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歩 ⑤


        6


 サチはまた夜道をとぼとぼ歩き始めた。一軒の平屋の前で、短い足が止まった。そして、当たり前のように家の中へ入っていく。

「勝手に入って大丈夫なの?」

「まだ寝ぼけておる。わしらは人ではないのだぞ」

 家の中はゴミ溜めだった。電気もつけずに真っ暗な部屋の中では、ゴミ袋の山が床を隠し、腐った食べ物の上をハエが飛び交っている。狭い部屋には、一人の老人がビール缶を片手に寝ころびながら、テレビに映るお笑い芸人をうつろな目で眺めていた。髪も髭も伸び放題の有様だった。

 サチは手を伸ばして、老人のこめかみに人差し指をつけた。

「この男、大変優秀な機械の技術屋だったらしい。じゃが、四十歳の頃に、勤めていた会社が不景気で傾いて暇を出された」

「クビにされたってこと?」

「妻は娘を連れて逃げてしまい、以来、この家で一人寂しく生きている」

 目の前にいる老人には生きる気力を感じない。瞳は空っぽで、動かないさまは銅像と間違えそうだった。

「わしの力を少しだけ見せてやろう。少し待っとれ」

 サチは部屋から出て行った。心もとなく待ってたら、彼女はすぐに戻ってきた。その手にボールを持っていた。バスケットボールくらいの大きさをしていて、赤い色をしている。大きな飴玉に似ている。

「それは何なの?」

「まあ、見ておれ」

 目をつぶりながら手を伸ばし、サチは男の痩せた肩に触れた。小さな手がほのかに光ったように見えた。緑、赤、青、黄色と七色の虹が指先を伝って、男の肩から伸びた。そして、サチはボールを思いっきり、天井に向かって投げた。赤いボールは呆気なくはじけて、中から赤い粒々がはじけ飛んだ。

 粒を体中に着けながら、サチは家の中を走り回った。ゴミだらけの床、油で黒く汚れきったガスコンロ、カップラーメンの置かれた台所のテーブル、部屋から部屋へ天井を逆さに走って、光りの砂を振りまいていく。階段の壁を駆け抜けながら、両手を翼のように広げた。虹の雨が家中に降り注いで、そして、隙間に染みわたっていく。

 さっきまで廃屋のようだった家の中が、心なしか明るくなった気がした。

「そろそろ、この辺でよかろうか」

「何をしたの?」

「周りの幸せをおそそ分けした。こねて球にして持ってきたのじゃ。少し多めにな。まあ、見ていろ。面白いことが起こるぞ」

 老人が、相変わらずぼんやりとテレビを見ていると、呼び鈴がいきなり鳴った。

「ん?」と首を動かしたものの、そのまま動かずに尻をかき始める。立ち上がるのも面倒なのか、居留守を決め込むつもりだ。

「まどろっこしい奴め。ええい、早う行かんか!」

 サチは男の頬杖を乱暴に蹴った。バランスを崩して、彼は顎を床に打った。

「いたたた。たく、うるさいな。こんな時間にクソ迷惑な」

 のろのろと玄関へ歩いていき、玄関のドアを開けた。

 そこには女性が一人立っていた。老人の顔を見て、驚きの表情を浮かべた。

「誰だい?」

「お父さん」

 女性は震える声で言った。

「まさか、夏美か?」

「今まで会えずにごめんなさい」

 夏美と名乗った女性が泣きながら、老人に抱きついた。

「まさか、この人って」

「そうじゃ、こやつの娘じゃ。小さい頃に生き別れて、いつか会いに行こうと思っていたようじゃな。それとも、何かの力で気が向いたせいかな」

 意地悪く笑うサチをよそに、親子の感動の再会は続いた。

「お父さん、実は私、今度結婚するの。一緒に来てほしい」

「すまないな。俺は会社を倒産させた。赤ん坊だったお前にも辛い思いをさせてしまった。母さんも愛想をついたのも無理はない。今さら父親には戻れない」

 突然、家の電話が鳴った。間の悪さに老人と歩は同時に舌打ちした。

 老人はしつこい電話に出た。なぜか、受話器の向こうの声まで歩には聞こえた。

「もしもし、今は取込み中なんだが」

(もしもし、那須川さんですか。昔、舞茸工業を経営していらした)

「ああ、そうだが」

(当時、あなたが作っていた商品が発展途上国で盛んに注目されているんです。あなたのノウハウが必要なのです。わが社に力を貸して下さりませんか?)

