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さち ②

 

          3


 歩は廃屋みたいな家の前にいた。

 薄い板を張り合わせたような壁。隙間から絶え間なく風が吹く。家の中は庵があり、かまどの釜には虫が這っている。

 ボロボロの服をまとった二人の男女が一人の女の子の手を引いて、戸口へ連れていく。無表情の彼らは夫婦だと分かった。女の子はサチで、彼らは両親だろう。

 戸口に立つ小男が、二人にお金を差し出した。男の後ろには、九、十歳ほどの子供が並ぶ。互いに腰を縄で結ばれ、縄には鈴が括り付けられていた。

「しっかりご奉公してくるんだよ、さち」

「いいか、粗相をするんじゃあねえぞ」

「おとう、おっかあ……」

 サチの声がかすれている。やせ細った体。頭だけがやけに大きい。

「さあ、行くぞ」

 男に手を引っ張られ、さちは子供の列に加わった。

「おめえはもうこの家の子じゃねえ。偉い工場長様が金で買い取ったのよ。ありがたく思え。女衒に売り飛ばされると思えば、お国のために働ける方がええ」

 男の号令で歩き出す子供達。一人でも少し立ち止まっただけで、腰にかかる縄が締め付け、他の子のもたついてしまう。全体の歩幅が乱れると鈴が鳴り、男の耳に入る。鈴が鳴る度、連帯責任で全員が頭を叩かれた。

「何もたもたしやがんだ! たたっ殺すぞ!」

 男の罵声を聞かない日はなかった。

 子供達は歩き続けた。山から山を、野を越え、川を渡り。朝は暁がのぞく頃から、夜は真っ暗闇になるまで。短い休憩もあったが、疲れる方が圧倒的に多い。山育ちのさちでさえ、数日経つと足元がふらつくようになった。粗末な草鞋はすぐに駄目になり、足の裏が裂けて血で染まる。それでも、男の折檻が怖いので、さちも他の子も我慢して進まなければいけなかった。

 目的地の前には広がる峰が並び、深い雲がかすみ、ひゅうぅぅと風が別れの音をかき鳴らす。キカヤに着くまで、いくつも山を越えなくてはいけなかった。人買いの男の足は速い。ただでさえ、縄で結ばれた子供達は早歩きをしなければいけないのだが、急な山にさしかかると道は険しくなっていく。凍える夜でも野宿をするしかなかった。

「おら、家に帰りてえ。おっかあもおっとうも待っているんだ」

 あまりの辛さに一人の女の子がとうとう音を上げた。

 男は拳で女の子を殴りつける。

「お前らは親に売られたんだ。大根や人参みてえにな。今さら帰っても、すぐに連れ戻される。キカヤで奉公するか、ここで野垂れ死ぬか。無駄口ほざいて俺様に叩き殺されるか。お前らの行く末は、そのいずれかだ。お前らはもう人じゃない。家畜や虫けら当然だ」

 さちは静かに歩き続けるしかなかった。

 歩はその隣に寄り添っていた。彼女を助けたかった。虐げる男に報いを受けさせてやりたい。しかし、それらはできないことだと知っていた。いま自分がいるのは、過去の世界。遠い昔に終わった出来事なのだから。

 せめて、さちの手を握り、支えてやるしかなかった。

(……そう言えば、あの頃、誰かが手を握ってくれていた気がするのお。小さいが暖かく、優しく思えた)

 老女となった彼女の思念が通り過ぎた。


          4


 山肌の新緑が白銀に変わり始める。

 すると、雪で足を取られるようになった。鈴の縄は二人一組に分けられ、さすがの男も遅れる子を折檻する余裕はないようだった。

 吹雪が氷の針となって肌に突き刺さると、手はかじかみ、耳が痛くなる。足の感覚が弱まっていく。

 突然誰かの悲鳴が聞こえた。山道から滑落した子供がいたのだ。しかし、それを確かめようもなく前を歩き続ける。男も他の子達も振り向くことなく進んでいく。さちも同じだった。幸い、彼女と一緒になった男の子は丈夫な方だった。歩はさちが落ちないように内側に押すように支えていた。

