第2話
討伐の依頼がない休日。冒険者たちが酒と休息で身体を癒す中、ネイは一人、街を離れて深い森へと足を踏み入れていた。
魔術を根本から底上げし、あの予知で視た「絶望」を打ち破る極大魔法を放つためには、何よりも絶対的な魔力量の増加が必要だった。
魔力を行使する「器」を大きくする最も手っ取り早い方法は、意図的に魔力枯渇を繰り返し、空っぽになった器を強引に押し広げることだ。
だが、それは一般の魔道士であれば絶対に避ける禁忌に近い行為だった。
極度の魔力枯渇は凄まじい苦痛を伴い、最悪の場合は命を落とす。生き延びたとしても、無理な負荷によって魔力回路そのものが焼き切れ、二度と魔法が使えない身体になる危険性すらある。
(……そんなこと、知ったことじゃない)
森の奥深くに辿り着いたネイは、周囲に何重もの隠蔽と強固な防護結界を展開した。気絶している間に魔物に喰われないための最低限の処置だ。
杖を両手で握り締め、ネイは深く息を吐く。そして、自身の内にある魔力という魔力を、一滴残らず外界へと放出し始めた。 意味を持たない純粋な魔力の奔流が、暴風となって森の木々を揺らす。
「あ……ぁっ、ぐ……!」
数分も経たないうちに、全身の血が逆流するような悍ましい感覚が襲ってきた。
視界が激しく明滅し、内臓を直接鷲掴みにされたかのような猛烈な吐き気が込み上げる。頭蓋骨の中で鐘を打ち鳴らされるような激痛に、ネイはたまらず地面にうずくまった。 指先から感覚が消え、息をするのすら苦しい。自身の命が削り取られていく確かな恐怖。
(足りない……もっと、出し尽くさなきゃ……サイを、守れるくらいに……!)
血の味がする唇を噛み破りながら、最後の残滓まで魔力を絞り出した瞬間――ぷつん、とネイの意識は深い闇へと落ちた。
*
再び目を覚ました時、森はすでに夕闇に包まれていた。
結界はとうの昔に魔力切れで消失しており、運良く魔物に見つからなかったのは奇跡に近かった。
「……はぁ、はっ……」
全身が鉛のように重く、指一本動かすのすら億劫だった。無理やり拡張された魔力回路が、火傷のように熱を持ってズキズキと痛む。
それでもネイは杖を杖代わりにして、泥を引きずるようにしてゆっくりと街へ向かって歩き出した。
すっかり夜の帳が下りた歓楽街の入り口まで辿り着いた時だ。 賑やかな喧騒の中に、聞き慣れた笑い声が混じってネイの耳を打った。
「ははっ、今日は俺のおごりだ! 昨日のキマイラの報酬がたんまりあるからな!」
道の向こう側。見間違えるはずもない、サイの姿があった。
彼は同業の男の冒険者たちと肩を組み、上機嫌で夜の街へと歩き出そうとしているところだった。洗いたてのシャツを着て、戦闘の時とは違う、年相応の無邪気で羽目を外した青年の顔をしている。
(ああ……飲みに行くんだ)
そして、しこたま酒を飲んだ後は、きっとあちこちにある娼館の扉を叩き、金を払って愛想の良い女たちを抱くのだろう。
サイにとって、ネイとの行為はあくまで「戦場での昂ぶりや熱を手近なもので処理するため」の手段でしかないのだ。街に戻れば、彼には金を払って抱ける綺麗で都合の良い女がいくらでもいる。ネイという「相棒」をわざわざ休日に呼び出す理由などない。
ズキリ、と。 魔力回路の痛みとは違う鈍い痛みが、胸の奥を刺した。
『おーい、サイ! 早く行こうぜ、いい女が待ってるんだからよ!』
『おう、今行く!』
彼らがこちらに向かって歩き出す。
今の自分の姿は、泥にまみれ、魔力枯渇で幽鬼のように青ざめ、ボロボロだ。こんな惨めな姿を、ただでさえ都合のいい女として扱われている自分を、サイに見られるわけにはいかなかった。休日の彼の楽しみを邪魔する権利など、自分にはないのだから。
ネイは咄嗟に路地裏の暗がりへと身を隠し、息を潜めた。 楽し気な足音と笑い声が、隠れたネイのすぐそばを通り過ぎていく。
「……」
彼らが完全に視界から消えるまで、ネイは冷たい石壁に背中を預け、ただじっと下を向いていた。
自分の命を削る痛みよりも、彼が他の女を抱きに行く背中を見送る方が、ずっと、ずっと痛かった。それでも彼女は、彼が生きているというただ一つの事実だけを心のよすがにして、暗い路地裏で一人、痛む身体を抱きしめた。
***
歓楽街の裏通りにある酒場は、むせ返るような熱気と安いエールの匂いに満ちていた。
