歩 ⑥ (完)
1
広大な庭にたたずむ館は無人だった。家人は奥の寝室にいた。床には札束の山や株券、債券、近海、宝石などが散らばっていた。天井の豪華なシャンデリアには、蜘蛛の巣が張っている。手入れをする者はとうに逃げてしまったからだ。
部屋の中央にあるベッドの上で、一人の老女が虫の息になっていた。ザンバラの白髪に骨の浮き出た首、青白い顔に天井を睨む赤い目。限りなく死に近づきつつある空回りする吐息。長年の不摂生が祟り、肺に穴が空いたのだ。
歩は老婆の枕元に立った。
「僕の声が聞こえますか?」
累という名の老婆は首を動かした。
「聞こえているとも……お前を知っている……捕らえ損ねた座敷わらしだね」
累は空笑いしてはその度にむせ返った。枕元に吐き出された痰には赤い血が混じっている。自分の命が残り少ないことを自覚している。
「皆、いなくなった。秘書も、信者らも、使用人どもも。金だけ残った。使い道のない紙屑ばかりだよ」
細い手を伸ばして、枕元にある薬箱から紙に包まれた薬を出そうとする。しかし、もう一つもなく、指先は干からびた水差しを倒すだけだった。
「たかが金、と人は言うだろう。だが、昔の私はみんなから虐げられてきた。たかが金のない家庭に生まれたばかりに」
老女は目をつぶる。頭の中に昔の光景が流れる。教室の中で、クラスメイトからいじめられる一人の少女。
そして、遠巻きからそれを傍観する自分自身を。
「だから、みんなを貧乏にしてやったんだ。他の奴らみんなが不幸になれば、私だけみじめにならずに済むからね」
老女は空笑いを上げた。大きな咳と一緒に、赤い痰が枕を汚した。
「僕は、あなたの本当の名前を知っている」
「私の名は累。それ以外にない」
歩の声は静かに告げた。
「僕は、あなたに謝らなくてはいけない。そのためにここへ来たんだ。最期にせめて。本当に、ごめんなさい、天音」
老女は自分の本当の名をつぶやいた。うつろな片目が開いた。
「私の本当の名は、花川天音。団地で両親と暮らしていた。あの頃、私は惨めだった。家では父も母もだらしなく、学校でもずっと一人だった。金持ちの子、友達の多い子、恵まれた人を妬ましく思っていた」
その老婆が天音だと気づいた途端、歩の中で一番古い記憶がよみがえる。一人で教室に残る少女。髪は今も同じようにボサボサで、一年中同じ服を着ていて、近くによると臭いがした。ずっと、机に顔を向けたまま正面に上げたのを見たことがない。そして、座敷わらしとして最初に訪れた家の子でもあった。
「私の家は奇跡のように恵まれた時があった。私は心が躍った。神様がいると信じた。神様が私を幸せにしてくれたのだと。ところが、またみじめな暮らしに戻ってしまった。学校でもっと虐められるようになったし、両親は働くことさえできなくなった」
富を得た天音は人が変わった。彼女だけのせいではない。あの時、自分は贅沢以外のものを教えるべきだった。もっと、大事な何かを。
「大人になっても私の暮らしはみじめなままだった。ある夜、自殺しようとしたら、頭の中で声がした。声に導かれるままに、私は家の押し入れ奥から古い箱を出した。そこに私の祖先のことが書かれていた。代々、人の世を変える宿命があるのを知った。私は声に従って、自分の左目をえぐり出した」
天音は左目の黒い空間をのぞかせた。
「私は、この世界にある幸福の球を拾い集めながら、強い富力を集めた。人の数だけ、私は強くなった。私の金と教えに、皆が集まったよ。老いも若きも、持つ者も持たざる者もすべて不幸にしてやった。皆が不幸にすることで、不平等を消そうとした。貧しい者同士が手に手を取る、ゴミ溜めの生き地獄、それが私の目指した世界だった」
「あなたの心は満たされなかった」
「その通りさ。どれだけ金の山を積み上げようが、大きな家、高い車に乗り、豪勢な料理を食べ、多くの人間を顎に使い、どれだけ若い男を侍らせても、私の心は、ずっと子供のころと変わらなかった。いいや、もっとみじめになっただけだった。今となっては、私はみんなを見下したかった。結局は自分を虐げてきた連中と同じだったのさ。同じ穴のムジナの弱い方に過ぎなかった」
歩は最後の力を使い、天音の心を違う世界へいざなった。そこは、かつての教室だった。天音も歩も、昔の姿に戻っていた。
「実ノ森くん?」
「僕のせいだ。僕が座敷わらしとして、君の家をめちゃくちゃにした。もっと、別に教えられるものがあったはずなのに」
その時、隅にあったゴミ箱が光り出した。一枚の画用紙が元だった。歩はそれを取り出した。そこには、家の中で両親と女の子が笑顔を向けている。これは天音の描いた絵だ。クラスメイトらに破かれたものだ。
「そうか」
歩は画用紙の残骸を拾い集めた。机の中からセロハンテープを取り出して、バラバラになった絵を、ジグソーパズルの要領で貼り付けていく。指先が輝いて、すすけた色が鮮やかに染まっていく。
完成すると、暗い教室は壁や天井、床が裏返り、別の部屋へと様変わりした。そこは決して広くない。畳にコタツのある部屋で、天音の両親が手を振っている。
「天音、おかえり」
「おかりなさい、晩御飯ができたわよ」
母親が台所に立っている。あの汚れた部屋ではない。
