天音 ③
4
花川家の部屋に戻ると、天音は外出して留守だった。さっそく行動を開始しよう。
歩は心を無にして意識を集中させた。暗がりの部屋の中にボンヤリとねずみ色の糸が浮かぶのが見えた。糸は長細く、部屋の中に入り組んでいる。小三太の言っていた通り、運気をコントロールする糸に間違いない。天音の家を貧乏にさせている線だ。
歩は糸を掴んで千切ろうとした。しかし、見た目に似合わず頑丈でビクともしない。
「クソ!」
次に、団地の外に出てから、そこら辺にある球を集めた。赤や黄色、青、特にお金に繋がりそう黄金色の糸を多く拾い集め、家の中に投げ込んだ。
ところが、色が交じり合った結果、灰色に濁ってしまい、たちまち消えてしまった。その後、他の色もつなげてみたが、貧乏な色が濃くなる一方だった。
「どうなってるんだよ」
この頑固の灰の糸のつながりを何とかしない限り、花川家の繁栄は遠い。歩は灰色の線をたぐっていった。糸の先は和室の押し入れへと続いている。襖が少し開いている。ちょうど、押し入れの中から音がした。歩はおもむろに襖を開けた。
途端、歩は叫んで腰を抜かした。押し入れの中には小柄な男がいた。ススで汚れた顔は細く貧弱そうで、ボサボサの白髪は伸び放題、ボロボロの穴だらけのシャツに半ズボン、土足の靴も片方のつま先が裂けて、爪の伸びすぎた指がはみ出ている。
汚らしいというか、ものすごく貧相な印象のある不審者だった。
「天音さんのお父さんかな」
こんな汚い家に住んでいるのから、そう考えるのが普通だ。
「いいや、わしゃ人間じゃないだて」
「僕が見えるんですか?」
こんな老けた座敷わらしもいるのか。もしも、自分の家にこんな人がいたら、正直ちょっといやだ。ちっとも幸福になれる気がしない。
「同業者の方じゃないですよね」
「お前さんも人間じゃない。わしが見えるからな。まあ、そういう人間もたまにはいるが、大抵は宿なし銭なし縁なしの奴だな。お前さんは座敷わらしだね」
男は気だるそうに体を動かして、せまい押し入れから抜け出た。押し入れの中には、ゴキブリの他に、小さな虫が跳びはねている。正体がノミと分かり、歩は顔をしかめた。
男は冷蔵庫から変色した味噌を取り出して、指につけてなめながら、また押し入れに戻って寝ころんだ。
「ここは居心地がええ。腐った味噌しかないが、家人の懐具合では仕方あるまいて」
「あの、僕は仕事をしているんですが、この部屋にある灰色の糸にどの色をかぶせても、元の色に戻ってしまうんです。何か、知りませんか?」
「そりゃあ、たぶん、わしのせいかもしれねぇ」
「おじさんの?」
「そうだ。わしがこの部屋にいるから、この家族には貧乏性がついて、なかなか運気も上がらねえ。それで、ここの色もこんなどんよりした色なんだな。ちょうど、こびりついた油みてえなもんだ。いくら、洗剤で洗おうが落ちねえ頑固な油。それがわしの糸だ」
大きなあくびを漏らすこの男、ナマケモノに似ている。
「あなたはどなたですか?」
「わしかい、わしはな、人間が言うところの貧乏神だ」
「なるほど。もう一つ教えてください。もしも、あなたがここからいなくなると、この家の人はどうなります?」
「そうだなあ。まあ、今よりは少しましになるかもな。だが、多分無理だな、わしのいる間、この家のもんは誰一人幸せにはなれん。わしがここを離れん限りはな」
「よく分かりました。ありがとうございます」
歩は自分のすべきことを行動に移した。貧乏神を毛布にくるんでしまった。
「おい、なにをするだ!」
「天音の家から出て行け、貧乏神め」
貧乏神を簀巻きのままドアの外まで引っ張っていき、廊下に放り出すと同時にドアを固く閉めた。最後に鍵を閉める音をわざと大きく立てる。もう入って来るなという意味を込めた。ついでに玄関には森塩を置いた。
覗き窓から確かめると、あいつはまだ立っている。
