天音 ②
3
放課後、歩は天音の後ろをつけていた。本人は時々後ろを振り向いた。姿や声が聞こえなくても、気配というものを感じるらしい。特に年齢の近い子供は座敷わらしの存在だと敏感だという。
とぼとぼと交差点を抜けて、古い商店街を歩いていき、やがて、公営の団地に到着した。その一棟の三階に花川家の部屋があった。
天音が玄関わきの植木から鍵を取り出してドアを開ける。途端、今の自分には臭うはずもないのに、歩は「うッ」と声を漏らした。鼻を突きそうな腐臭が漂っているという雰囲気のせいで、生きている間の癖が出るほど、玄関から廊下までゴミ袋で一杯だった。
袋を踏みながら、天音は部屋の奥に座った。電気をつけることもなく、窓のカーテンも開かずにじっとしていたと思ったら、急にさめざめと泣き始めた。一緒にいるのにいたたまれなくなり、歩は家の中を周った。玄関から居間に行くまでの廊下にはトイレと風呂場、物置部屋があるだけだ。居間の隣には六畳くらいの和室があり、万年床と分かる布団が畳を覆う。部屋の隅にはビール缶が転がり、飲み口に煙草が突き刺さっている。大袋のスナック菓子からはゴキブリが慌ただしく出入りする。
歩は口を押えた。声を出しても大丈夫なのに、声を出さずにいた。
やっと泣き止むと、天音は台所に向かって、冷蔵庫の扉を開けた。薄暗い庫内にも、小さな虫がうごめいている。
彼女が冷蔵庫から出したのは、食パンだった。しかも、ミミにはカビが生えている。カビを取ってマシなところをかじる。
学校でもいじめに遭っているクラスメイトが、家に帰ってもこんな暮しをしている。自分とは全く関係のない世界に衝撃を受けるしかなく、それを助けることもできない。なんとかして、天音を助けてあげたかった。歩はそう思った。
どうすればいいのか。今の彼女に足りないのは何か。考えるまでもなかった。天音にはものに困らない暮らしが一番だ。例えば、壁の生えた食パンじゃなくて、菓子パンになるべきだ。冷蔵庫の中にはたくさん、新鮮な野菜や食べ物があり、部屋はきれいに片づけてあって、天音自身もみすぼらしくなく、きれいな服も来て、美容院にも行けて、お小遣いもたくさんもらえて、いじめっ子にも絡まれない。そうだ、以前の自分のようになれるように。
歩は手の先に力を込めた。きっと、昨日のサチみたいに指先から虹の粉を出せるはずだ。しかし、いくら念じても何も起こらない。天音は相変わらず、コチコチのパンをちぎって食べ続けていた。
あの奇跡を起こすには何か、別の方法がいるんだ。そう言えば、サチは、赤い球がどうのこうのと言っていたのを思い出す。
歩は窓からベランダと抜けると、夕日を眺めながらため息をもらした。もう一度、サチ方法をしつこく教えてもらうしかない。
隣の部屋からは楽しげな声が聞こえてきた。母親と子供の声だ。壁を通り抜けて隣室の中をのぞくと、きれいに新調された部屋に母親が赤ちゃんをあやしていた。
二人に寄り添うように座る少年がいる。最初は赤ちゃんの兄かと思ったが、どうやら違う。彼は一人だけ違う服を着ている。まるで時代劇に出てくる着物姿だった。急に振り向いた丸顔と目が合った。
不機嫌な顔を歪め、少年がこちらへ近づいてきた。
「え? ちょっと」
窓をすり抜けた少年の手が、歩の胸ぐらをつかんだ。
「おれの縄張りに何の用だ?」
「危ないですよ。というか、僕の姿が見えるんですか?」
「たりめえだ、馬鹿野郎。生身の人間が精霊に触れるかよ。同業だ。おれはベテランで、お前はウスノロなトーシロ。分かったか?」
「そうです」
「とっとと消えな。ほか当たれ。この家はおれの縄張りだ」
「僕は、隣の部屋です」
「けっ。てめえも趣味が悪いな。止めとけ、ああいう連中は助けても、どうせ、上手くいきっこない。悪いものも憑いてるしな。どっちみち、金と運に縁のない家族だ。さあ、分かったら、おれの前から消えな」
「待ってください。教えてほしいことがあるんです。どうすれば、人を幸せにできるんですか?」
「そんなもんは自分で考えろ。おれだって、ここまでなるのに二十年もかかった。半世紀もかかったウスノロもいる。お前はその倍はかかりそうだな。だが、教えねえぞ」
「教えてくれないなら、ここに居座ります」
「なんだと!」
いがぐり頭の座敷わらしがものすごい力で、歩を持ち上げた。
「このまま落とすぞ。さあ、消えろ」
「落とせるものなら落とせばいい」
少年の手から力が抜けた。歩は真っ逆さまに落ちた。脳天から地面に当たったが、死んでいるので痛みはない。頭を抱えながら立ち上がると、階段を駆け上がって、扉から隣室に飛び込んだ。
「本当に落とすことないじゃないですか」
「てめえが落とせと言ったから落とした。何が悪いんだ。でてけよ!」
「教えてくれるまで、ここに居座ります」
「何だと」
芋虫みたいな太い眉を寄せて、同業者の顔が赤くなる。こちらも負けじと食い下がる。
