。
その常軌を逸した荒療治により、彼女の魔力回路は悲鳴を上げ、常に鈍い熱と痛みを帯びるようになっていた。
その日も、ネイは限界を超えた体をどうにか動かし、夕暮れの路地裏を引きずるようにして歩いていた。
足元はおぼつかず、顔色は幽鬼のように青白い。早く宿に戻って、少しでも体を休めなければ倒れてしまいそうだった。
「おっ、と……! 悪い。って、お前、サイの相棒のネイちゃんじゃん」
不意に肩がぶつかり、頭上からニヤついた声が降ってきた。
重い瞼をすこしだけ持ち上げると、そこにいたのはサイの飲み仲間の一人、ハンツだった。酒臭い息と、値踏みするようなねっとりとした視線がネイの全身を舐め回す。
「いやあ、ちょうど良かった。サイの奴から聞いたぜ? お前、夜のほうも相当いい身体してて『便利』なんだってな」
「……え?」
「なあ、今度俺のパーティーの討伐にも付き合ってくんない? サイみたいに乱暴にはしねえからさ、俺のことも気持ちよくさせてよ。もちろん、色つけたるからさ」
ハンツは下心丸出しの笑みを浮かべ、あからさまにネイの腰へと手を伸ばしてきた。
――その瞬間だった。
ネイの中で張り詰めていた何かが、音を立ててプツンと切れた。
毎日毎日、死の恐怖と激痛に耐えながら彼のために命を削っている。
それなのに、サイにとって自分は、酒の席で他の男に「便利だ」「いい身体をしている」と笑い話の種にされる程度の、安い女でしかなかったのだ。
分かっていたはずだった。都合のいい道具で構わないと、自分に言い聞かせてきたはずだった。 けれど、限界まで酷使され、ボロボロになった心と体は、これ以上の侮蔑と絶望を処理しきれなかった。
「……ぁ……」
ポロリ、と。 ネイの大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。 声を上げて泣く気力すらない。ただ、すり減った命の隙間から溢れ出すように、後から後から涙が頬を伝い、乾いた地面に黒い染みを作っていく。
「えっ……ちょ、おい!」
無表情のまま、幽鬼のような顔でボロボロと涙を流し始めたネイを見て、ハンツの顔からスッと血の気が引いた。
「な、なんだよ、冗談だって! 悪かったよ、俺が調子に乗った! だからそんな……マジでごめん!!」
面倒なことになったと悟ったハンツは、慌てて手を引っ込めると、逃げるように路地の奥へと走り去っていった。
誰もいなくなった薄暗い路地裏で、ネイは膝から崩れ落ちた。
汚れた石畳に手をつき、ポタポタと落ちる自分の涙を見つめる。
(ああ……私、すごく惨めだ……)
好きな男に安い女として他の男に吹聴され、こんな路地裏で一人、心身を壊して泣いている。これほど滑稽で、惨めな生き方があるだろうか。 いっそ、このまま魔力回路が焼き切れて死んでしまえたら、どれほど楽だろう。
けれど。
『サイ……ッ!!』
脳裏にフラッシュバックするのは、胸を貫かれて死にゆくサイの姿と、あの絶望の未来。
「……いや……死なせ、ない……」
ネイは泥だらけの手で、乱暴に涙を拭った。
惨めでもいい。バカにされても、誰かの笑い者にされてもいい。彼が私を愛することなんて一生なくても、ただの「便利な道具」として使い捨てられたとしても。
「生きてさえ、いてくれれば……それで……」
震える足に力を込め、ネイは再び立ち上がる。 どれだけ心が折れそうになっても、彼を想うこの呪いのような感情だけは、決して消え去ってくれはしなかった。
***
歓楽街のネオンが灯り始めた頃、いつもの酒場でサイはハンツと合流した。
しかし、やってきたハンツの顔はひどく引きつっており、開口一番に厄介な報告を持ち込んできた。
「おい、サイ……さっき路地裏で、お前のところの嬢ちゃんに会ったんだけどよ。なんかアイツ、ヤバかったぞ」
「ヤバい? ネイがどうしたって?」
ジョッキに手を伸ばしかけたサイの動きが止まる。ハンツはバツが悪そうに頭を掻きながら、先ほどの顛末を話し始めた。
サイから聞いた「都合のいい女」という話を真に受けて自分も誘ってみたこと。しかしネイは何も言わず、幽鬼のように青ざめた顔で、ただボロボロと涙を流し始めたこと。
「いやマジで焦ったぜ。俺、ちょっと声かけただけなのにさ。あんな死人みたいな顔で泣かれると流石に気味が悪くて……」
――ガタンッ!!
