歩 ④
5
歩はゆっくりと目を開いた。最初に見たのは、星の少ない夜空だった。黒い雲が千切れて多様に広がって、満月を隠している。
ゆっくりと起き上がると、そこは線路の真ん中だった。
歩はいつもの帰り道に立った。おかしな感じがする。体が妙に軽い。頭の中は、隅々まで掃除したようにすっきりしていた。今日、学校であったことも全部、遠い昔にあったように懐かしく感じた。
「サチさん?」
あの座敷わらしを呼んでみたが、どこにもいない。
「まあ、いいや」
歩は夜の帰り道を歩いた。電灯の照らす近所の住宅街に通りかかると、家々から無数の声が耳元に流れてきた。
朗らかに笑う声。大事な打ち明け話をする声。仕事が大変、勉強が皆に追いつかないという愚痴。夫婦の、親子の、兄弟姉妹の口喧嘩。どこの家からも聞こえる人の声のうるささに、耳を塞ぎながら早歩きで家を目指した。
どうして、みんな、こんなに大きくしゃべるんだろうか。
とにかく、一刻も早く家に帰りたかった。朝は学校をズル休みしようとして、塾だってサボってしまった。家に帰ったら二人に怒られるだろう。それでもなお、早く帰りたいと思った。いつも仕事ばかりしている両親の待つ家に。
塾に通わせているのは父の強制だが、最近になって、それが正しいと考えるようになった。父は確かに、家に居ても電話で仕事の話ばかりしている。日曜日や祝日でも、携帯電話の着信音が聞こえない日はない。遊園地や映画に連れて行ってもらったことなんて一度もない。朝早くに出かけ、夜遅くに帰る父は好きでも嫌いでもなかった。
母も同じだった。家を空ける時間が多く、ご飯を作ってくれるのはめったにない。お手伝いさんが料理を作ってくれた。参観日でも顔を見せたことはない。もちろん、以前は寂しく感じていた。
しかし、両親が頑張るのには、ちゃんとした理由がある。今の大きな家に住んで、高級な車を乗り回して、お金のかかるおいしいものを食べるためだ。裕福な暮らしをするには、お金を稼がなくてはいけない。だから二人は必死に働いている。幸せになるには偉い大人になっていないといけない。弁護士とか、医者とか、会社の社長とか。偉くなるためには、たくさん勉強して、塾に通って、立派な学校に入らないとダメだ。そのためには受験で合格しないといけない。もっと、賢くならないと。もっと、皆よりも頑張らないと。
でないと、天音やあいつの親のようになってしまう。給食の時間に敦が話していたことも一理あると思った。天音が悪いのはなく、彼女の親が悪いのだ。だから、娘は学校で馬鹿にされる。
そういう人達を、父は“負け組”と呼んでいた。父は勝ち組だ。その息子の自分も勝ち組にならないといけない。ならなくちゃいけないんだ。生まれ持ったチャンスを大事にして、勝ち組になる。そうすれば、将来はお金持ちになれる。今まで通り、大きな家に住んで、高級外車を何台もガレージに一杯に停めて――。
歩の足は自宅の前に着いた。自分の家を間違えたのかと思った。
門の向こうにたくさんの人が来ていた。誰もが黒い服を着ている。みんな、意味もなく無表情を浮かべている。親戚の叔父さん夫婦やいとこ、祖父母、父の会社で一緒に働いている人の姿まであった。
「こんばんは」
控えめに挨拶しつつ玄関に入ろうとすると、扉に一枚の札がかかっているのを目に止めた。『忌中』とあった。どういう意味なのか考えていると、親戚一同がどんどん家の中に入ってきた。
「こんにちは、おじさん。今日はどうしたんですか? 何かあるんですか?」
叔父は何事もないように歩の横を素通りした。
「ねえ、何かあったんですか。教えてください」
