三章#28 魂に刻まれたもの
冥界と、あの船頭はそう言った。
ここは陽の光が全く無いせいで暗く、その上、大地は活気というものの対極を思わせるような色をしている。確かに冥界、もっと言えば御伽囃子で語られる『地獄』と呼ばれるような景色だ。
碧は前を行く死者の先、城郭を思わせる壮大な建物へと目を向ける。
大地と似た赤黒を基調とした壁に瓦で作られた屋根。その最も高い両端には金色の装飾が場違いな程に映えている。
目の前にそびえ、威容を放つそれが自分の行くべき、向かうべき先だと分かる。私はあの中で裁きを受ける。
それが分かるのは死者としての本能なのだろうか。それとも閻魔大王という実在不明の概念を生前から知っていたからだろうか。
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前に並んでいた亡者に続き、碧は進み出る。押しつぶされるような圧力に膝を曲げ、正座をするような体勢を取らされた。
見上げた先、首が痛くなりそうな程の高座には大地と同じ赤黒い生地に金の刺繡が入った衣服、さらに長い尺をもった人物がいる。いや、人物というのは不適切な表現だろう。
あれは『閻魔』と呼ばれる冥界の王である。
その周りには司録と司命だろうか?閻魔を補佐する書記官の存在がある。そしてその僅か前、人の全身を容易く収めることができるほどに巨大な鏡がある。浄玻璃の鏡などと呼ばれる死者の生前を映し出すものだろうか。
その鏡が碧の姿を捉え、映し出した。
生前と変わらない姿がそこには浮かんでいる。
それは生前の碧が鏡で見た姿を魂が蓄積されていたからだ。もし、生涯で一度も自分の姿を見ないものがいたならば、鏡は生前の姿を写さない。なぜなら、その人物は”自分”を知らないからだ。
他人から可愛らしい顔つきだと言われた。肌が焼けていると言われた。美人だと言われた。
自分の顔を知らない人物は与えられた情報で自分の顔を想像する。
生前で身につけた知識としての”可愛らしい顔”を”陽に焼けさせ”、それを”美人”と呼ばれるような顔に当てはめる。
それがこの場においては自分の顔立ちとなるのだ。
この場で碧が浄玻璃の鏡に映った人物を他ならぬ自分だと認識できたのは碧が生前に鏡で自分を見ているからに他ならない。
碧が映っていた鏡面が波紋を描き、歪む。歪みが払われて見えてきたのは記憶、否。これは記録だ。
事実、碧には心当たりのないものがいくつかある。
深夜、無人の中で寒さに震える自分をその腕の中に抱き留める白髪の人物。
神官の衣装を身につけた碧に話し掛ける人物。無論その人物は本当の碧の身分に気付けるはずもない。
仰々しく何様かと言いたくなるような態度で、戦功を碧に将軍位を授与する役人。アレが驚いたとき、どのような反応を示すのだろうか。いささかの興味が湧いてくる。
これが俗に聞く閻魔の裁きかと蒼穹碧は感嘆する。
その目に映るのは自らの功罪ではない。そんなものはどうでもいい。
碧に映るのは歓びである。
自らの知識の隙間が、空白がピタリと埋まったことへの歓喜である。
未知を既知とできたことへの歓びが場違いなほどに碧を支配する。
甘美なそれは碧に待ち受ける地獄を耳に入れない。べっとりと、蜂蜜のように耳に蓋をして閻魔の言を届かせない。
地獄行きを告げられてなお、その顔は歓喜に震えている。
自分の体を針が貫いている。強烈な痛みと共に体が軽くなる。
抜けていく。
知識が抜けていく。
きえていく。
たましいに きざまれた きおくが きえていく
わたしの なまえは なんだろうか
そんなことは どうでもいい
ただ
生きたい。
それだけが魂に強く刻まれている。
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ふと碧は鏡に映った人物を思い出す。
大仰に腕を開く少年ほどの男だ。
馬谷良秀
『僕は全てを知っている』とそう豪語したあの男は言っていた。この世界には極楽も地獄も無い。あるのは涅槃だけだ、と。
いま聞けばその言葉が誤りだと分かる。
何が極楽も地獄も無いだ。
知らなかっただけではないか。
そこまで考えが及んで碧は気付く。馬谷良秀という人物が自分の知った輪廻から外れていることを。
『全てを知る』と、そう言わせるまでに至ったその力によって、その力があるからこそ馬谷良秀は、馬谷良秀の魂は決して輪廻を知り得ない。
碧は嘲笑と憐みを半分半分に呟いた。
「貴様が一番の輪廻の奴隷ではないか」
魂は歓びを感じない。頭が、感情がないから