 雪山を越えた頃には、知っていた顔の子が何人かいなくなっていた。きっと、崖から落ちて死んだのだ。その子と一緒に縄で結ばれた子も一緒に。

 どれだけの道のりを進んできたか。

 山々の間にキカヤが見えてきた。鬱蒼とする森の中に切り開かれた、レンガ造りの建物。赤い屋根から伸びる煙突からは白い煙が空へと続いている。

 死ぬ思いで工場に到着したのも束の間、さちは女工として、紡績工場で厳しい手ほどきを受けた。

 工場内では誰もが暗い目を宿していた。希望を捨て去り、ただ今を生きるための目だと歩は思った。

 生糸は蚕の繭を湯でほどき、それを一本の糸に仕上げていく。早朝から夜遅くまで、蒸し暑い作業場で汗だらけになる。湯につけていた手は数日でふやけ、アカギレができた。手を休めると監督する者が飛んできて、頭を叩かれた。

 夜中まで続いた作業が終わると、別の建物に連れていかれ、そこで眠りについた。大部屋の入り口は格子戸になっており、いつも外から南京錠がかけられていた。

 蚤の跳ね回る寝床、髪に着いた虱。女達に反抗する力などなかった。さちも同様であった。今日を生きたら、明日も生きよう。無心に生糸を作り続けるしかなかった。いつか終わる日を目指して。

 ちょうど世間では、露西亜との戦争でますます生糸の需要が高まり、いつもよりも長く働く時間が増えていた。

 キカヤに来て半年が過ぎた頃、さちのいる寄宿舎で一人の女が苦しみだした。何度も腹下りと嘔吐を繰り返した。体の皮が削ぎ落ちて、骸骨のようにやせ衰えていた。落ち込んだ目、顔は老人みたくシワだらけだった。

 工場にいる医者が女を診察する。

「コロリだな」

 医師の診断に工場の関係者は顔を曇らせた。

 女は棟から運ばれて、二度と戻ってくることはなかった。彼女がどうなったのか。日々の多忙にもまれる女工達に、その理由を考える余裕も意味もなかった。さちも同様であった。

「きっと、お暇を出されて家に帰されたんだ」

「ならええなあ。うちもコロリにかかりたいよ」

 周りの子は能天気にそうささやき合った。

 女が消えて数日後、便所掃除をしていたさちは、外で監督同士が何やら話し合っているのを耳に挟んだ。

「決行は今夜らしい」

「もったいねえな。せっかくかき集めた女工をみすみす……」

「やむを得ん。別の棟までコロリが広がれば、工場が成り立たなくなる」

「だが、さすがにまずくないか」

「社長の指示は絶対だ。警察には火の不始末が原因で通すらしい。そのためにたんまりもらったんだ。今更後には引けん。それにだ、親に捨てられて、身寄りのない女工なぞどうなろうが、誰も気にはせんさ」

 話の意味は理解できなかったが、今夜、何かがあるらしい。さちは深く考えなかったものの、心の隅では何だか胸騒ぎを感じていた。歩も同様だったが、傍観者の彼に介入できる術はなかった。

 その晩、なかなか寝付けず、さちは布団から抜け出した。

 何か臭う。焦げ臭さに鼻をつまんだ。

「火だ。みんな、起きろ! 火だ。逃げろ! 火だ!」

 あらん限りの力で叫んだおかげで、眠っていた女たちは目を覚ました。建物の中を漂う煙。パチパチと小枝を折るような音。鉄格子のはまった窓から映る外には、数人の男達がいた。その中には、監督や工場長の姿もあった。

 女達は入り口に殺到したが、格子の扉には南京錠がかかったままだった。外にいる中で、誰一人として助けに来る様子はなく、遠くから眺めているだけだった。「ここを開けて!」と連呼される絶叫。室内は黒い煙で充満する。天井が急に崩れ落ち、赤い炎が広がっていた。窓から逃げようにも格子は外れない。

 やがて、一人また一人と倒れていく。サチも煙で何度もせき込んだ。炎の熱が肌を焼いて、黒煙が呼吸器を詰まらせる。

「死にたくねえ……」

 さちは毛布を被りながら、入口の格子扉に突っ込んだ。火に包まれていた格子は幸いにももろく崩れた。

 彼女の足は便所に向かった。個室に入ると、狭い便器の中に落ちた。鼻が曲がりそうな臭気など我慢できた。煙が上から入って来るのを必死に塞ぎながら、ひたすら待ち続けた。足元の排泄物、這う虫、そして、暗闇。

