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実春 ④

 

          8


 ある日、施設に黒塗りの車がやって来た。

 今度は、銀縁の眼鏡に能面を張り付けたような顔の若い役人だった。純のファンだった人の姿はない。

「失礼ですが、平純さんはこちらにおられますか?」

 純や子供達が出迎えると、役人は開口一番に言った。

「本日より、あなたの全作品は退廃思想が著しいとの理由により、統一教育委員会の有害芸術指定を受けました」

 そして、無駄に分厚い書類を渡してきた。『我が国における、思想教育統一のための健全化』とあり、アリの群れのような細かい文章が長々と連なる。

「わが国では、善良たる市民育成のため、絵画、音楽、造形、小説、漫画、写真、演劇、造形など、あらゆる創作の表現を精査し、その思想性を重要視しています。総動員法令に追加された第十二項によります。国民は肉体精神の錬成のみならず、統一思想の向上を目指すにあたり、それらを妨げる恐れのある退廃思想が含まれる美術、娯楽の全廃を目指します。誠に遺憾ながら、あなたの創作物の大半が当委員会より退廃思想ありとの認定を受けました。よって、近日中に自主的撤去、廃棄の認可を勧告いたします」

「なんで、純じいの絵が退廃思想なんだよ! ふざけんなよ、坊ちゃん刈り」

「やめなさい、実春」

 純は静かに制した。

「私の絵のどこが退廃思想か、理由をうかがってもよろしいか?」

「一例を挙げますと、全国の公園施設に飾られた壁画、あなたの代表作『星の砂』。色彩豊かな海を背景に、波打ち際を走る犬、老婆と彼女に付き添う髭面の男が描写されていますね」

「それのどこがダメなんだよ」と実春は噛みついた。

「無精ひげの中年男、老人、犬。いずれも非生産的な存在です。それらを絵の主題にすることで、無価値の存在を暗に賞賛している。また、砂浜を歩くだけという、無為にして非効率な行動は、今の時代にそぐいません。挙国一致に反する個人主義、利己主義の象徴です。過度な個人尊重は国家衰亡の遠因を招きます」

 歩は呆れた。一体どう生きていたら、純の絵からそんな感想が生まれるのか。この絵を無くそうと考える人の頭は狂っているとしか思えない。

 彼の思念が実春に伝わったのか、彼女は反論した

「純じいの絵は外国では評判がいいんだよ。あんたら政府と仲良しこよしの同盟国だって、ファンがたくさんいるんじゃないか」

「同盟国とは敵と武力の行使は一致していますが、思想や文化までは共有にはできません。我が国において、後ろ向きの美術はすべからく、亡国に繋がる退廃になるのです」

「それで、私に自分の作品を切り刻めというのかね?」

「可能であるならすべてをお願いします。または、その許可をいただきたい。あとは執行部が処理します。これは当委員会、並びに名誉理事である鳳来寺累様によって、満場一致で決まった事項です。また、これから絵を描くおつもりならば、戦意高揚を主とする作品を創作してほしい、というのが我々たっての希望です」

 役人は一枚の書類を取り出した。

「正直、今年度の補助は相当厳しいものです。枠が少ない。認められたいならば、以下の条件を徹底してください。愛国教育の徹底強化。青年奉国隊予備訓練生の推薦。そして、貴殿の退廃美術作品の全廃棄。いずれかが履行されない場合、補助金の支給が困難になるばかりではありません」