やがて、同業者は鼻を鳴らすと、乱暴に手を払った。
「お前、名前はなんだ?」
「歩です」
「ふん。おれは小三太。お前より三百年近い玄人だ。おれのことは小三太様と呼べ」
「はい。小真太様」
お辞儀をしながら、歩は舌を出した。先輩面をしているが、三百年もかかって、まだ座敷わらしをしているなら、先に終わったサチの方が偉い気がする。
すると、小三太がいきなり、歩の口に手を伸ばして舌を引っ張ろうとした。
「お前、見かけによらず謙虚さがないな。教える代わりに舌でも引っこ抜いてやろうか」
歩は慌てて謝った。
「座敷わらし同士は心も読めるんだよ。ふん、ひよっこめ。いいか、よく見てろ」
彼に連れられて部屋の中に入った。母親が夕食を作っている間。赤ちゃんがハイハイしながらリビングを周っている。同業者は赤ちゃんの前でイナイナイバアをした。あまりにもおかしな顔で、歩もつられて笑うと、頭を強い力で殴られた。
「座敷わらしっていうのはな、居着いた家を繫栄させなきゃいかん。だが、そのやり方は色々ある。おれの場合、この赤子を偉人にしようと思っている。それも歴史に残るぐらい」
「できるの、そんなこと」
「おい、お前、教えてやるんだから敬語ぐらい使え。ノタバリコは格下なんだぞ」
「はい。できるんですか?」
「親父の代はもう少しで完成する。ほれ、あれを見ろ」
部屋の壁には額縁に入った表彰状がいくつもかかっている。
「さあ、そろそろ時間だ。今度こそ――」
主婦がテレビをつけると、ちょうど、速報のニュースをやっていた。どうやら、日本人のノーベル賞が決まったらしい。
(ノーベル化学賞を受賞しました、中田一さんです。中田さんで日本人の受賞者としては九人目にして、最年少です。授賞理由は――)
この中田さんは、よく分からないが難しい化学理論を実証したという。テレビに移された若い男の顔は、部屋にある写真立てに母子と一緒に映っている人と同じだった。
「よし! 二代目も成功だ」
(なんと、中田さんの亡きお父上は、ノーベル物理学賞で著名な中田二三男さんでもあり、父子二代続いての賞という快挙です)
「そうそう快挙だ」
同業者はまるで自分の手柄のように、満悦な顔で頷いた。
「よし! おい、四音ちゃん。今度はお前の番だぞ。よろしく頼んだぞ!」
四音という名の赤ちゃんは首をかしげて、不思議そうにこちらを見ている。
「僕らが見えている」
「赤子はみな、神の子だ。きっと、おれを兄貴と思ってるぜ。二三男も一も、ずっとそばにいて色々なことを教えてやった。よし、お前にも教えてやる。どうすれば、力を出せるかだ。まず、頭を空っぽにしろ。得意だろ」
うるさいと思いかけたものの、歩は言われた通りにした。
「いいか。この世の周りは、実は様々なものでできている。酸素や二酸化炭素だけじゃない。それらは色によって性質が違う。周りを見てみろ。色があると意識せずに自然と目を向けろ」
確かに部屋の中に青色のシーツが舞うような光の筋が見える。赤ん坊と母親の間には、ピンクが勝った色の糸がつながっている。
「きれいな青い色が見えるだろ。それが親と子の関係の良さを現している。二人をつなぐのが、親子の縁ってやつだ。例えば、こうやってやると、どうなるか」
同業者が絵を描くおもちゃを動かした。父親とそっくりの顔を描く。そのペンを赤ん坊に持たせる。そして、手でパンと叩いた。
母親が振り向いて、赤ん坊を見に来た。そして、目を輝かせる。
「まあ、すごい! しぃちゃん、パパのお顔を描いたのね。あなたもパパみたいに博士になるかもね」
青い色が光り出し、赤や黄色の光りが増えた。昨日と同じ虹になる。
「色が増えただろ。これで、この家の運気がちっと上がった。未来の可能性が生まれた。この子は賢い子に育つだろう。母親がそれを手伝う。道を間違える場合もある。母親が過保護になる。息子が重圧に耐えきれず不良になる。俺達はその都度修正してやる。この家、家族を盛り立てるんだ」
「なるほど……その糸をつなぐコツはあるんですか?」
「配線と思えばいいのさ。配線をうまくつなぎ変えて、家の空気をよくする。風通しを良くしろ。色の種類を見極めて、家人にとっての幸せを思い描くんだ。いいか、自分本位で考えるな。そいつにとって、一体何が幸せかを考えながら力を使え。心で思い描けば、物を動かせる。念力ってやつだ」
「僕の前の人は、球を使ってました」
「運球か。まあ、手っ取り早い方法でもあるがな。おれのようにベテランになりゃあ、玉がなくてもいけるぜ」
歩は言われた通りに念じると、赤ちゃんがケラケラ笑った。
「人の前で力を使うなよ。騒ぎになっちまう。ほどほどに使え。住人の人生を順風満帆にするんだ」
「ありがとうございます」
「それとだな、もっと大事な――おい!」
歩は急いで窓から出て行ったせいで、同業者の声が耳に入らなかった。