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第13話

「奈落の底」と呼ばれる古代遺跡の最深部。

そこは、文字通り死の匂いだけが充満する絶望の底だった。


「……はぁっ、はぁ……ッ!」


全身を朱に染めたサイは、折れかけた愛剣を杖代わりに、かろうじて立ち上がった。

視線の先には、遺跡の天井に届くほどの巨体を持つ『古の滅竜』が、腐肉と瘴気を纏いながらゆっくりと鎌首をもたげている。


Sランクなどという枠組みすら生ぬるい、神話の化け物。

サイの渾身の一撃すら、その分厚い鱗には浅い傷をつけることしかできなかった。防御を捨て、死に物狂いで踏み込んでも、圧倒的な暴力の前に紙屑のように吹き飛ばされる。


(強ぇ……。なんだよこれ、ふざけんな……)


血の混じった唾を吐き捨てる。視界は自身の血で赤く染まり、肋骨は数本折れている。

それでも、サイの瞳から戦意は消えていなかった。

俺が最強にならなければ。あのボロボロになったネイの前にひざまずき、「俺の隣に戻ってきてくれ」と請うための、たった一つの免罪符なのだ。


だが、現実は残酷だった。

滅竜が咆哮を上げ、巨大な前脚を大きく振りかぶる。その鋭い爪が空気を引き裂く音を聞いた瞬間、サイは自身の体勢が完全に崩れていることに気づいた。


よけられない。


その爪は、真っ直ぐにサイの胸の中央――心臓を狙って振り下ろされようとしていた。



同じ頃。

街から遠く離れた薄暗い森の奥底で。 泥の上にうずくまり、死んだように動かなかったネイの脳裏に、突如として『それ』はフラッシュバックした。


『サイ……ッ!!』


視界が真っ赤に染まる。

巨大な竜の爪。崩れ落ちた遺跡。サイの折れた剣。

そして、彼が避けきれず、その胸を深々と貫かれる決定的な瞬間。


(――今だ)


気まぐれな未来視が、これまでにないほどの鮮明さでネイの脳髄を殴りつけた。

数日後でも、明日でもない。「今、この瞬間」、サイが死の淵に立っている。


「ぁ……あ……っ!」


完全に心を殺していたはずのネイの身体が、弾かれたように跳ね起きた。

感情の死んだ瞳に、再び狂気にも似た強烈な光が宿る。


(サイは他の女と笑う。あいつは私を気味が悪いと捨てた。……それでも!!)


ネイは杖を握り締め、自身の命そのものである魔力回路を、躊躇いもなく全開にした。

森の木々が吹き飛び、大気が悲鳴を上げる。 距離は関係ない。標的は『奈落の底』。サイの視界に入らない遥か遠方から、極大の魔力をただ一点に収束させる。発動の光も、魔力の波動も、すべてを隠蔽する術式を幾重にも重ねながら。


「私の命なんて、全部あげるから……!」


口からどす黒い血を吐き出しながら、ネイは自身の存在すべてを魔法陣へと注ぎ込んだ。 彼が死ぬくらいなら、私が化け物になって運命を撃ち抜く。


「――貫けッ!!」




滅竜の巨大な爪が、サイの胸を貫く直前。

走馬灯のように脳裏をよぎったのは、やはりネイの顔だった。


『足手まといなんだよ』

俺が吐き捨てたあの言葉に、彼女はどれほど絶望しただろう。


(……ごめん。結局俺は、お前に謝ることもできねぇまま……)


サイがゆっくりと目を閉じかけた、その刹那だった。


――音も、光も、何もなかった。 ただ、空間そのものが「削り取られた」のだ。


「……は?」


サイの目前に迫っていた滅竜の巨大な腕が。

そして、その奥にあった巨大な竜の上半身すべてが。

音もなく、光もなく、まるで最初から存在しなかったかのように、完全な虚無へと消え去っていた。

遅れて、凄まじい衝撃波と突風が遺跡内を吹き荒れる。 サイは吹き飛ばされ、地面を何度も転がって壁に叩きつけられた。


何が起きたのか、まったく理解できなかった。

竜の残された下半身からは大量の血が噴き出し、どすんと地響きを立てて崩れ落ちる。一撃。たったの一撃で、神話の化け物が空間ごと消し飛ばされたのだ。

発動の気配も、魔力の残滓すら感じさせない、異常なまでの隠蔽が施された魔法。 しかし、サイの心臓は早鐘のように激しく鳴り始めた。


(……魔法? こんな、神の雷みたいな出鱈目な魔法を撃てる奴なんて……)


この世に、たった一人しかいない。

俺に魔法を使わせまいと特攻した俺を守るため、あのオーガの群れの中で、命を削って『熾天使の鎧』を降ろした、あの不器用で、馬鹿みたいに俺に一途な相棒。


『……期待しててね。サイの背中、しっかり守るから』


「……ネイ……?」


サイは震える足で立ち上がり、崩れ落ちた遺跡の天井の隙間――遥か遠く、街の外に広がる深い森の方向を見つめた。 こんな遠距離から? 気配すら一切消して? それは「もう二度と顔を見せないで、ただ影からサイを守る」という、彼女の悲壮な決意の表れそのものだった。


「ネイ……お前、まさか……!!」


あれほどの魔法を、安全に撃てるはずがない。 自身の魔力回路がどうなるか、サイにも痛いほど想像がついた。



「……っ、あ……ぁ……」


森の奥深く。 極大魔法を放ち終えたネイは、糸が切れた操り人形のように、冷たい泥の上へと崩れ落ちた。

全身の毛細血管が破裂し、白い肌は痛ましいほど血に染まっている。限界のその先まで酷使された魔力回路は完全に焼き切れ、もはや彼女の体内に一滴の魔力すら残されていなかった。


指先一つ動かせない。呼吸をするたびに、肺から血の泡がこぼれる。 完全な致命傷だった。命の灯火が、音を立てて消えかかっているのがわかる。

それでも。

使い魔の最後の視覚が途切れる直前、傷だらけになりながらも立ち尽くすサイの姿を確かに確認した。


(……よかった。サイ、生きてる……)


予知の未来は、完全に打ち砕かれた。 彼はこれからも、あの女冒険者や新しい仲間たちと、Sランクの剣士として光の中を歩いていくのだ。

その背中を、最後に一度だけ守ることができた。


「……サイ……」


血に染まった唇に、ふわりと、この数日間で初めての穏やかな微笑みが浮かぶ。

一人きりの冷たい森の中で、誰にも気づかれず。

ネイは、愛する彼への献身だけを胸に抱き、静かに瞳を閉じた。


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