天音 ④
6
体育の時間が終わった後、天音が机で何かを探していた。
「おかしいな。わたしのヘアピンがない」
天音の言葉一つでホームルームが取り調べに変わった。
「花川さんのヘアピンを知っている人はいませんか?」
一人が手を上げた。かつて、天音をいじめていた美香子の友達だ。
「わたしは見ました。坂本さんが体育の着替えの時に花川さんの机に近づくのを」
美香子は怯えた顔で「ごめんなさい」と謝った。かつての余裕は消えていた。まるで頬が溶けて落ちたように、痩せこけているように見えた。
「泥棒」
天音が言った。
「人のものを盗むのは泥棒なの。坂本さんは自分の家が落ちぶれたのをいいことに、泥棒をしていいと思っているの」
美香子の家は、天音の住む団地の隣だった。美香子の母親はテレビ局からのお呼びがかからなくなり、父親も会社からリストラされたのだ。
「ごめんなさい」
坂本さんの声は震えている。そして、目から涙をこぼしている。
「特別に許してあげる。貧乏人なら泥棒くらいはやっちゃうと思うしね。そのヘアピンも坂本さんにあげるわ。質屋にでも売って、生活の足しにしてよ」
ゲラゲラと笑い残る教室の中で、美香子はこれ以上となく惨めだった。歩は天音に驚くしかなかった。以前の彼女なら絶対に言わない。
その日から、花川さんはクラスでの立場がよくなった。入れ替わるようにして、坂本さんはいじめの標的に変わっていた。誰かに上履きを隠された美香子が途方に暮れている横で、天音は多くの友達と楽しい会話をした。
7
放課後、天音がタクシーに乗り込むところを、幸子に呼び止められた。
「あら、実ノ森さん。どうしたの?」
「天音と一緒に帰りたくて、待ってたんだ」
「いいよ。さあ、乗って」
「歩きましょうよ。たまにはいいでしょ」
涼しい風の吹く道を二人は歩いた。遠くでこいのぼりの親子がたなびいているのが見える。天音は少し、息切れしていた。あまり体が丈夫じゃない上に、最近は車に乗せてもらっての通学が日課になっているせいだった。
「それにしても珍しいね。実ノ森さんからさそってくれるなんて」
「あなたと話をしたかったの。こうして歩かなければ、長く話せない」
「どんなことをわたしと話したいの?」
「他でもない、天音のこと。あなたはすっかり変わってしまったね」
「どこかな。どこも変わっていないけど」
「私の知る天音と、今とではずいぶん違うよ」
「前みたいに貧乏じゃなくなったから、引け目を感じなくなったせいかな。でも、それっていいことだと思う。胸を張って堂々としていられるもの」
「じゃが、美香子をいじめてもいい理由にはならん」
「いじめ? あれはあいつの自業自得じゃないの」
「あ奴が自分で盗めばな。わしは見ていた。天音、お前があいつの机の中に、自分の髪留めを入れているのを」
「ふうん。そうなんだ」
天音は悪びれる様子もなくコンビニに入ると、そこで一番高いアイスを買った。財布には小学生が持つには多い札束が分厚く入っている。自分の分、そして、もう一つ買っていて、それを幸子に渡そうとした。
「いらん」
「口止め料とかじゃないよ。正直、どうでもいいの。あいつも、わたしの輪に入ればそれでいいの。わたしって、これでも器は大きい方なの。実ノ森さんもさ、そんなに頑固でいたら、独りぼっちになっちゃうよ。もっと、空気を読むようにしないと」
「心配には及ばん。きゃつらの吐いた空気など、吸ったら肺が汚れる」
天音はケラケラ笑った。もう一つのアイスをふたも開けずにごみ箱へ入れた。
「面白いね、実ノ森さんって。でも、その通りよ。どいつもこいつも、うっとうしい連中ばっかり。お金にたかる奴、頭の悪い奴、下品な奴、貧乏な奴」
「空気の読めぬ奴」
「ううん。実ノ森さんは別。わたしを助けてくれたから。さっきから話し方も面白いし。実ノ森さんてさ、けっこう個性的なんだね」
「普段は無理をして話していただけだ。今は、元の自分をさらけ出して話している。どうしてか分かるか?」
「さあ」
「お前に目を覚ましてほしいと願っているからじゃ、天音。お前やお前の親は、身の丈に合わん幸せで自分を見失っておる。今ならまだ間に合う。人を馬鹿にせず、優しく接する努力をしろ。贅沢を当たり前と思うな。金のありがたみを知れ」
「言いたいのはそれだけ?」
「全部言った。あとは天音次第。でないと、憑いている者も離れていくぞ」
幸子の目がこちらに向かって言った気がした。
「御忠告、ありがとう。ところでこれからさ、友達と遊園地に行くんだけど。もちろん、全部わたしのおごり。実ノ森さんも一緒にどう?」
