第39話 ぼくと剣牙
「……?」
この感覚は『視られてる』。それは間違いない。でも違和感として感じるのはなぜだろう。
『グルゥ……?』
戸惑いを察したポチと向き合った時。その正体に気が付いた。
ポチとプチが気付いていない……?
「ふたりとも待って。今……見られてるよね……?」
ポチが鼻をあげ、プチが探るように足を止めた。
それでも。
『グルゥ~……?』
『ヴォ~ゥ……』
ふたりが揃って首を振る。その事実に喉が一瞬で干上がるような感覚を覚え、ぼくは思わず喉を鳴らした。
「背後……と言える距離じゃない。ずっとず~っと後ろの……」
ポチとプチが訝しげな視線を背後へ向けていく。
ぼく自身も肩越しに見据えようと首を回そうとするも、老朽化した歯車のようにぎこちなく、軋みさえあげているような感覚に襲われる。
「……――あれ……だッ!」
この崖下という地だからこそ見通すことができる距離。ぼく自身の五感が鍛え上げられ、研ぎ澄まされてきたからこそ捉えられる距離。
そんな遥か彼方にそれは居た。
高台に佇むその姿は、ぼくにかつての大爪や三本角を思い出させた。
あのふたりに劣らぬ巨躯。
上顎から異常なほどに伸びる大爪よりもさらにでかく、強靭な犬歯は、滑らかな曲線を持つ剣のようだ。
大爪が狼に近いとするなら、こいつは猫や虎のそれに近く感じる。
短い体毛は、黄に近い緑をしており、保護色の役目を果たしているようにも見えたけど、あいつにそんなものが必要なのかどうかは甚だ疑問だ。
『グルゥ……!』
『ヴォゥ――ッ!』
この距離がありながら、ふたりに戦いの覚悟をさせるに相応しい風格。でも、不思議とぼくは武器を手に取ることはなかった。
「いや……大丈夫……だと……思う」
視線に殺気の類が一切含まれていない。
いや、それ以上に、
「あいつは……降り掛かる火の粉は払うだろうけど……誇りのために戦うようなやつだと……思う。うん……そうだな……けん……『剣牙』って名付けよう」
大爪や三本角と同じように、自らを律することができる矜持を宿した瞳を持っていることに気が付いたからだ。
それになぜか少しだけ……懐かしい気がした。名前に関しても特徴を捉えてると思う。
『グルルゥ~?』
『ヴォゥ~?』
ふたりが揃って『ボクのように?』と問いかけてくる。
張り詰めていた空気が一瞬で緩む。
あの高みに大爪や三本角がいたことは確かなことだ。でも、ポチとプチは……まぁ一緒に上り詰めていければいいんじゃないかな。
するとぼくたちが気が付いたことを察したのか。
相手は踵を返すと高台の奥へ向かう。
その姿は明らかに何もない宙を、階段のように駆け上がっていくように見えた。
剣牙の姿が見えなくなった後、何度目を擦って見ても何かあるようには見えなかった。
大気を駆ける魔獣――
そんな考えが脳裏を掠めた時、身体の芯から震えが響き渡った。鳥のように飛んでいるわけじゃない。駆けているんだ。
ぼくが崖下で生活している期間は、ひとからすれば決して短い期間ではないと思っている。
落ちてきた当時のぼくが今のぼくを見れば、これが未来の自分だ、とは決して思えないほどに成長している自覚もある。
それでも、崖下にはまだまだこのような未知が広がっている。でも、この広大な崖下でさえ、世界のほんの一部なんだ。そう思った時、震えた体がさらに毛を逆立てたように感じた。
村で暮らしていた頃のぼくは、村とその周辺が世界の全てだった。それで十分だと思っていた。この感覚を知るまではそれでよかったんだろう。
この世界にはドキドキすることや、ワクワクさせることが至る所に潜んでいる。
言葉として知っていても手が届かないものだと半ば諦め、くすんでいたはずの世界が突然、色付く。
これをひとはきっと『世界が広がる』というんだ。
崖上に帰ることができたなら、その後のほうが長い。そんな長い生涯の中で、この世界に少しでも足跡を残していきたい。
未知の知識――
未知の土地――
未知の魔法――
そして未知の綺麗なお姉さん……!
あの剣牙のように、ぼくも空を自由に駆け巡る可能性だってどこからに眠っているかもしれないんだ。
そんな想いを宿し、踏み出す者を『探求士』と呼ぶことを、ぼくはまだ知らなかった。