「待ってくれ。ここを追い出されたら、わしはどこへ行けばいいのだ。せっかく、いい寝床ができたのに」
しばらくしてから、貧乏神の文句は消えた。部屋の中に漂う臭気とは色の糸が少し薄まった気がした。
「さて、初仕事をしてみようかな」
歩は、わくわくする気持ちを手先に集中させた。天音がお金持ちになって、きれいな服を着て、おいしいものを食べる光景を、頭で思い描いていく。きっと、彼女は笑顔になっているだろうし、ウジウジする必要もなくなっているに違いない。指先から仄かな光りが生じた。白い光りが筋になって、部屋の中を漂った。ベランダに出て、赤や青、黄色の球を拾い上げた。部屋の中で破裂させて、降り注ぐ運の粉を振りまいていく。
ベランダから見える道には、追い出された貧乏神が、未練たらしく眺めていた。この部屋から陰気な色を一つ残らず消してやる。
居間と和室、トイレ、お風呂、廊下、玄関と七色の太い栓を紡いでいく。お金持ちになる強い糸の集まりを結んで絡ませた。
「これでよし」
さっきまでゴミ袋でいっぱいの部屋が、心なしか輝いて見えた。しばらくしてから、天音と母親が帰ってきた。手にはスーパーの袋を持っているので、買い物に行っていたみたいだ。歩はワクワクする気持ちで、二人の反応を眺めた。
「お父さんは帰ってこないの?」
「まだに決まってんだろ? またパチンコだよ」
スーパーの袋から残り物の弁当箱を散乱させる。
「ああ、やだね、この家はいつも陰気な感じがして……ん?」
「なんだか、部屋の雰囲気がいつもと違う気がするよ」
程なくして、天音の父親が帰ってきた。茶髪に派手なシャツを着た人で、鶏がらみたいに痩せている。何だか知らないが、血相を抱えた顔をして落ち着かない。
「あんた、遅かったじゃないの」
「バカ野郎、それどころじゃないぞ。宝くじが当たった」
「いくら当たったの? どうせ、千円か百円くらいじゃないの」
「五千万円だ」
天音のおばさんがお茶を吹き出した。天音も口をぽかんと開けている。
「親父の借金を返済できる。それでも大半は残る」
「家を買いましょうよ。やっと、団地暮らしからおさらば出来るわ」
「いや、五千万って言ってもその気で使ったら、すぐなくなる。こういうのは、ちょびちょびと使うのが一番いいんだよ」
そんなけち臭い暮しなんかしなくてもいい。どうやら、天音の家はすっかり貧乏性が染みついている。これをきれいに洗い流さなくてはいけない。彼らの幸運はこれからが始まりなのだから。
歩は次の作戦に移した。
5
天音の両親の朝は遅い。夜が遅いので当然だ。朝方までビールを飲んではテレビを見ていたせいだ。一番早いのは天音だった。両親が寝ている間に起きて、朝ごはんも食べずに学校へ行く。いつも、貧血で倒れて、やせ細っていて、給食のパンをよく持って帰る理由が分かった。
当たったばかりの宝くじ五千万円を、彼女の親はギャンブルで湯水のごとく費やした。パチンコと競馬、競艇、競輪、株に投資したが、すべて負けてばかりで、ものの三日で使い果たしてしまった。歩も呆れるしかなかった。
もう一度少し幸運を分けてやると、二人の後をつけた。一等になりそうな競馬の券や大当たりの出そうなパチンコ台に座らせたりした。それでも賞金のほとんどを別のギャンブルで使ってしまう。だから、もっとたくさんの賞金が出るように、二人を幸運だらけにした。色々なギャンブルで連戦連勝を重ねるうちに、やっと、暮らしぶりがよくなった。
ナマケモノの二人は、まずお手伝いを雇った。食事、掃除、洗濯をやらせ、おかげで稲の中も見違えるほどにきれいになった。
ある食卓で、天音の父親はビールを一気飲みして言った。
「やっと、俺達の運が向いてきたようだな」
「今までの分を取り返さなくちゃね」
二人はあくまでギャンブルで稼いだ。歩の力で、二人は負け知らずだった。
