第1話
※クズ男注意
ネイの持つ「未来視」は、決して便利なものではない。
自分の意志で視たいものを視られるわけではなく、それは常に気まぐれで唐突だ。彼女に突きつけられた未来は、ただ一つ。
――サイが深い傷を負い、血だまりの中で倒れ伏す光景。
それが「いつ」「どこで」「どんな敵と戦って」起きるのかは分からない。明日かもしれないし、数年後かもしれない。 だからこそ、ネイは絶望的な恐怖を常に抱え続けている。サイが無茶な討伐に挑むたび、「今日がその日かもしれない」と息が止まるような不安に苛まれるのだ。
冒険者ギルドの裏路地で、ネイはサイのローブを必死に引き留めた。
「サイ、お願いだから今回の依頼だけは取り消して! 黒鋼のキマイラなんて、今の私たちじゃ無茶すぎるよ……!」
「ネイ、お前はいつも慎重だな。だけどな、確実な安全牌ばっかり引いてたら、いつまで経ってもSランクの連中の背中は見えてこねぇんだよ」
サイの瞳に宿る光は、痛いほど真っ直ぐだった。 不器用で、ぶっきらぼうで、ただ一途に高みを目指している。ネイは、そんな彼がたまらなく好きだった。
(……私の気持ちなんて、サイは一生気づかない)
「静寂の森」へ向かう馬車の中で、ネイは目を伏せた。
想いを伝えるつもりなど毛頭ない。
昔、彼に命を救われたあの日から、旅の相棒という特等席にいられるだけで、彼女には十分すぎたからだ。
彼が野営で「美味い」と笑ってくれるから、必死に料理の腕を上げた。
彼を絶対に死なせたくない一心で、血を吐くような思いで魔術を磨き続けた。
そして――彼が戦いの昂りや、行き場のない熱を持て余した夜は、黙って自分の身体さえ差し出してきた。
サイにとって自分は、おそらく「器用で便利な相棒」に過ぎないのだろう。荷物持ちができて、後衛から魔法が撃てて、夜の欲求まで満たせる都合のいい女。それで構わなかった。サイが生き延びて、笑ってくれるなら、泥をすするような惨めさだって甘んじて受け入れる。
「静寂の森」は、異様なほど空気が重かった。 唐突に、視界の奥から山のような巨躯が姿を現す。鋼の毛並みを持つ獅子の頭、毒を滴らせる蛇の尾。Sランク級魔獣、黒鋼のキマイラ。
「……来たか。ネイ、俺が前に出る。援護を頼む!」
サイが地を蹴る。キマイラの巨大な爪が、彼のいた場所を軽々と粉砕した。 その凄まじい破壊力を見た瞬間、ネイの心臓が早鐘を打つ。
(まさか、このキマイラが……私が視た未来の……?)
確証はない。しかし、サイの狂気じみた踏み込みを見るたびに、脳裏に「血まみれで倒れるサイ」の映像がフラッシュバックする。
「……チッ、こいつ、想像以上に速いな!」
サイの剣が閃き、キマイラの脚の装甲を削る。だが浅い。サイは己の限界を超えるため、防御を捨ててさらに死線へと踏み込んでいく。
「やめて、サイ! 伏せて! 氷壁よ、展開!」
ネイの必死の魔導が、間一髪のところでサイを即死の軌道から守る。息が上がる。恐怖で指先が震える。
「ははっ、いいぜネイ! お前のおかげで、最高の勝ち筋が見えた!」
サイは不敵に笑うと、全魔力を剣に込めて飛び上がった。
その瞬間、キマイラの蛇の尾が死角からサイを狙って鎌首をもたげる。
(ああ、だめ。ここで彼が死ぬんだ――)
「行かせない……っ!」
ネイの瞳が、限界を超えた魔力の暴走で蒼く輝き始めた。
それが都合のいい女の身勝手な執着だとしても、彼が死ぬ未来だけは、絶対に叩き潰す。
限界を超えた魔力が、ネイの華奢な身体を内側から焼き焦がすように駆け巡る。
(彼が死ぬくらいなら、私の全てを差し出したって構わない……!)
「サイ! 下がって!」
鼓膜を切り裂くような悲痛な叫びと共に、ネイは己の命そのものを削るようにして全身の魔力を杖へと注ぎ込んだ。 大気が悲鳴を上げ、蒼い光が森の暗闇を白日のように照らし出す。それは、何十年も研鑽を積んだ王宮魔術師の奥義すら凌駕する、圧倒的で濃密な魔力の奔流だった。
「なっ……ネイ、お前——!」
サイが驚愕に目を見開いて後退した直後、ネイの放った極大の魔術がキマイラへと直撃した。 凄まじい閃光と爆音が静寂の森を揺るがす。木々がなぎ倒され、土埃が天高く舞い上がった。
しかし——煙が晴れた先で、キマイラはまだ四肢を踏ん張っていた。 鋼の装甲はひしゃげ、半身は焼け焦げているものの、その眼光は死に絶えていない。ネイの渾身の一撃をもってしても、Sランクの生命力を完全に断ち切ることはできなかったのだ。
(ああ……だめ、だった……)
魔力を絞り尽くしたネイが絶望に膝を折りかけた、その瞬間。
「上等だ……!!」
サイの歓喜に満ちた咆哮が響いた。
彼にとって、キマイラが生き残ったことなど問題ではなかった。ネイの魔法が作り出した、魔獣の動きが止まるその一瞬。それこそが、彼が待ち望んでいた「完璧な勝機」だった。
サイは地を蹴り、キマイラの懐へと深く、鋭く踏み込む。
防御すら忘れた魔獣の首筋へ、下段から跳ね上がるような銀閃が走った。 硬質な音と共に、鋼の毛並みを持つ獅子の首が宙を舞う。どすん、と地響きを立てて巨体が崩れ落ち、森に再び重い沈黙が戻った。
「ははっ……! やったな、ネイ! ついにSランクの首を獲ったぞ!」
返り血を浴びたまま、サイは無邪気な少年のように満面の笑みで振り返った。その瞳は高みへ近づいた喜びでキラキラと輝き、自分がどれほどの死線を彷徨っていたかなど、微塵も気にしていないようだった。
「…………っ」
ネイの視界は、ぐにゃりと歪んでいた。 極度の魔力枯渇による、立っているのもやっとの激しい目眩。そして、頭蓋を内側から叩き割られるようなひどい頭痛。吐き気すら込み上げてくる。
けれど、ネイは決して膝を突かなかった。 彼に心配などされたくない。足手まといだと思われたくない。「便利で都合のいい相棒」という居場所すら失ってしまえば、もう二度と彼の側にいる理由がなくなってしまうから。
ネイは震える手をローブの下で強く握り締め、痛みを奥歯で噛み殺した。そして、いつものように穏やかな、少しだけ呆れたような微笑みを顔に貼り付ける。
「……おめでとう、サイ」
自分の声がひどく掠れていることに、彼が気づきませんように。
そう祈りながら、ネイは笑って血まみれの彼を出迎えた。




