一章#37 輪廻
世界は廻る。
生と死を繰り返し世界はとどまるところを知らないままいたずらに廻り続ける。
植物として、動物として、人として、多様な世界を廻り自分は今ここにいる。繋がった記憶を思い出す度、思い出すのは死の光景ばかりだ。繰り返すのだから死を悲しむ必要も、生を祝う必要もない。
ただ人が、動物が、植物が、魂を持ち、そこにある。
ただそれだけを寿げばいい。
知らなければ分からない世界というのはこの世界にありふれている。悲しいかな、自分にはそれがあまりに少ない。
弱冠にしてそのことが分かってしまえば『新鮮』が著しく欠如する。人生というのを始めて食事を摂り、眠り、覚醒する。不変の記憶を遡り生に『楽しい』を見出した最後はいつのことだったろうか。
『初めまして』が全て『久しぶり』に変わったのは何百年前だろう。
体の維持だけを目的に鼓動する魂の家出と帰宅を何度見たのだろう。
魂の残り香が芽を出し、魂を迎合する。
空っぽの肉のかたまりに魂が侵入し、鼓動が始まり、産声を上げる。
あの魂は何週目だろう。
いつ『救い』が訪れるのだろう。
前世にどんな悪逆をやらかしたのだろう。
違う。あの人の前世はしがない一般人だ。特筆するような罪もない。どうして彼は、彼女は、私たちは、現世の奴隷であり続けているのだろう。
猫から人の世に成り上がった者を見た。見えた猫は暗い建物の中で門番のようなことをしていた。
それは善なのか。
そもそも猫から人への転生は成り上がりなのか。
そもそも善行を積んだからと言ってどうなる。
善行がいい結果ばかり導かないのは散々見てきた。なら何のために日々を過ごせばいい?
現世利益だけに執心して過ごした生は酷く痛快だった。周りが自分のためにその命を散らし、魂を解放した。けれど皆はこれを『悪』と断じた。
皆が想像する『善』の行く末を知ってしまった私には『善』と『悪』が分からない。分かりたくない。
報われぬ『善』が『善いこと』なのならば、私にはとても耐えられない。
分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない
善かろうと悪かろうと未来は何もわからない。けれど皆は未来を知りえない。当然だ。死んだ後にどうなるのかなど知りようもない。
だからこそ彼ら、彼女らは自らの報いを祈り、今日もその身を酷使する。
知らなくていい。馬鹿でいい。賢い必要などない。知っているからと幸せはないのだから。
だから、私は、僕は、俺は、真に求める、心を尽くして希う。
皆が涅槃に導かれますように
でなければ、この世を怨みたくてしようがないから