「だが、私はもう、会社は――」

(当社にエンジニアとして、あなたを雇用したいのです)

 歩はあまりの展開に考えが追い付かない。電話をかけてきた会社は、歩でも知っている有名な会社だった。外国に電化製品を売っている家電メーカーである。

 男は娘の笑顔に励まされるように、いい方向で検討すると答えた。さっきまでどん底だった彼の人生は大きく変わろうとしている。まるで、まるで映画のワンシーンのような奇跡の連続が起こったのだ。

「あの人も娘さんがきたのも、仕事をもらえたのも、サチさんの力なんだね」

「幸福を再配しただけのこと。少し出来過ぎじゃが、まあ、これくらいでもよしとしよう。さあ、行くぞ」

「でも、大丈夫なの。座敷わらしのいなくなった家は不幸になるって、本にはあったよ」

「迷信じゃ。巡り合った幸福を生かすも殺すも、本人の心がけ次第。ここから先は、わしらの関わるところではない」

 二人は幸運の家を後にした。


          7


 日付の変わる頃、サチに連れられて、人の姿のない公園に着いた。一本しかない電灯がベンチの上で瞬きのように明滅を繰り返す無論、人の姿はない。

「答えは出たか?」

 歩は正直のところ、まだ迷っていた。

「お前に会わせたい者がいる。ここへ来るはず――ほら、噂をすれば、なんとやら」

 電灯の仄かな光りの下、二人が座っていたところ、公園の入り口から背広姿をした一人の男が歩いてきた。影のように細く伸びた足はゆったりとした動作で、年は五十歳くらいかと思ったが、目の前で立ち止まる姿は父と同じくらい。

 白髪の混じった頭を後ろに倒している。背広も上等な感じではない、地味なねずみ色。靴もずいぶん履き古しているのか、やや色が落ちてしわが目立つ。

 男はベージュ色の大きなカバンを持っていた。それを地面に置いて、椅子代わりに腰を下ろした。

「ごきげんよう、サチさん。相も変わらずのようで」

「おぬしもな。景気は良さそうじゃな」

「先ほど、お一人様を。昨日はバスの転落事故で八名様。この世に人がある限り、私の仕事に暇はない。その子があなたの後任候補ですね」

 男がこちらに顔を向けながら言った。サチと同じ座敷わらしだろうか。しかし、わらしと呼ぶには少し年を取っている。

「サチさん、この人は?」

「紹介しよう。この者は三善という。お前が一番会いたがっていた者じゃ」

「会いたがっていた者?」

「し、に、が、み」

 歩は二人から逃げ出して、ベンチの後ろに隠れた。

「座敷わらしを継がせるとか言ってここへおびき出して、僕の魂をそいつに渡して殺す気だな!」

「お前はとっくに死んでいるのだぞ」

「サチさん。あの少年であなたの後任は務まりますかな。失礼ですが、少々、荷が重すぎるようにお見受けする」

「少し愚鈍な方が上手く行く時もある。それに、引継ぎに厳選は不要なはず」

「そうですな。すべては天が決めること。私やあなたと同じく」

「来い、歩よ。取って喰いはせぬ」

 歩を無理やり三善の前まで連れてきた。男はカバンから一枚の紙を取り出した。そこには何も書いていない。

「実ノ森歩くん。あなたは十年前に誕生してから、二日前の午後五時ちょうどに命を落とした。死因は事故死。死者は四十九日までこの世に留まるという迷信があるが、実際は違います。私のような送迎者と契約を交わし、この現世から離れるのです」

