トキヒト ③
4
古事記において、ヤマタノオロチを退治したとされるヤマトタケルは酒を飲ませて酔わしたらしいが、今はそんな悠長なことをする余裕なんてない。
歩は剣を構えながら、オロチに向かっていく。
強力な風が吹き上がり、歩は咄嗟に刃先を突き出した。分厚い風の壁を引き裂いて、そのまま突進する。
しかし、刃は皮膚に当たっただけで流血をもたらさなかった。
「硬い」
鱗が幾重にも覆っているせいか、並の力ではビクともしない。
オロチの別の頭が伸びて、歩を捕まえようと口を開けた。噛まれる直前に離脱したが、これでは埒が明かない。固い部位でダメなら、そこ以外を狙うしかない。
目はどうだ。爬虫類を思わせる光彩がにらみつける。
歩はもう一度、オロチまで接近を試みた。まっすぐ、その瞳に向かって刃先を突き立てた。手ごたえを感じた。ズブリッと刃先が目に埋まり、オロチはけたたましい声を上げた。建物全体がきしむような雄叫びだった。
剣を抜いた直後、油断したせいもあったのか、伸びてきた尾に歩は足を取られた。とぐろが強い力で巻き付いた。
精霊の歩は人間の痛みを感じて悲鳴を上げた。体中の骨がきしみ、全神経が引っ張られるような感じであった。このままでは体が千切れてしまうかと思った。
その矢先、巻き付く力が少し弱まった気がした。そのチャンスを逃さず、歩は離脱できたのだが、直後に尾に引っ叩かれたせいで吹き飛ばされた。近くにあったタワーに直撃した歩の体は、くの字にへこんだ鉄骨で止まった。
オロチの中に一頭だけ白い頭をしたやつがいる。そいつが力を弱めたらしい。顔つきも他のものと違っていた。
「トキヒト、トキヒトなんだね?」
皮膚の色が落ちた純白の蛇。他とは違い人間の瞳を残したそいつは、じっと歩を見つめていた。そこに怒りや憎しみは感じられない。
「トキヒト!」
歩は叫んだ。呼応するように白い蛇は、空に向かってかすれた声を絞り出した。
「どうして、こんなことをするんだ。君は、人を愛していたはずなのに!」
累に捕らわれていた幼い男の子。どこか昔の着物に身を包んだ高貴な人間でありながら、あどけなさと優しさ、無垢さを兼ね揃えていた。上級の座敷わらし、チョウピラコであっても、悲しむ人の顔を見逃さなかった。そんな優しいトキヒトと白い蛇が重なった。
「答えてくれ。どうして、こんなことを――」
その時、別の蛇の尾が歩を薙ぎ払った。風の刃が殺到して、歩の体を切り裂いた。その中に、かすかに残る思念が体の奥に染みわたった。限りない悲しみ。人の死を悲しんでいるのが分かった。じゃあ、なぜ、こんな破壊を繰り返す。その答えはすぐに見つかった。
まだ精霊だった頃に出てきた最後の記憶、一人の女が出てくる。背が高く、ガリガリに痩せた、骸骨のような女。累だ。密教の護摩をたくような呪いを累がしている。呪え。人の世を恨め。どす黒く、毒々しい呪詛がヘドロの海のようにトキヒトの心を侵していく。やがて、トキヒトは精霊からオロチへと変わった。しかし、かすかに残った心の一辺は白い蛇として残った。
歩。
かまいたちの中に思念の声が語り掛けた。それはすでにあったものとは違う。語りかけてくる静かな声。
「トキヒト?」
斬れ。
今、確かに声を聴いた。
「斬れ?」
私を斬れ、歩。
あどけなく、けれどこちらが震えるほどの威厳に満ちた声が響いた。
「僕に君を殺せと言うのか」
白い蛇は首を差し出すように下に向いている。その周りの黒い頭は怒りに満ちて覆いかぶさっていく。しかし、純白の輝きは消えない。
