第11話
鬱蒼とした森の奥深く。日の光すら届かないじめじめとした空間で、ネイは今日も冷たい土の上に倒れ伏していた。
「……はぁ、はぁ……」
幾度となく死の淵を彷徨う魔力枯渇。最初は内臓を火で炙られるような苦痛にのたうち回っていたが、狂ったように繰り返すうち、ネイは痛みの感覚を麻痺させ、自身の魔力の「器」を強引に限界突破させるコツを完全に掴んでいた。
極限状態まで魔力を絞り尽くしては気を失い、目覚めると同時に、拡張された器に引き寄せられるように新しい魔法の術式が降りてくる。
それは、一人の人間の枠を逸脱した、どれも国を滅ぼしかねないほどの恐ろしい極大魔法ばかりだった。
ネイがそれらの魔法を試す際、最も心血を注いだのは威力ではなく、徹底的な『隠蔽』だった。
(気づかれてはいけない。絶対に)
どんなに巨大な威力の魔法を放とうとも、発動の気配、詠唱、魔力の光、そして放った後の残滓に至るまで、すべてを無に溶け込ませる。それが今のネイに課せられた絶対条件だった。
もし彼に私が魔法を撃ったとバレてしまえば、また「足手まといだ」「鬱陶しい」と拒絶され、彼を守る手立てすら奪われてしまうから。
『気づかれてはいけない』
『気づかれてはいけない』
呪いのようにその言葉を唇で反芻しながら、ネイは森の奥でただひたすらに、己の痕跡を消し去る術式を組み込み続けた。
ここ数日、彼女の顔からは喜怒哀楽のすべてが削り落ち、人形のように表情が動くことはなかった。
短く切った髪の隙間から覗く瞳には一切の光がなく、ただ一つの目的を遂行するためだけの冷たい機械に成り果てていた。
*
時折、術式の確認の合間に、ネイは使い魔の鳥を街へ飛ばしてサイの動向を探った。
サイは今、一切の討伐依頼を受けていないようだった。
(きっと、新しいメンバーを探しているんだ……)
私なんかよりもずっと有能で、足手まといにならなくて、気持ち悪くない、彼にふさわしい相棒。そして夜には、彼を気持ちよくさせてあげられる、綺麗な女を。
そう思うと心臓がひび割れるように痛んだが、今の彼女には、嫉妬で取り乱す気力すら残っていない。
ただ、冷たい森の地面に背を預けて夜を明かす時。
張り詰めた意識が微睡みに落ちるほんの一瞬だけ、強固な防衛機構にヒビが入ることがあった。
『……いいか?』
耳元で囁かれた掠れた声。乱暴だけれど、確かに生きて脈打っていた彼の鼓動。不器用に重なった肌から伝わってくる、焼け付くようなあの体温。
「……ぁ……」
生気のない瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。 ネイは自身の短い髪を掴み、細く痩せ細った自身の肩を、両腕で強く、強く抱きしめた。
どんなに魔法の腕が神の領域に近づこうとも、この腕の中に彼を引き寄せることはもう二度とできない。
彼が抱いてくれた感触を思い出しながら、ネイは自分自身の身体を抱きしめることしかできなかった。
「サイ……サイ……」
表情の死んだ顔のまま、声を出さずに咽び泣く。
泥にまみれ、人間としての幸せをすべて投げ打った少女は、凍えるような暗い森の中で、ただ彼に愛されたかったという叶わぬ夢の残骸を抱いて、一人静かに涙を流し続けていた。
使い魔の鳥の視覚を通して街の光景を覗き見ていたネイは、冷たい森の泥土の上で、ふっと息を呑んだ。
視界の先。冒険者ギルドの前で立ち止まるサイの元へ、一人の女冒険者が小走りで駆け寄っていくのが見えた。
陽光の下で揺れる明るい色の髪。快活で、誰にでも分け隔てなく接する彼女のことを、ネイもよく知っていた。そして、彼女が以前から密かにサイへ熱い想いを寄せていることにも、ずっと前から気づいていた。
視覚共有の魔法越しでは声までは聞こえない。しかし、彼女が頬を染めながらサイを見上げ、何かを一生懸命に話しかけている様子ははっきりと分かった。
サイは少し戸惑ったように首を掻き、それでも彼女を冷たく突き放したりはせず、その場に留まって言葉を返している。
(ああ……)
暗く湿った森の奥底で、ネイの唇から掠れた吐息が漏れた。
とうとう、この時が来てしまったのだ。
当然のことだ。「足手まといで重い、気味の悪い女」を切り捨てた彼が、いつまでも一人で立ち止まっているはずがない。
彼女なら、きっとサイの邪魔はしない。明るく彼を支え、サイは彼女と新しいパーティーを組み、共に新しい冒険へと出かけていくのだろう。 美味しいご飯を食べ、勝利を笑い合い、そして夜になれば――あの大きく不器用な手は、自分ではなく、彼女の温かい身体を抱きしめるのだ。
プツリ、と。 ネイは使い魔との視覚共有を自ら断ち切った。
太陽の眩しい街の光景が消え、再び暗く、じめじめとした森の静寂がネイを包み込む。
『感情なんて、もう捨てた』
『ただ彼を生かすための、顔のない魔法の砲台になれればそれでいい』
そうやって、自分の心を完全に殺し切ったはずだった。 彼が誰と笑おうが、誰を抱こうが、彼が生き延びてくれさえすればそれでいいと、本気で思っていたはずだった。
「……あ、ぁ……」
ポタ、ポタと。 枯れ果てたはずの瞳から、熱い雫がとめどなくこぼれ落ち、冷たい泥の地面に黒い染みを作っていく。
「ひっ、ぅ……あ、ああぁ……っ」
息が詰まり、喉の奥から獣のような嗚咽が漏れた。 泥だらけの震える両手で必死に顔を覆っても、涙は指の隙間から後から後から溢れ出し、どうしても止めることができなかった。
痛い。苦しい。胸の奥を、見えない刃で何度も何度も滅多刺しにされているようだった。
魔力枯渇の激痛なんて比にならないほどの絶望が、ネイの全身を容赦なく引き裂いていく。
サイはもう、完全にネイを忘れ、新しい光の中へ歩き出そうとしている。 彼との繋がりは、これで本当に、一欠片も残らず消え去ってしまったのだ。
冷たい森の暗闇の中で、ネイは自身の身体をきつく抱きしめ、声も枯れ果てるまで、ただ独り泣き叫び続けた。