 三善は市役所の職員みたいに、事務的な内容を淡々と話していく。

「しかし、すべての死者が彼岸に渡るわけではない。列外に出る者もいる。座敷わらし、貧乏神、福の神、疫病神、死に神などなど、それら精霊になることで、この世に留まるのです。あなたの場合は、サチさんの後を継いで、座敷わらしとして、“采配”の務めに従事する。もしくは、他の同じように三途の川を渡る。どちらを選ぶかは君の自由だ」

 正直なところ、歩はまだ迷っていた。優柔不断だと親に言われたこともある。しかし、こんな大事な進路はもっと考えるべきだと、自分に言い聞かせた。中学受験の進路と同じだ。じっくり考える時間が欲しい。

「もしも、あの世に行ったら、もう二度とこっちには戻れないの?」

「残念ながら」

「歩、両親に会いたいであろう。もしかすると、務めを果たせば、いつか元の姿に戻れるかもしれん」

「サチさん、口出しは困ります」

「おお、すまなかったのお。歩、どちらを選ぶにせよ、よく考えよ」

 そう告げると、サチはブランコに乗った。

 座敷わらしを継ぐか、あの世の世界へ旅立つか。歩は頭の中にある天秤で比べた。得と損。メリットとデメリット。父が仕事の口癖になっている単語を思い浮かべる。しかし、どちらも経験がない上、どうなるのか想像もできない。

 だが、先ほど、サチの起こした奇跡を目の当たりにして、歩は少し心が躍る気持ちになった。もしも、自分にも同じ力を持つことができれば。

「サチさん、一つ教えて。座敷わらしの仕事って、さっきの人みたいに不幸な人を助ける仕事なの?」

「半分正しいな。家から家、人から人を渡り歩いて、幸せをこの世に満遍なく配分する」

 歩は目をつぶり、まだ不確かながらも、ある決心がついた。

「結論が出たようだね」

「僕、座敷わらしになってみます」

「後悔はしないね。人はいつか死に、そして彼岸を渡る。精霊になるということは、そのレールから外れるのだ。いつ人間に戻れるかも分からない。永久の時間は終わりなき孤独な旅でもある。後悔はしないのかね?」

 歩は一度、ブランコに座るサチを眺めてから振り向くと、もう一度同じ答えを返した。

「僕は、座敷わらしになります。そして、もう一度、人間に戻ります」

「よろしい」

 死に神は小さく肩をすくめると、手に持つ紙を破り捨てた。

「たった今、君の向こう岸に渡る権利を破棄した。健闘するといい」

 そして、カバンを持つととぼとぼと立ち去った。公園の中は止まっていた時計の針が動き始めたように、夜風が木々の枝を揺らし始めた。

「引き継ぎを始めるとしよう」

 サチは手を自分の口に差し込んだ。大きくえづくと、何かを吐き出した。歩は顔をしかめる。彼女は、どろどろの手に白い玉を握っていた。卵を吐き出したカエルそのものだ。そう思っていると、足で小さく蹴られた。

「寝ぼけるでない。気をつけて、受け取れ」

 歩は白い球を持った。予想外の重みを感じて、すんでのところで落としそうになった。

「気をつけろと言ったであろう」

「ごめん」

「ごめんなさい、であろう。まあよい。それを飲み込め」

「ええ……」

「飲め」

 歩は恐る恐る白玉を口に入れた。

 心臓が徐々に跳ね上がり、内から熱く感じる。意を決し、玉を喉の奥と落とし込んだ。するすると体の奥へと吸い込まれる感じがした。

 途端、心臓が苦しくなり、歩はうめいた。死んだ体になったはずなのに、血が逆流するように体が焼ける。地面で転げまわり、必死に水道へ向かおうとする。水を飲まないと死んでしまう。這い進みながら、水道の蛇口を回そうとするが、透けた指がから回る。