ある日、花川家にテレビで見たことのある人がやって来た。
「花川さんのお宅ですね。私達は世界一幸運な夫婦がいるとのことできたのですが」
テレビに出演するほど、二人はギャンブルの世界では有名になっていた。
彼らの座ったパチンコ台は玉一杯に入れた箱を何段も積み上げるほど大当たりを連発する。どんなとろとろしたお馬さんでも、二人が選べば、他の馬が将棋倒しで転倒して一等になる。傾きかけた赤字会社の株を二人が買えば、たちまち黒字にも持ち直し、高騰した。『ラッキー夫婦の花川さん』とテレビで紹介されて以来、天音の家は大きく変わった。
いつの間にか、彼らの部屋は高級な調度品や宝石で一杯だった。ただでさえ狭いので、三部屋も借りた。二部屋は住居用、もう一部屋は贅を凝らした応接間だった。
「いっそのこと、この階の部屋全部借りようか」
「いいえ、一階から屋上までにしましょう」
「いや、こうなったら団地全棟を買い取ろうか」
夫妻はこんな馬鹿げた話までするようになった。
天音は天音で、大きく変わった。
ある日、彼女が学校から帰ると、食卓には高級の霜降り和牛が並べられていた。
「さあ、食べなさい、天音。うちはすっかり金持ちになったのだ」
「うちは大丈夫なの?」
なお心配そうに言う天音はステーキをフォークでつつく。
「いいか、天音。俺たち家族にやっと運が回って来たのだ。お前は何が欲しい? 服も新しいものを買ってやるぞ」
「私は……髪を」
翌日、タクシーの送迎で正門に降りた彼女が教室に入ると、その輝きにほとんどが口を開いたままになった。有名なブランドの服、カリスマ美容師に整えられた頭は、以前のザンバラとは違い、ストレートの髪を宝石のついたヘアピンで留めていた。顔もうっすらと化粧がしてある。
「おはよう」
格好のせいかもしれないが、以前のぼそぼそした声と違って、張りのある響きの声に変わっていた。まさに、自信に満ち溢れている。瞬く間に、新しい友達ができた。
花川家は順風満帆だった。衣食住に困らず、優雅な暮らしができている。初仕事はおかしいほどの大成功だった。
ただ一つの心配事がある。貧乏神だ。花川家を追い出されても、性懲りもなく団地の周りをうろついている。そして、隙あらば部屋に入ろうとしてくる。その度に、歩はバリケードを張り、舌を出して追い出した。
ある日、歩はサチに話しかけた。初めての成果をどう思ってくれるか気になったし、ほめられるのを期待した。
「天音は変わったな」
「うん、まるで生まれ変わったみたい」
「じゃが、少しケバケバしい。別人みたいじゃ」
「そういうものじゃないの。あいつは今まで抑えていただけかもしれない。生活がよくなったから変わったんだ。良いことじゃない」
サチ、幸子は低くうなって腕を組んでいた。
「わし、いや、わたしには何か納得できない」
サチ、もとい、幸子は今の時代の子供として生きるために、言葉も一から勉強しているらしい。しかし、百年ちょっとの癖はなかなか消えない。時々、自分のことを「わし」と言ったり、言葉の最後に「じゃ」と言ったりしてしまう。
「何がおかしいの? 天音は前よりも明るくなったよ。親だって立派になったし、家も団地住まいだけど、別にいいじゃん」
「腑に落ちんのはそこだ。あいつの親は自分で立ち直ったわけではない。お前の力で大金を得て贅沢になっている。天音もそうだ。だから、あいつの金はとても軽い」
「でも、お金を多く持っているのは、豊かな証拠だよ。前のあいつよりマシだよ」
「それは認める。だが、歩よ、これだけは覚えておけ。座敷わらしは、その家に住む人を豊かにせねばならん。贅沢と豊かさは違う。贅沢はたまにするから贅沢なのだ」
歩は呆れた。
「何が言いたいのか分からない」
「当たり前の贅沢などない。分不相応は、人を軽く薄くする。今のあいつのように」