「お父さん、お母さん」
天音は二人を抱きしめた。困惑する両親に構わず、彼女はうれし涙を流し続けた。
「さようなら、天音」
「さようなら、歩。あの時、止めてくれてありがとう」
天音は振り向いた。左目はすっかり元に戻っていた。
「あの日、わたしは死のうとしたの。あなたが話しかけてくれたから――」
天音の命はそこで終わり、魂は絵に封印された。もう、何人も彼女とその家族を苦しめるものはない。いずれ、友達も現れ、大人になり、人としての人生を全うする長い夢が終わる頃、彼女の心は彼岸へと向かうだろう。
老女の死に顔は安らかなものだった。天窓の陽光が差し込み、薄暗かった部屋はいつの間にか明るくなっていた。
2
歩の時間もまた、終わりに近づこうとしていた。
最後に映った現世の風景は彼らの姿だった。焼け野原でたたずむ、実春とカケル。実春は膝を崩し、空に向かって慟哭した。目の前は『星の砂』があった場所だ。今はもう、地面から突き出た門柱しか残っていない。建物があったところは消しゴムで消したように焦げた大地に変わっていた。
純も他の子供達も死んだのだ。純は老いた体で最後まで子供達を守ろうとした。子供らも一心にお互いをかばい合った。灼熱がすべてを奪い去っていった。
実春の涙が地面にしみこんでいく。カケルが肩をかけて何かを言うが、彼女の悲しみは消えない。
(悲しまないで)
歩は地上に立つと後ろから実春の背中を叩いた。
皆はまだここにいる。今ここで、実春達を見守っている。
気がつくと、周りには子供達がいつものようにはしゃいでいた。悪戯好きの男の子は、虫を見せびらかして女の子らを困らせていたし、静かに本を読む子や、鬼ごっこ、かくれんぼに興じる子らもいた。純は、校庭の片隅でまた絵を描き始めたようだ。
ここには記憶がある。楽しいことも、悲しいことも、すべて。
(実春、どうか、生きて。純や、皆の、そして、僕の命の分まで)
実春は泣きはらした顔をこちらに向けた。その純粋な顔立ちは変わらない。あの時と変わらない。
カァン、カァン、カァン、カァン。
あの時と同じ黄昏時だった。オレンジ色の空の下で、降りていく遮断機。線路に捕りこされた幼子。歩は咄嗟に踏切に飛び込んだ。幼子を抱き上げて線路の外へ逃がした。
遮断機の向こうには母親、その後ろには見慣れた人の姿がたくさんあった。のんびりとした丸顔の三重子。その彼女のそばに立つ大男の真一郎。二の間に寄り添うメリー。手を振る青年の純。毬を持ちながらほほ笑むトキヒト。両親に間に立ち、悲し気に手を振る天音。そして、いつもの仏頂面を浮かべるさち。
「まだまだだな、ノタバリコ」
踏切の外に出た少女がこちらを向いた。年月を隔てても変わらない眼差しは、実春にとても似ていた。きっと、彼女の曾祖母だろう。この子が助かり、大人になって子を産んで、ずっとその先に実春がいる。
「よかった」
自分のしたことは、決して無意味ではなかった。
実春……どうか、カケルと一緒にこれからもずっと――。
耳をつんざくブレーキ音と特急列車の衝撃が、夕焼けの世界を終わらせた。
3
戦後から十年が経った。
焦土の町は一気呵成の復興を進め、今では戦前以上に乱立したビルが増えた。暗い過去を忘れたいがために、分厚いアスファルトで覆い隠していく。多くの血を吸った大地は忘却の地層に埋もれ、いずれまた、同じ悲劇が繰り返すに違いない。
だからといって、いつまでも引きずり続けることもできない。生きる限り、人は前を向かないといけない。自分もたくさんのものを失った。それだけは絶対に忘れたくはない。実春は自らにそう誓った。
実春とカケルは、『星の砂』だった土地で新しい児童養護施設を作った。最初は掘っ立て小屋だったが、戦禍で親を亡くした戦災孤児たちが集まった。花音や藍子、コヨミも手伝い、今では学校と両立した施設に変わった。不思議と幸運が続いたおかげだった。
実春はいつものように、園の庭であるクスノキの根元で乳母車を止めた。
「おはよう、歩夢」
薄目を開ける息子。名前を決める時、咄嗟に浮かんだ名前だった。どうして、思いついたのかは分からない。カケルもあっさり賛成してくれた。
「おかしな偶然もあるな。俺も同じ名前を考えてたんだ。なんだろう、俺もこの名を知っている気がする。でも、なぜか思い出せないんだよ」
きっと、自分達が遠い昔に出会った名前かもしれない。
心地よい若葉の風が、花壇に咲いたチューリップの香りを運んできた。あたたかく、優しく、どこか懐かしさを包んでいる。
歩夢は、頭をかしげながら小さな手を空に向かって突き出した。急に笑顔を爆発させて、元気よくはしゃぎだした。
「どうしたのかな、歩夢?」
実春は後ろを振り返った。そばに誰かがいるのを感じた。すぐに風のせいと思った。枝葉のこすれる静かな音に混じり、子供の笑い声が聞こえてくる。
「あゆむ」
息子の名と同じ、違う誰かを呼んだ。ふと、歩夢の方を見ると、実春は自分の目をこすった。木漏れ日が反射したせいかもしれない。一瞬、息子の指先に触れるようにして、黄金色に光る小さな子が見えたような気がした。
歩夢が笑った。
この世界に生まれて、最初にできた友達と出会ったかのように。
了