「た、たすけて、サチさん、死んじゃう!」

「お前はもう死なん。今、お前は霊体から精霊になろうとしている。魂が新たな肉体を持とうとしている。始まりはいつも苦しい。母の陣痛と思え」

「そんなの知らないよ! 助けてよ、ねえ、サチさん――」

 歩は、のどが張り裂けるほどの断末魔を絞り出した。きっと、ずっと離れた家にいる両親の耳にも届かくかもしれないと思えるくらい。

 どれだけに時間が経っただろうか。体中を覆うすべての神経がむき出しになり、無数の針で刺され、引きちぎられたかのような激痛。だんだんと少しずつ引いていった。

 すべての感覚が消えた頃、空には朝日がのぞいた。

 暁を隠すように、ガマガエルの顔が遮った。

「お目覚めか。おはようというべきか、初めましてというべきか」

「僕は一体どうなったの?」

「お前は生まれ変わった。精霊としてな。さあ、立て」

 立ち上がろうと腰に力を入れた瞬間、地面から浮き上がるようだった。足が地面から数センチ離れていた。時間は早朝で、春とはいえ冷えているはずなのに、何も感じない。重さもない。しかし、幽霊の時と違うものがあった。それは――。

「朝露だ」

「朝露よ」

「朝は嫌いだ。獲物を探さないといけないからな」

 辺りから様々な声が聞こえる。

「ここの草むらにはカマキリの連中はいないようだな」

「バカなバッタどもめ。ちょうど腹ごしらえだ」

 変な調子の声だった。足元の草むらから聞こえる。しゃがんで眺めてみると、草むらの隙間にカマキリがいた。手先の鎌を広げ、口をむしゃむしゃ動かしている。黒い球の眼が光らせているのは、すぐ近くで草を食べているバッタだった。

 まさか、彼らの声が聞こえたのか。

 また別の方向からも聞こえる。

「さあ、さあ、荷物を運べ。どんどん運べ。すべては巣の奥で待つ女王様のために、どんどん休まず運べ」

 大合唱の声の主は、地面に群がっているアリだった。電灯のそばに落ちているキャンディのかけらを大勢のアリが運びながら列をなし、少し遠い巣まで持ち帰っている。

「虫の声が聞こえるだろう。お前は人間でも幽霊でもない。座敷わらしとなった。森羅万象の音や声が聞こえるはずじゃ。目をつぶり、耳を澄ましてみい」

 風のささやきが耳をくすぐった。歌声に似ている。朝を告げているようだし、暖かい春を喜んでいるようにも聞こえる。歩は風というものをこの目で見た。半透明の筋が幾重にも重なり、空を回っている。風は混じる塵の一粒まで息吹を感じた。静かな響き。何かが始まろうとする音だ。

 人の声が家々から聞こえるのは昨日と同じだが、朝の挨拶や陽気な会話や、学校、会社に行きたくないとか憂鬱な声もする。

「どうじゃ、座敷わらしとなった身は、その体から臨む世界は?」

「言葉にできないよ。すごいとしか言えない」

「わしもそうじゃった。お前も自分で学び取れ、実ノ森歩、いや、実ノ森家の長男、歩は死んだ。お前は今からノタバリコじゃ」

「ノタバリコ?」

「前任者がわしをそう呼んでいた。ひよっこの座敷わらしという意味じゃ」

「そんな呼ばれ方をされないように、とりあえず頑張ってみる」

「とりあえず、か。せいぜい頑張ることじゃ。ではさらば」

「ちょっと、待って! 僕はこれからどうすれば――」

 歩の質問に答える間もなく、サチの体は少しずつ砂になり、やがて、風に乗って塵となって消えた。ちょうど、朝の八時になったところであった。

「これからどうしよう」

 歩は当てもなく足の向くまま歩き始めた。

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