「おいおいマジかよ! あの『静寂の森』の主を、たった二人で狩ったってのか!?」
「ああ。まあ、最後は結構ギリギリだったけどな」
テーブルを囲む同業の冒険者たちの驚嘆の声に、サイは得意げに鼻を鳴らしてジョッキを傾けた。Sランク級の黒鋼のキマイラ討伐。その噂はすでにギルドから漏れ伝わっており、今日のサイはどこへ行っても注目の的だった。
「すげぇな、お前……本当にSランクになっちまう気かよ」
「当たり前だ。俺は最強に追いつくって決めてるからな」
サイが笑い飛ばすと、向かいに座っていた赤顔の剣士が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「で? 一緒に組んでるあの魔道士の嬢ちゃん……ネイだっけか。お前ら、実際のところどういう関係なんだよ」
サイは少しだけ首を傾げ、手元のジョッキの中で揺れる琥珀色の液体を見つめた。
どういう関係、と言われても特別な肩書きがあるわけではない。ただ、サイが突っ走る背中を、文句も言わずにずっと追いかけてくる女。
「相棒だよ。後ろから強力な魔法撃ってくれるし、野営の飯も美味い。……まぁ、とにかく便利なんだよ、あいつは」
「便利って……お前なぁ。あの歳であの器量だぞ。絶対手ェ出してんだろ?」
「……まあな。服脱ぐと、結構いい身体してるよ」
サイが事もなげにそう答えると、テーブルがドッと下品な歓声に包まれた。男たちは口々に冷やかしの言葉を浴びせ、酒場の熱気はさらに一段階上がる。
「マジかよ、羨ましいぜ! なあサイ、お前らそういう割り切った関係ならさ……今度、俺にもネイを貸してくれよ! もちろん金は――」
ドンッ!!
サイ自身も無意識のうちに、手元のジョッキをテーブルに強く叩きつけていた。 中身のエールが跳ね、木のテーブルに染みを作る。周囲の男たちがビクッと肩をすくめて黙り込んだ。
(……なんだ?)
サイは、自分の中を突風のように駆け抜けた感情の正体に戸惑っていた。
心臓の奥が冷たく強張るような、無性に誰かを殴り飛ばしたくなるような、鋭い苛立ち。仲間が軽い冗談を言っただけだ。遊女を融通し合うようなノリで、ネイの名前を出しただけ。それなのに、ひどく腹が立った。
「……冗談はやめとけ」
サイは努めて平坦な声を作り、口角を無理やり上げてみせた。
「あいつ、怒らせると魔法の加減ができねぇんだ。お前、ベッドの上で消し炭にされたくはないだろ?」
サイがそう言って笑い飛ばすと、男たちも「違いない」「あの氷壁の魔法はえげつねぇからな」と笑って誤魔化し、すぐに別の話題へと移っていった。
しかし、サイの心の中には、泥水が沈殿したような奇妙な不快感が張り付いたままだった。 酒の味が急に薄く感じられ、サイはぼんやりと昨日のネイの姿を思い返していた。
キマイラの首を落とし、振り返った時の彼女の顔。 極大魔法を撃った後とはいえ、彼女は異常なほど青ざめていた。立っているのもやっとという風に小刻みに震えながら、それでも必死に笑顔を作って『おめでとう』と言った、あの掠れた声。
夜、ベッドの中で抱き寄せた時もそうだ。 彼女は何も要求しない。ただ、すがりつくように俺の身体に爪を立て、熱を確かめるように抱き返してくるだけ。
(……なんであいつは、あそこまで俺に尽くすんだ?)
金が目当てなら、とっくに他のもっと稼げる安全なパーティーに移っているはずだ。名誉が欲しいわけでもないだろう。あいつの極大魔法は王宮魔術師にも引けを取らない。その気になれば、もっと良い待遇の場所なんていくらでもある。
それなのに、どうして死と隣り合わせの無茶な討伐に文句ひとつ言わずについてきて、自分の身体まで差し出すのか。
「……チッ」
サイは小さく舌打ちをした。 どれだけ頭を回しても、剣を振ることしか知らない自分の脳みそでは、複雑な他人の感情の機微など分かりはしない。面倒な思索は、サイの性に合わなかった。今はただ、キマイラを倒したこの勝利の美酒に酔いしれるべきなのだ。
「おい、エールのおかわりだ! 今日は朝まで飲むぞ!」
サイは頭の中に湧き上がった疑問を振り払うように大声を上げ、なみなみと注がれた冷たい酒を喉の奥へと流し込んだ。 自分が何も分かっていないこと、彼女がどれほどのものを削って隣に立っているのかを知らないまま、サイは喧騒の中へと思考を沈めていった。