ハンツの言葉が終わるか終わらないかのうちに、サイは椅子を蹴り倒して立ち上がっていた。
自分でも理解できない、どす黒く名状しがたい怒りが頭の先まで沸騰していた。気がつけば、サイの太い腕がハンツの胸ぐらをきつく締め上げている。
「……てめぇ、あいつに何言った」
「ぐっ……! お、おいサイ、冗談だろ!? なんでお前がキレるんだよ!」
サイの瞳孔が開いた獣のような眼光に、ハンツは顔面を蒼白にして叫んだ。
「お前が『ただの便利な相棒』だって言ったんじゃねえか! 俺はそれを真に受けて声かけただけだ! 別に、あいつはお前の恋人とかじゃねえんだろ!?」
「…………っ」
その言葉が、冷水を浴びせるようにサイの頭を殴りつけた。 握りしめていた拳の力が、ふっと抜ける。
ハンツの言う通りだ。サイ自身が、昨日この男たちの前でそう吹聴したのだ。ネイは恋人でもなんでもない、ただの相棒だと。夜の相手もできる都合のいい存在だと。
それなのに、どうして自分は今、反射的に他人に殺意を抱くほど激昂しているのか。自分でもその理由がまったく分からなかった。
「……ああ、そうだな」
サイは乱暴にハンツの胸ぐらから手を離した。
咳き込むハンツを見下ろしながら、サイはひどく苦いものを飲み込んだような顔をした。
「……わりぃ。俺、今日は飲む気なくしたわ。帰る」
「お、おい! サイ!」
呼び止める声を背中で聞き流し、サイは酒場を後にした。
夜の冷たい風に吹かれても、胸の奥のモヤモヤは晴れなかった。
『幽鬼のように青ざめた顔』『ボロボロと涙を流した』。ハンツの言葉が耳にこびりついて離れない。普段から感情をあまり表に出さず、俺の後ろで静かに微笑んでいるあいつが、人前で泣き崩れるなんて余程のことだ。
(……あいつ、今日はずっと宿にいたはずじゃなかったのか?)
気づけば、サイの足は歓楽街とは逆の方向――彼らが定宿にしている裏通りの小さな宿屋へと向かっていた。
*
古びた木造の階段を駆け上がり、サイはネイの部屋の前に立った。 隙間からは灯りも漏れておらず、人の気配が薄い。
「ネイ。いるか?」
声をかけてドアノブを回すが、ガチャリと鈍い音が鳴るだけで扉は開かなかった。内側から鍵がかかっている。いるのは確実だ。
「おい、ネイ。起きてるんだろ。ちょっと開けろ」
コンコン、とノックをする。 返事はない。
「……ネイ?」
少し強めに扉を叩くが、やはり内側からは何の物音も聞こえてこなかった。いつもなら、俺が呼べばすぐにパタパタと足音を立てて扉を開けに来るはずなのに。
サイは扉に手を当てたまま、嫌な汗が背中を伝うのを感じていた。
だが、サイには知る由もなかった。
その分厚い木の扉を隔てたわずか数メートル先。
冷たい床の上で、泥だらけになったネイが、涙の跡を頬に残したまま完全に意識を手放して横たわっていることを。
酷使しすぎた魔力回路が彼女の命の灯火を静かに削り取っていることなど、扉の外に立つ不器用な剣士には、まだ届かない。