 やがて、断末魔が辺りで響く中、今まで嗅いだことのない、まるで砂をそのまま火であぶったような臭いがした。人の焼ける臭いだとあとで知った。

 辺りが静かになると、さちは便器から上がり出た。辺り一面が瓦礫の山と化していた。半年間、寝床だった大部屋は跡形もなく、木炭/になった柱や梁の間から、人の形をした黒い物体が頭をのぞかせる。

 人の死体だ。何十も重なりながら、死屍累々の女工の亡骸に手を合わせるさち。仲が良く話もした友達もいた。

 みんな死んでしまったのだ。

 ふらつく足で辺りを歩いていると、背後から怒声が飛んだ。

「いたぞ! ガキが一人生きてやがった」

 鬼の形相に変わる男。さちは思わず逃げ出した。他の工場の大人達が出てきる。一人は猟銃を持っていた。

 殺される。このままでは八つ裂きにされてしまう。

 さちはひたすら森の中を走った。後ろから怒声が追いかけてくる。

 息が切れかけた時、足元の地面が消えた。

 宙に浮いたかと思った。そして、世界が目まぐるしく回転した。体のあちこちを打ちった。落下が止まった時、自分の首の骨が折れる音を聞いた。

 朦朧とする意識の中。両親の面影が浮かんだ。恨んだことは一度もない。また、五日、会いたいと強く願った。

 足音が近づいてくる。さちに逃げることなどできなかった。ただ、その足の歩みはゆっくりとしたものだった。

 やがて、その主が彼女の前で止まった。白い着物を着た男の子。青白い顔をしているが、その目は寂しげにさちを眺める。その指先が彼女の首筋に触れた。

「お前はもうじき死ぬ」

 少年の声が静かなのに鼓膜まで鮮明に届いた。

 側にいる歩は少年の顔に見覚えがあった。

 一方、さちは声にもならない呻きを漏らした。親の元に連れて行ってほしい。そう訴えていた。

 小さな手が彼女の頬に触れる。少年は目から涙を流していた。すごく温かく、心地いい。今から死ぬかもしれないのに恐怖が薄らいでいくようだった。こんな幸せな気分を両親にも味わわせてあげたかった。さちの思念がか細い。

「私は、お前の命を生かすことができる。ただし、お前は人ではなくなる。物の怪として時のはざまをさまよう。人間よりも長い時間を一人ぼっちで歩き続けなくてはいけない。それでも生きたいならば、瞬きを三回しなさい」

 その声は静かに響いた。生まれ故郷の風と田畑の香りがよみがえる。きっと、あの二人と会えるんだ。また、あの頃のように。

 わずかに残っていたさちの意識が目に力を送った。

 そして、瞬きを三回繰り返させた。


          5


 歩は目を開けた。時計はさっきから一分も経っていなかった。なのに、きっと、数年後の同じ時間だと思いたくなるほどであった。

「わしは座敷わらしとなった。明治、大正、昭和、平成、令和。まるで永遠と続く夕焼けの中をいる気分だった。お前のように、家から家を渡り歩いた末、お前の父親、渉の家に腰を落ち着かせた。歩、お前と引き継ぐまでな」

「お父さんとお母さんには会えたの?」

 幸子――さちは目をつぶりながら首を振った。

「村ごと打ち捨てられていた。思い出はなに一つ消えていた。お前に謝らないといけないことがある。両親の死に目に合わせてやれなんだ。本当にすまない」

 彼女は何度もせき込んだ。掌に涙がこぼれ落ちる。

「さちさんが面倒を見てくれたんでしょ。きっと幸せだったと思う」

「人に戻って人生をやり直せたんだ。当然の義務だ。お前には苦労をさせてしまった。あの頃、わしは人間に戻りたったのだ。昔のように元気に遊び、おとうやおかあのように子供を産み育てて、そして、静かに生きて死んでいきたかった。そのために、わしはお前に引継ぎをさせた」

「引継ぎ?」

「もともとは人であった座敷わらしが、再び人間に戻れる方法だ。座敷わらしになれるのは、死期の近づいた子供だけだ。そして、わしらはその子に姿を始めて見せて、自分の命を明け渡す。そして、元に戻るのだよ」