「これ以上に何かあると?」

「園の責任者であるあなたに、総動員法令違反の疑いで聴取を受ける可能性があります」

「むちゃくちゃだ」実春が声を絞り出した。「クソッタレのヘボ役人め!」

 役人が表情を崩さずに言った。

「愛国教育が徹底されていないから、ここには、大人に対する敬意の欠けた子供しかいないのですよ。これはあなたの責任だ」

 役人が帰った後、純は何も言わずに目をつぶっていた。しかし、広場まで歩いていくと、広場の壁にかかっていた壁画『星の砂』を杖で裂いた。

「ダメ!」

 実春が慌てて彼を止めた。

「絵はまた描けるさ」

「でも、大事な絵なんでしょ。なんで、それを破かないといけないの。戦争と全然関係ないじゃん」

「僕には君達を守る責任がある」

「だったら、あたしはここを出て行く」

「なぜ実春が出て行かんといかんのだ?」

「あたしの親父は反体制作家だった。政府に反対する作品を発表して殺されちまった。そんな子供がここにいると、皆の迷惑になる」

「実春は誰にも迷惑なんかかけていない」

「あたしが奉国隊に志願する。そうすれば、誰も行かずに済む。これで二つ目の条件はクリアだ。一つ目は格好だけでやればいい。ここは大丈夫だよ」

「それだけは絶対に許さん!」

 今まで聞いた事のない純の怒声。苦しげに咳を吐いて、小さな子供らが寄り添った。けれども、実春の決心は固そうだった。

「ごめん、純じい。でも、これしか方法はないよ。札付きのあたしが志願すれば、あの役人だって納得する。形だけだよ」

「奉国隊はいつか戦地に送られる。この国は未成年さえ守ってはくれない。今に始まった事じゃない。昔からそうだった」

「分かってる。でも、誰かが志願しないと、この施設はつぶされちゃう。純じいや他の子はどうなるの? 食べるものもなくて、どうやって暮らして生きるの。みんな飢え死にして死ぬしかないじゃん。あたしはそっちの方が辛いよ。みんなが苦しむくらいなら、あたし一人が頑張ればいい」

「奉国隊に志願するというのは、戦争に手を貸すということだ。実春は、この子達のために入隊をすると言ったね。彼らを口実に人を殺めるのと同じだぞ。私は、君を戦争に加担させるために、亡くなったお父様に託されたのではない。ここにいる子供達は、誰一人も戦地には行かせん。死体にも人殺しにもさせん。僕の命にかけてでも――」

 その時、ガラスの割れる音がした。広場の窓が割れていた。拳ぐらいの石が床に転がっているので、誰かが投げたらしい。もしも、近くに子供がいたら大怪我していただろう。何人かがすすり泣くのが聞こえた。


          9


 歩は庭のジャングルジムの上から空を眺めていた。百年くらいたっても、空は同じ星空をのぞかせていた。小さな輝きが点いたり消えたりしている。

 施設から誰かが出てきた。純だ。杖を突きながらゆっくりと歩いて、ジャングルジムの横にあるベンチに座った。

「純」

 歩は試しに呼びかけてみた。目の手術をしたせいで、もう自分の声は聞こえないものだと思っていた。

「誰かいるのかい?」

 純は驚いたように周りを見た。まさか……そう思いながら、歩はもう一度問いかけた。

「僕だよ」

「その声は……歩かい?」

「覚えていてくれたんだね」

「不思議だ。君の声は昔から全然変わらんね。今はどこにいるんだい?」

「僕は少し前からここにいた」

「数日前から気配は感じていた。やはり、君は普通の人ではないね」

 歩は別段驚かなかった。

「初めて会った時から、君の声は普通の人と何かが違っていた。ただの家出した子供ではない気がした。君は幽霊なのか?」

「少し近い」

「そうか」と、純は背中を丸めた。

「年を取っただろ。この通り、じいさんになってしまった」

「皆そうなるんだよ。でも、純は立派だよ。親のいない子供達を引き取ったじゃないか。僕にはできない」

「いや。私は、彼らを不幸にしているのかもしれない。あの子達に、今の時代がいかに間違っているかを教えたところで、この世界がすぐによくなるものでもない。むしろ、この世界に溶け込めなくなり、苦しい思いをさせてしまっている。それで本当に良いのか、正直迷いがある。いっそのこと、役人どもの言う通り、目を濁らせておけば何も知らずに済んだかもしれない」

「純はいつも正しくいるように頑張ってる。子供達は、それを知っている。だから純を大切に思ってる」

「ありがとう、歩。一つだけ頼みが聞いてくれないか」

 純は目をつぶったままだった。

「実春を知っているかい? ここに住む女の子だ。あの子は自分の決めたことを絶対に曲げない。意志は強いが、危なっかしいところがある。私も年だ。全力で彼女を止めるのも難しい。ここは私の家だ。子供達は私の家族だ。私が余った命を懸けて守っていく。情けないことだが、実春の申し出をこれ幸いと思ってしまう自分がいる。頼む、あの子を、実春を守ってほしい。メリーの時のように」

「言われるまでもない。僕は君の親友でありたい」

 歩の決心はついていた。

 人の心が残っていることに感謝した。

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