幸子は無言のまま天音に背を向けた。
「あーあ。実ノ森さん、そんなのじゃ、本当に孤立しちゃうよ。ねえったら!」
歩は天音からいったん離れて、幸子の後ろを歩いた。
「潮時じゃ。天音の家から去った方がいい」
「出たらどうなるの?」
「本に書いてあった通り、座敷わらしの力が及ばなくなる」
「天音達は不幸になるの?」
サチは何も言うとしなかった。
8
歩は、天音の部屋を何度も周っていた。けれど、答えは見つからない。座敷わらしは憑りついた家から離れると、その家は没落する。今の天音は人が変わってしまったが、元に戻ればまたいじめられる。それで解決するとは思えない。しかし、サチの言う通り、このまま放置するのも間違っている。
窓ガラスを叩く音がした。歩は顔を出すと、誰かの手に掴まれて、ベランダに引き出された。小三太だった。真っ赤な顔に染まり、髪が逆立っている。
「お前、なんてことをしやがった!」
「何のことですか?」
「とぼけるな! お前は自分のしたことが分かっているのか?」
同業者に耳をつままれながらベランダまで引っ張り出された挙句、彼の担当している部屋の中を連れてこられた。
隣室の中は、まるで、泥棒が入った後みたいに荒らされていた。箪笥がひっくり返り、絨毯がめくれ上がっている。赤ん坊の泣きわめく声が響いていた。
「うるさい!」
髪の毛の乱れた母親が手を上げて、子供の頭を叩いた。数日前までのどかな夕食の準備をしていた主婦とは別人のように髪は乱れ、頬がやせて落ちていた。目だけぎらついている。これは一体何が起こったのだろう?
「お前のせいだよ」
「僕の?」
「お前があの貧乏家族に肩入れしまくったせいで、こちらの気まで吸い上げられたんだ」
「吸い上げられた」
「何も知らないのか、お前は。いいか、この世界にある幸運の気は無限にある訳じゃない。人の暮らしの中で生まれるが、量に限りがある。人によって、運がいい、悪いってあるだろ。その不公平をできるだけなくすために、おれ達が采配するんだ」
歩は言葉を失った。弁解しかできない。
「じゃあ、この人達は――」
「お前が吸い過ぎた幸運から漏れたのさ。一は実験中の事故で意識不明、研究費用と治療費で家は借金の火の車だ。てめぇが、あんな貧乏人どもに大盤振る舞いをしたおかげで、すべての幸運から逃げられちまったんだよ!」
「で、でも、天音の家族は幸せになった」
「幸せだと? お前の目ン玉は腐ってんじゃねえか。いつも、金を多く手に入れても飽き足りない。どうでもいいものばかり買ってはすぐ捨てる。ああいう奴らは亡者、餓鬼っていうんだ。連中が本当に幸福になったと本気で思うなら、てめえなんか頭を豆腐の角にぶつけちまえ!」
同業者に散々叱られて、歩はとぼとぼと天音の家に戻った。床には万札が隙間なく敷き詰められ、彼らはその上で寝そべっていた。
「まだまだ、行けるぞ。次は十億稼いでみせるぞ」
「いっそ、こんなぼろ団地からおさらばしようよ」
「わたし、豪邸がいいな。大きな家にしようよ。三人で暮らすの」
同じ空気を吸うのもいやになり、歩は外に出ると、ちょうど貧乏神が座り込んでいた。
「一つ聞いてもいいですか。貧乏神さんは、なぜ、天音の家に取りついたんです?」
「あの者達は、本当の幸せを追う努力をしないからだ。自分を見失って、自堕落に過ごし、日々を無為に生きる。そんな自分らを棚に上げて、他人をうらやみ、不幸を願っている。あの連中は、ウサギをうらやみ、歩くことを止めた亀だ。自分達がノロマだからあきらめている。貧乏神は、そういう者に取りつくようにできている。わしも、悪気があってここを選んだわけじゃない。そこが快適だから居着くのさ」
「僕は出ていきます」歩は言った。「これはお詫びです」
冷蔵庫にしまっていた味噌を貧乏神にあげた。
「貧乏神がどんな家がきらいか知っておるかね? 決して、裕福ではないが、住人が笑顔でいるような家だ。見えない何かでつながっている家だよ」
「ありがとうございます」
「金ばかりが人を幸福にするとは限らない。お前さんはまだ若い。人の暮らしに長くもまれるうち、すぐに気づく。人の求めるものは、形のないもので身近にある。そんな家には座敷わらしのいた跡があり、我々には大変住みにくい。では、達者で」
貧乏神は入れ替わるようにして、古巣の天音家に入っていった。
歩は団地の雑草だらけの外へ出ると、足の赴くままに道を進み始めた。ふと、空を見上げると、自分が死んだ日に見た赤い夕陽が、棟の壁面を赤く塗り上げていた。