「僕の死と入れ替わりに人間に戻った?」

「恨んでくれても構わん。わしは元々、幸薄だったようじゃ。幸子ならぬ、幸薄子じゃ」

 乾いた笑いをこぼすさち。歩は憎しみなど涌かなかった。彼女が悪いわけじゃない。自分の運が悪かったわけではない。たまたま、何かのめぐりあわせで、サチは人間に戻り、自分が座敷わらしになったのだ。

「歩、お前は人間に戻りたいか?」

「昔は何度も思った。今は……どうなんだろう」

「いつの日か、お前も人間に戻るといい。わしや前任者は皆そうしてきた。良いも悪いもない。誰が決めたわけでもない。朝日が東から出て、夕日となって西に沈むのと同じ。すべてが成るように出来ているのだよ」

 さちは目をつぶった。呼吸が小さくなっていく。

 歩は涙を止められなかった。さちは自分の運命を変えてしまったけれど、常に正しく教えてくれた。いつも厳しく、優しくもあった。

 そんな彼女に対して、自分は何もしてやれなかった気がする。

「馬鹿者、泣くでない。なあ、歩、そろそろ答えを聞かせてくれんか?」

「さちさんに会うまで答えが出てなかった。でも、今は言うことができる。僕は、誰かを救いたい。世界が暗くても、いや、暗いからこそ、心を救わないとダメなんだ。みんな、諦めているだけなんだ。暗い道にたたずんで動くことができないだけ。ボクに光を照らす力はない。でも、手を繋いで一緒に歩くことはできる。明るい場所を目指して。それが座敷わらしの仕事なんだ」

「即興に出た答えにしては悪くないのお」

「僕はあなたを助けたい。恩返しをさせて」

「馬鹿を言うでない。わしは今とても幸せじゃ。人として生き、精霊として歩き続け、お前と出会い、お前の誕生と成長に寄り添い、そして、また人として生きてきた。長過ぎた人生も今この時のためにあるのなら、後悔はない」

 骨ばった手が毛布の上に置かれた。歩の指が重なる。

「なるほど、生きるのは確かに辛いな。だがね、すべての苦難から逃れて生きることはできん。幸福も不幸も同じだ」

「はい」

「そこに気づかなければ、苦しく辛いものだ。お前はそんな人のそばにいろ。この世界は決して、不幸だけではないと教えてあげなさい」

「はい」

「偉い子だ。歩、その名前の通り、歩みなさい。歩いて、歩いて、でも、少し立ち止まって、休むんだよ。それで、また、歩いて、歩いて、いつかは人に戻れ」

 声はそれっきり聞こえなくなった。歩は目を開けたくなかった。

 庭先の足音を耳にして、やっと開ける覚悟ができた。

 安らかな寝顔を浮かべるように、さちは永い眠りについていた。

 三善が枕元に正座しながら大きく一礼し、黒いカバンを開けた。やがて、彼女の胸元から小さな輝きが抜けて出て、ゆらめきながらカバンの中に入っていった。

「彼女の魂は美しい。最期まで正しく生きた証拠だ。魂は嘘をつかない」

「さちさんは天国に行けるよね?」

「残念ながら教えられない。私の口が裂けてしまう。大事なのは、死者を悼み、生きる者がその意志を次代へ受け継ぐことだ」

 無表情の中に光る瞳。三善の横顔に、見覚えのある少年のそれと重なる。

「君の推察通りだ。私は百数十年前、瀕死の彼女に座敷わらしになるよう勧めた。今でこそ魂の送り人をしているが、前身は君達と同じだよ」

「あなたはいつから?」

「記憶にない。ただ、座敷わらしの役目を終えてから、死神を選んだことに後悔はない。私の性に合っている。ただ、昔からの友人を失くしたのはさすがに堪える」

「さようならを言えなかった」

「別れの言葉に意味はない。死者は、決して消えてなくなるというわけではない。今もすぐ隣にいるような気がするだろ。今も君の中で生き続けているからだ。彼女に関わってきたすべての人の中で、ずっと」

 死に神はカバンを持って、縁側に降りた。

「長い経験上、これから人が多く死ぬ時代が始まるだろう。人は過ちを繰り返す。君らの仕事は減るやもしれん、いや、増えるか。失敬するよ」

 静かになった座敷の片隅で、空からのぞく朝日を垣間見た。

 歩は立ち上がった。

「行ってきます」

 陽光に照らされたさちの顔は、初めて会った時に見せた笑顔に似ていた。

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