家の中で普段は使わない和室で客がたくさん集まっていた。その中に父の姿を見つけて、歩は駆け寄った。
「お父さん、どうしたの? 今日はどうしたの? ねえ――」
「この度は本当に突然のご不幸で……」
客がそう言って深く頭を下げ、父もそれに倣った。
「ねえ、お父さん。お母さん!」
二人は歩に目もくれず通り過ぎ、端淡々と挨拶を交わしていく。会社の部下で平沢さんの姿まであった。平沢のお兄さんと呼んで、小さい頃は遊んでもらった覚えがある。今は、幼馴染の女性と結婚して、子供が生まれたばかりだという。
「この度は、歩くんのことで、心中お察しいたします」
「ありがとう、平沢くん。君も来てくれれば、息子も喜んでいるよ」
「僕はここにいるよ」
歩の言葉に誰も耳を傾けない。さっきからどうもおかしい。誰も気にかけないのに、誰もが自分の話ばかりをしているようだ。不安はつのるばかりだった。その正体さえ分からず、一人だけ霧の中に取り残された気分だった。
ふと、客の中に一輝達の姿がいた。
「田崎くん!」
声をかける歩に、三人は気づかない。
「どうして、何も答えないの。ねえったら!」
敦の肩に手を駆けようとした時、指先が肩をすり抜けた。
「これって、どうなってんの?」
試しに敦に正面から当たってみた。彼の太った体をすり抜けていく。一瞬で向こう側にある壁に立っていた。
「まだ、気づかぬか」
聞き覚えのある声がした。三人の後ろにサチがいた。彼女だけが初めて会った時と同じ、赤いセーター姿なので目立つ。
サチは指をさした。その方を凝視して、歩は呆然として言葉を失った。何とか、喉の奥から「嘘だ」と絞り出すが、渇きも感じない。
「本当のことじゃ、歩。お前は死んだ」
和室の奥に葬式の祭壇が置かれていた。その上には大きな歩の写真が立ててあった。
「今、お前の葬式をやっている。弔問客もたくさん来ておる」
「冗談だよね。夢とかだよね」
「お前は、学校の帰り、電車に轢かれて死んだ。二日前のことだ」
写真に写っている自分の顔は、つまらなさそうに無表情を向けている。学校の遠足で撮った者だろうか、帽子をかぶっている。
お坊さんが経を唱え始めた。しめやかには行われる自分の葬儀。歩は力が抜けたように床に倒れこんだ。
「僕が死んだ」
サチが下を見ろと指を差した。足元に目をやり、歩はかすれた声を絞り出した。自分の足には、皆にはあるはずの影がなかった。今さら、サチにもないのに気づいた。結局、予言の通りになってしまった。
「僕は本当に死んだんだね。じゃあ、僕はこの後どうなるの? 天国とか地獄に行くの? それとも幽霊のまま?」
「ついて来い」
サチに連れられて、歩はトイレのドアを開けた。ドアの向こうに便器はなく、代わりに別の風景は広がっていた。見覚えのある近所の道だった。
そこへちょうど、一輝と敦、秋乃が正面から歩いてきた。
「あーあ、実ノ森のやつ死んじゃったなあ」
「なんかウソみたい」
「おばさんから聞いたんだけど、特急電車にはねられたんだって」
「じゃあ、やっぱりアレかな。グシャグシャのバラバラになったんじゃねえの」
「やめてよ、一輝。通夜の帰りだよ。幽霊になって出てきたらどうすんの」
「和田くん、寂しいよぉってな感じか?」
本人が隣にいるとは知らずに言いたい放題である。
「でもさ、実ノ森くんはなんで踏切の中にいたの?」
「なんでも、逃げ遅れた子供を助けたんだって」
「自分と関係ないやつを助けて死ぬなんて、おれはやだね。あの日はどこかおかしかったけど、ただのバカじゃん」
「それは言い過ぎだよ、田崎くん。でも、実ノ森くんももったいないよね。せっかく、あんな金持ちの家に住んでたのに」
