三章#27 逆縁に救いを 弐
蒼穹碧の人生において暖かさというものは身近でない存在だ。乳飲み子と呼ばれる年頃から幼児へとなるころには周囲には人がいなくなっていた。
幼い頃の記憶は当然のように抜け落ちていく。だが、その中にあって一つだけがうるさく耳にこべりついている。
『太子龍樹様、弟君は御身に災いをもたらします。今のうちに』
聞いた時は何のことなのか分からなかった。まだ『災い』という言葉が、『わ・ざ・わ・い』という文字の羅列に過ぎないころの記憶なのだから当然だ。自分の何倍あるのかすら分からないような背丈の人間がこちらを見たこともないような目で見つめている。
それでも未だ『恐怖』という概念すら知らぬ年頃だ。その目が何を語っていたのかなど、分かるはずもないし、分かったとて何ができようか。
次の記憶は寒さの中にあるただ一つの人肌の記憶。それまでにあった心地よさが幻に思われた。僅かな暖かさの先にいたのは顔も知らぬ老齢な白髪の男である。名前も名乗らないその男は私の年齢が二桁になる前に死んでしまった。
当時はその男が誰なのか分からなかったが、今になれば分かる。あの男は顔も覚えていない父親の手の者だろう。幼かった私が野垂れ死ぬことが無いよう遣わしてくれたのだ。単なる父親としての情か、はたまた私にこうしたであろう”龍樹”という人間を止められなかったことへのせめてもの謝罪かは分からないが、そのおかげで私は生きることができた。
次の記憶は初陣のそれだ。その次は初陣が終わった後の記憶。その次は………その次………次………次………次………
堰を切られたように記憶が溢れてくる。一体どうしてだろうか。私の最後の記憶は私の兄である天龍樹が私・蒼穹碧の名を口にした時の記憶だ。体から力という力が抜け落ち、異様に軽くなったのを覚えている。私は今どこにいるのだろう。
辺りは暗く、灯りと言えば目の前に映る青白い不気味な炎だけ。夜道ならば、月や星の輝きがあるが、それも無い。とても現実とは思えない。
その青白い炎に照らされ粗末な蓑笠を被った者が船頭のように手に持った長い木の板を動かしている。
誰なのか聞こうと思った。できなかった。
肩を叩こうとした。できなかった。
漂っているだろう匂いを嗅ごうと思った。できなかった。
当然だ。今の私には手も足も何もないのだから。
形容しがたくぼんやりと浮いているモノ、それが今の私だ。
岸が見えてきた。私はそこで降ろされた。動けない、そう思っていたのに気づけばそこには足が生えている。手も、耳も。そこには”私”がいた。
「ここはどこだ?」
「ここは冥界。死者の国。裁きを受けるための世界。」
船頭は六つの貨幣を手に、再び対岸へと向かっていった。