私を斬っておくれ。私を解放してくれ、歩。白い蛇が赤い瞳から真紅の涙を流した。黒い憎悪に包まれたオロチの中にある、かすかな慈愛の欠片が訴えている。
震える手で剣を構えると、歩は雄叫びを上げながらオロチに殺到した。かまいたちに引き裂かれながらも留まることを知らず、一心不乱で黒い蛇の頭を薙ぎ払うと、残った白い蛇と対峙した。
一瞬、人の顔を見せた蛇は目を閉じた。歩は泣きながら、その首に刃を突き立て、そして、横に大きく切り裂いた。今度こそ、確かな手ごたえを感じた瞬間、全身に赤い鮮血を浴びた。
返り血の一滴一滴にトキヒトの記憶が流れ込む。
最初に感じたのは潮の香り。野太く響き渡る、ほら貝の音。刀を叩き合う合戦の音が断末魔と雄叫びに重なる。
大海には無数の木船が浮いている。船の上はもちろん、海面を埋め尽くす屍の背中。おびただしい死を目の前にして、視界の主が怯えた。小さな手が映ったことから幼子のようだ。
大柄な鎧武者の男がやって来た。頭から血を流し、肩や背中には何本も矢が刺さっている。片目は縦に割られていた。
「二位尼様、もはやこれまでにございます」
そして、力なく倒れて海に落ちた。トキヒトを抱える女が船の縁に立った。
「尼ぜ、どこへ行くのだ?」
幼子は問うた。
「都でごいます」
「海の中に都があるのか?」
「はい、海の底にも都がございます」
女にトキヒトをいざなって海に身を投げた。無数の泡が浮かぶ海中に沈んでいく。暗くよどんだ海の底へ。人間としての記憶はそこで終わった。魂は長い漂流の果てに、霊体になり、精霊としての生を得た。永遠ともいえる長い旅が続いていく。膨大な記憶の洪水に歩の意識はめまいを覚えるほどであった。
悠久の記憶に真の終わりが訪れた。霊剣を振り下ろし、霊体を断つ感触を、歩は確かに味わった。
5
空に浮かんでいたオロチの動きが止まる。鎧の鱗が干上がるように徐々に割れ始めた。亀裂が全身にまで広がり、オロチは砂となって中空に霧散した。
ほぼ同時に、何かの力にとり憑かれていた戦闘機は、糸を斬られた操り人形みたいに次々と地上に墜落していく。
オロチの首が砂に変わると、焼け野原と化した地上に降り注いだ。間もなく、地面から小さな根が生まれた。アスファルトを突き破り、無数の亡骸に絡みついて取り込んでいく。目まぐるしく育った植物は地上を緑化していった。歩の目には、まるでトキヒトの命が大地を染めていくようにも見えた。
歩は地上に降り立つと、「実春!」と叫ぶカケルの声を聞いた。基地もまた半壊している中に、カケルが彼女を抱き起していた。必死に介抱している。その胸は赤く染まっていた。花音や藍子、コヨミは泣いていた。
歩は冷たくなった少女に触れた。自分の中に残っている命を注いでいく。
青白かった顔が少しずつ気色を取り戻すと、実春は何事もないように目を開けた。致命傷は跡形もなく消えていた。不思議がるカケルに、彼女は抱擁を交わした。人間の世界が遠いものに感じていく。歩は自分の体もまた消えかかっているのに気づいた。同類を殺し、人間の寿命に手を加えた。二つの禁忌を同時に犯す。やっぱり、自分は最後までダメだった。しかし、不思議と恐怖や後悔はなかった。さちに笑われるか、怒られるだろうかというくらい。
少しだけ時間が残っている。きっと、やり残している宿題があるせいだ。意識を少し先に飛ばした。もはや歩く必要もなかった。心の中で念じた瞬間、彼の意識は自分の望むまで移動してくれた。
どうしても、会っておかなければいけない人の元へ。




