第52話 血戦と大蛇 その9
岩に勢いよく座った――そんな硬い感触。
でも、ぼくの目には何も見えない。それでも座っている感触があり、同じように手で触っても硬い。
「大気の岩? じゃない……大気の塊……?」
でも、そんな些末の事に気を割いている場合じゃなかった。
「――!?」
いつからそこにいたのか。
初めから居たのか。それとも今姿を現したのか。大蛇という絶望に抗うぼくたちの背後に厄災は潜んでいた。
ぼくの眼下から一歩、また一歩と当たり前のように宙を歩き崖上へ上っていく。その足取りは荒れ狂う暴風を纏う大蛇に向かっていた。
「な……んで……剣牙が……」
そう『剣牙』と名付けたあの魔獣だ。
唸ることも、威嚇の仕草も、一切をせずただ悠然と歩みを進める。その姿は大爪や三本角と同様の威厳を醸し出していた。
そしてその歩くだけという挙動にも関わらず、目を離すことに抵抗を覚えるほどにたおやかな身の熟し。
時を止めたかのような森閑を進む。
静寂とは無縁の嵐を携える大蛇はその姿を見るも、怯むどころか穴の開いた喉から血を噴き出しながら雄叫びを響かせた。
相手が誰であろうと大蛇には関係がないのだろう。
半狂乱の咆哮さえも掻き消すほどの特大の竜巻を剣牙に向かって解き放った直後だ。
耳の内を切り刻まれたような轟音が生じた。それは見えない空気の壁に左右から圧し潰されたように、竜巻が弾け飛んだ音だった。
その光景を見た大蛇は、血の滴る口をあけ暴風の魔力弾を数えきれないほど撃ち出すが。
竜巻同様に圧し潰され搔き消されるだけだった。
「大気の壁……? これと同じ魔法……? 大気を固めて固定するって……――なんだよそれ……」
目の前で起きてる事実を、現実として認識することをぼくの脳が拒んでいる。魔獣が行使する『魔法』はひとの考えられる枠を超えていることは理解していたつもりだ。
それを差し引いてもこんな魔法……大気そのものを固めて操るなんてデタラメすぎる。
身動きを忘れたぼく。
その姿を焼き付けるように見入るポチとプチ。
だが、大蛇だけは違った。
自身の魔法の一切を掻き消されてなお、その巨躯がうねりをあげ雄叫びと共に剣牙へ、残った一本の牙を突き立てるべく襲い掛かった。
地面との摩擦すらないかのように、距離を縮める大蛇に対して、剣牙は歩む速度に変化はない。
歩く姿があまりにも自然で、違和感すら感じさせない。
その事実に、全身を駆け巡る血が凍ったかのような恐怖を感じずにはいられなかった。
同時に、その姿から目を離すことを本能が拒絶するほどに、魅入ってもいた。
大蛇が剥き出しの牙を剣牙へ振り下ろす。
ぼくは瞬きをしていない。
そのはずなのに……すでに二匹はすれ違っていた。
剣牙は止まることなく歩き続ける。
その先にいるポチとプチを視界に収めながら。
そのまま大蛇が見過ごすはずもない。
でも。
叫声と共にその身を翻すと大蛇の巨躯が音もなくズレた。もともと切れ目があったかのように紫色の血を潤滑液として滑るように。
そのズレ落ちた体に向けた視線を戻した時、またも巨躯がずり落ちる。
そこで悟ったのだろう――
結果として、三枚に斬り裂かれた大蛇は、喉を震わせることも忘れ――
その巨躯を、いとも容易く地に落とした。
「勝った……のか? いや――まだだッ!」
ぼくは空中の足場を蹴り崖上に戻る。息絶えた大蛇へ一瞥もくれずに走り出す。
なぜなら、剣牙がまさに今、ポチとプチの眼前に迫っているからだ。すでにポチとプチは身体を支えるだけで身動きすらとれない。
剣牙が、大爪や三本角と同じだというのならその目的はあのふたりの可能性が高い――
ぼくは焦りと戸惑いに気を取られ、以前感じたはずの感情も、今まさに剣牙の視線から感知した意思も咀嚼する余裕を持ち合わせていなかった。
「弟たちが目的ならぼくが相手になるぞ――ッ! ポチ! プチ! 下がってろッ!」
銀の短剣を握り、両者の間に割って入る。
愛着があり、ここまで死線を潜り抜けたはずの短剣が、枯れ木の枝より頼りなく感じる。
それでも……
「でかけりゃいいってもんじゃないってことを……――」
――じゃない! 違う……剣牙の巨躯はそういう次元の問題ですらない。
そんな思考に支配されたぼくを尻目に、剣牙は悠然と歩みを進めると、ベッ――と特大の唾を吐き出した。
その衝撃だけで、ぼくは意識を暗闇の底へ引きずり込まれる結果となっていた。