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第10話

『サイ……! サイッ!!』


喉が裂けるような悲痛な泣き声が、耳の奥にべったりとこびりついて離れない。 どれだけ頭を振っても、耳を塞いでも、ネイの絶望に満ちた顔と声がサイの脳内を無限にループし続けていた。


「……っ、ああ……くそっ……!」


一人きりの薄暗い部屋で、サイは自身の髪を乱暴に掻きむしった。

今更になって、取り返しのつかないことをしたという酷い後悔が、泥水のようにサイの全身を飲み込んでいく。

よく考えてみれば、俺はあいつに一度だって、まともな言葉を返していなかった。

命を削ってまで俺を生かしてくれたことへの「ありがとう」も。

俺の身勝手で傷つけ、痛い思いをさせたことへの「ごめん」も。

自分の罪悪感と無力さから逃げるために、あいつの純粋な献身を「重い」と切り捨てた。散々便利に使い倒しておいて、最後は自分の都合でボロ雑巾のように捨てたのだ。


「……本当に、どうしようもないな、俺は」


サイの口から、掠れた自嘲がこぼれ落ちた。底知れないクズだ。剣の腕がどれだけ上がろうと、男としては最底辺のゴミ以下の存在だった。



翌日、重い足取りでギルドに顔を出すと、案の定、サイがネイとコンビを解消したという噂はすでに広まっていた。

遠巻きにヒソヒソと囁かれる中、一人の見知った冒険者がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて近づいてきた。


「サイ、聞いたぜ。例の嬢ちゃんと別れたんだってな」

「……」

「お前がもう用済みだって言うなら、じゃあ俺が誘おうかな。あいつ、顔もいいし、大人しそうだからベッドでもいいように扱え――」


ドンッッ!!!


ギルドの壁が大きく軋む音が鳴り響いた。

周囲の冒険者たちが一斉に息を呑む。気がつけば、サイはその男の首根っこを片手で掴み上げ、壁に力任せに叩きつけていた。


「……あいつに、指一本でも触れてみろ」


サイの瞳孔は獣のように開き、その全身からは隠しきれない、本気の『殺意』が立ち上っていた。


「あいつを少しでも安く扱ったり……泣かせたりしてみろ。俺がてめぇを殺す」

「ひっ……!? わ、わかった! 冗談だ、冗談だってば……!」


ギリッと首が絞まる音に恐怖し、男は顔を真っ青にして命乞いをした。サイが舌打ちと共に手を離すと、男は這うようにしてギルドから逃げ出していった。

静まり返ったギルドの中で、サイは叩きつけた壁に手をついたまま、深く、深く息を吐き出した。


(……笑わせるなよ)


あいつを泣かせたら殺す、だと? あんな死人のような顔にさせて、心も体もズタズタに引き裂いて、声が枯れるまで散々泣き叫ばせたのは、どこのどいつだ。他でもない、この俺自身じゃないか。

どの口がそんな台詞を吐いているのか。自身のあまりの滑稽さと偽善に、サイは吐き気すら覚えた。



その夜。

サイは歓楽街の薄暗い酒場に転がり込み、最も度数の高い安酒を、文字通り浴びるように胃へと流し込んでいた。

痛みを忘れたかった。あの泣き声から逃げたかった。

しかし、何杯ジョッキを空けても、一向に酔いが回ってこない。アルコールで脳を麻痺させたいのに、頭は嫌になるほど冴え渡り、アルコールの味はただの苦い泥水のようにしか感じられなかった。


「……くそ……酔えねぇよ……」


テーブルに突っ伏し、サイは空になったグラスを強く握りしめた。

瞼を閉じれば、暗闇の中でネイの泣き顔が鮮明に浮かび上がる。サイが彼女を傷つけた罪の記憶は、酒なんかでは決して洗い流せないほど、深く彼の魂に刻み込まれてしまっていた。


***


ひどい二日酔いの頭を抱え、サイが昼過ぎに自室を出た時のことだ。

ふと隣の部屋を見ると、扉が開け放たれていた。 シーツは綺麗に剥がされ、机の上には何一つ私物が残っていない。部屋を片付けていた宿の主人が、サイの顔を見て気まずそうに目を逸らした。


「……嬢ちゃんなら、今朝早くに部屋を引き払って出て行ったよ。お前さんたち、揉めたんだろ?」


その言葉を聞いた瞬間、サイの頭の中が真っ白になった。

コンビを解消し、二度と顔を見せるなと突き放したのは俺だ。彼女が俺の隣からいなくなるのは、当然の帰結でしかない。

それなのに、サイは弾かれたように宿を飛び出していた。

(どこへ行った? どこに宿を変えた!?)


街中の宿屋をしらみつぶしに駆け回り、ギルドの出入り口に張り込み、息を切らして走り続けた。

自分から無残に捨てておいて、なぜこんな血眼になって彼女を探しているのか、サイ自身にも全く分からなかった。

ただ、ここで彼女の居場所を見失ってしまえば。

彼女がこの街のどこで息をしているのかすら分からなくなってしまえば、本当に、永遠にネイとの繋がりが断たれてしまう。それだけが恐ろしかった。もう二度と触れられなくても、声を聞けなくても、あの細い糸が完全に千切れてしまうことだけは、どうしても耐えられなかったのだ。

半狂乱になって街を探し回り、やがて夕暮れ時。 サイはついに、街の外れ――魔物がうろつく森の入り口に近い、うらぶれた安宿から出てくる一つの影を見つけた。


「……ネイ……」


物陰に身を潜めたサイは、出てきたその姿を見て、息を呑んで絶句した。

いつも彼女が身に纏っていた、すっぽりと身を隠す重いフード付きのローブがない。軽装の魔術衣だけを身につけた彼女は、隠すものがなくなったことで、その女性らしいしなやかな身体のラインを無防備なほど残酷に晒していた。

だが、サイを最も驚かせたのはそこではない。 彼女の背中まであった長く美しい髪が、首元で無造作に、短く切り落とされていたのだ。


(髪を……切った……?)


フードも長い髪もなくなり、初めて露わになった彼女の顔立ちは、サイが思わず見惚れてしまうほどに整っていて、美しかった。酒場の男たちが下卑た目で彼女を欲しがるのも頷けるほどの、吸い込まれるような魅力がそこにはあった。

しかし、なぜ髪を切った? なぜあんな無防備な格好で? サイが物陰から呆然と見つめる中、ネイは一切の迷いがない足取りで、夕闇が迫る薄暗い森の中へとただ一人で歩き出していく。


(……おい、どこに行くんだ。その先は……)


声をかけようとして、サイはハッと我に返り、足を引きずって立ち止まった。

『二度と顔を見せるな』と言ったのは俺だ。今更どの面下げて声をかける。それに、彼女は俺から離れて、新しい一歩を踏み出そうとして髪を切ったのかもしれないじゃないか。

サイは奥歯を強く噛み締め、拳を握り込んで、ただ彼女の背中が森の奥へと消えていくのを見送ることしかできなかった。

しかし、この時のサイは、あまりにも決定的なことを見落としていた。


美しい顔を晒し、短くなった髪を風に揺らして森へ向かう彼女の横顔。

その蒼白な顔にはめ込まれた瞳から、感情も、生きる意志も、一切の『光』が完全に失われていることに。

サイから捨てられ、自らの命を遠距離からの魔力砲台として使い潰すことだけを決めたネイは、すでに人としての心を完全に殺し切っていたのだ。

愚かで不器用な剣士は、自身の吐いた残酷な嘘が、一人の少女を後戻りできない本当の化け物に変えてしまったことに、まだ気づいていなかった。


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