「大したことない。正直この中で一番下だろ。あいつの親父も会社社長だけど、成金って感じだし。息子が死んでから落ちぶれるぜ、きっと」
「ひどいよ」
歩は声を漏らした。もちろん、彼らの耳には届かない。
「なんか辛気臭いな。ねえ、今度、実ノ森くんの死を悼んで、どっか行かない?」
「遊園地がいいな。映画も観ようぜ。ホラー映画なら、あいつがスクリーンから出てくるかもな。うらめしやって」
「きゃーやめてよ、そういうのはマジ勘弁」
歩は道端に座り込んだ。三人の背中を見送る力も残っていなかった。学校や塾も一緒で、気の合う友達だと思っていたのに。
「聞くに堪えんだろう」
「ひど過ぎる。友達だったのに……」
「あいつらの友達とは、あんなものだ。だが歩、お前だって、死ぬ前まできゃつらの中にいたのだぞ。己らだけは選ばれたとか調子のいいことを垂れ、世間の辛酸をなめる大人を小馬鹿にし、無味乾燥な井戸端に花を咲かせていた。浅はかで、低俗で、空しい連中だと思わんか?」
「うん。今まで全然気づかなかった。僕も馬鹿だったんだね」
「烏合の衆から抜け出しただけでも御の字。さて、これからどうする?」
「どうするって言われてもなあ」
「成仏して、あの世で極楽に行くか、地獄に行くか」
「どんなところなの?」
「行ったことはないから知らん」
「怖いなあ」
「では、未練がましくこの世に留まるか」
「幽霊になるのか……」
死んでもなお、進路や予定に頭を抱えないといけないのか。
「お前は子供のうちに死んだ。このままだと賽の河原に行くだろうな」
「賽の河原?」
「親より早く死んだ子が行く。親に死に目を見せた親不孝の罰としてな。死んだ童は河原で石を積み続けさせられる。石を積み終われば、極楽にでも行けるだろうが、石の塔が積み上がりそうになると、どこからともなく現れた鬼婆に壊される。積んでは崩され、また積んでは崩され、未来永劫、報われぬ責め苦を繰り返すのじゃ」
「絶対にいやです」
そんなところなんて、絶対に行きたくなんかない。
「だろうな。やはり、三途の川を渡り、閻魔に会いに行くか。閻魔大王の前で、生前の行いを裁いてもらう。生まれて死んだ日までの罪が審議される。そして、罪の重い奴らは地獄へと落とされる」
歩は思い出そうとしたが、褒められるようなことをした覚えはない。思えば、親に無理を言って何かを買ってもらったり、贅沢をしたり、一輝達と一緒に人を馬鹿にする話をしてきただけだった。
「地獄はきついぞ。罪によって苦しむ度合いは、罪人によって違うが、どこに落ちようが、死ぬよりも辛い。鬼どもの責め苦は何千年も続くという。忘れておったが、お前は母親に嘘をついたな。閻魔様に舌を引っこ抜かれる。おお、痛そう!」
自分がそんな目に遭っているように、サチはおどけながら言った。
歩は泣きたくなった。石を積むか、裁判を受けるか。どっちもやりたくない。泣きたいのに涙が出てこない。幽霊は泣けないのか。
「どっちもいやか?」
歩は幼児のように大きく頷くしかなかった。
「よしよし。歩よ。お前、わしの後を継がぬか?」
「サチさんの後を継ぐ?」
「左様。わしは、お前が言うところの座敷わらし。お前も座敷わらしとなって、わしの仕事を継ぐ、というのはどうだ?」
あまりに突然の提案に、言葉が出てこない。
「無理強いはせぬ。じっくりと考えてから選べ。お前の行く末を決められるのは、お前だけじゃ」
「でも、そんな大事なことを自分で選んだことないよ」
「なんと、もったいない話じゃ。自分の人生を自分で選ぶというのは、最も上等な権利というものじゃ。お前は幸せだぞ。わしの時は選べんかった」