さち ①
1
「俺、今度、志願しようと思うんだ」
「志願って、亜紀雄。お前、まさか、青少年奉国隊に志願するつもりかい?」
「ダメだ。そんなの、許さんぞ」
何の気なしに立ち寄った高層マンション。開けっ放しのエントランスを抜け、動かなくなって久しいエレベーター横の階段を上がり、廊下を歩いた先に足が止まった部屋。そこに住む一家の息子は、親孝行かもしれない。けれど、親からすればそうではない。
座敷わらしとしての自分の立ち位置に、歩は目の前の家族にどうしてやるべきか悩んだ。
今年に十八歳で成人となった長男の亜紀雄は、家計を助けるためとはいえ、軍に志願しようとしている。
青少年奉国隊とは、一年前に国で創設された機関である。
世界情勢が戦争色に染まりつつある中、この国もとうとう、周辺国のきな臭さに答えるように軍備増強がされるようになった。金科玉条だった平和憲法を数年で改正すると、憲法を自衛隊の不足を補うために、奉国隊という民間志願兵からなる組織をつくった。成人の十八歳から志願できるという。
入隊すると、その家族には報奨金が毎月支給される。しかし、風の噂によると、環境は劣悪でいじめや暴力的な指導があるという。戦争が始まれば必ず戦地に送りこまれるという噂も手伝って、『亡国隊』と揶揄する人も少なくなかった。
この国も物騒になって来たな。
歩は、亜紀雄の心象風景を覗いてみた。暗闇の部屋の片隅で、一人で体育座りをする少年が「怖い」と何度もつぶやいている。自分の周りでも志願していくやつもちらほらいた。噂で聞く入隊の怖さと、親孝行に揺れる亜紀雄。こうなったら、恐怖の感情を増幅させようか。
歩は大きな影の怪物に扮して、亜紀雄の心の中で恐怖を見せた。奉国隊に入るとどんな目に遭うかは、彼にも分からないので適当な不安を味わわせるしかなかった。彼の表情にあった自信が少しずつ弱っていく。
「俺は決めたんだ。俺は、俺はとても怖いんだ!」
床に手をついて泣き始めた。
「家が貧乏だから、少しでも親父たちに楽をさせてやりたいって思ったんだ、でも、とても怖くて」
「バカな子だよ、あんたは」
「無理するな。だいたい、周りを観てみろ。今はどこの家も貧乏なんだ。この国が貧乏になっちまってんだ。気にすることはない」
結束した家族に、歩は一息ついてその家を後にした。以前のようにお金を降らせば、もっと簡単に終わっていただろう。しかし、今のご時世のせいか、金運につながる球がどこを探しても落ちていない。
昔話みたいに座敷わらしが家の床から小判を掘り出してくれるとか、そんな奇跡など起こせないのが現実だった。
歩はある公園に着いて、ブランコに腰かけた。今日は日曜日の昼下がりだというのに、広い園内には誰もいない。行く先々の家の子供も外では遊ばずに、戦争ゲームをしている。国から無料で支給されたゲームで、頭に被り物を装着すると、目の前が戦闘機のコクピットになり、または、銃を持った一人称の視界に早変わりする。そう言えば人間だった頃に流行っていたかな。リアルな作り物で、子供は戦争を娯楽にしている。
公園の真ん中にある壁面に、歩は懐かしさを覚えて手に触れた。
静かな海辺にたたずむ犬、そして、子供達が描かれている。純の絵だ。そして、壁画の真ん中に貼られた無粋なポスターを引きはがした。
『未来をつくるのはキミたちだ。さあ、立ち向かえ!』
歩は入隊募集のポスターをゴミ箱に入れた。
未来のために、未来を生きる者の命を粗末にする。本末転倒もいいところだ。
半世紀前、三重子の遺産を亡き父である真一郎から受け継いだ純は、海外の著名な医師の下で目の手術を受けた。数年後、アメリカで一人の画家として注目された。純の絵は海外で高い評価を受けるようになった。名前を平純に変え、「HEY,JUN」と呼ばれていると、エアメールがたんぽぽ荘の大家さんのポストに入っていた。歩がそれを知ったのは、大家さんが亡くなってからのことだった。
日本の半分を周ってきた歩が、半世紀ぶりにたんぽぽ荘に帰ると、建物を取り壊す数日前になっていた。大家さんの息子は、国から補助金がもらえるという理由で、兵器庫として土地を売却するというのだ。それまで暮らしていた住人は退去を余儀なくされた。
トキヒトの姿もなかった。もう、このアパートの命数を使い果たしたようだ。長年続いた老舗だって、ある日突然、当たり前のように閉店する。人の命も呆気ない。長い歴史は未来永劫の不変を保証するわけではない。
取り壊されるたんぽぽ荘に背を向けて、歩はかすかに残る懐かしい匂いの靄をたどり始めた。
今日は彼女との約束の日だった。
2
たんぽぽ荘から漂う懐かしい匂いを追っていると、歩は足を止めた。
匂いの元はあっさりと目の前に現れた。
一人の老女がゴミ袋を集積所に入れている。周りの烏を蹴散らして、ゴミ袋を放り込む。すると、数人の学生がスケボーに乗って、けたたましいタイヤの音を響かせて、老婆を取り囲んだ。顔には、強盗がかぶるような覆面をしている。
「おばあちゃん、お金持ってないかな。オレたち、金がないんだよね」
一人は金属バットを持っている。しかし、老婆は全く物怖じしない。
「金が欲しいなら働けばいい。学校で勉強すれば分かるだろう」
「なんだと! お前ら年寄りが多いから、若い俺らが損ばかりすんだろうが」
振り下ろされるバットを歩が掴んだ。そして、バットを奪い取ると、彼らの尻を思いっきり叩いていく。
「何だよ、一体なんだよ!」
驚くばかりの学生たちは慌てて逃げていった。
座敷わらしであっても、物理的なことをすれば人間よりも負荷がかかってしまう。重労働をした後のように、歩はその場に座り込んで荒い呼吸を整えた。
「相変わらず騒がしい奴だな」
「幸子さん、お久しぶりです」
「御無沙汰だな、ノタバリコ」
やっぱり、人違いではなかったようだ。腰も曲がり、カートを押している老婆は、昔の幸子と変わらない。
「無理をしたな。少し休んでいけ」
「あなたに会いに来ました。今日は約束の日ですよ」
「そうだったな。答え合わせじゃ。忘れていたよ。すっかり、年が言葉遣いに追いついてしまった」
幸子に案内された家は小さく、高層の団地に囲まれてひっそりとたたずんでいた。
「日はあまり当たらんが、贅沢も言えん。今の世の中、屋根のある場所に住めるだけでも贅沢だからな。正の計らいじゃ」
マイホームがすっかり死語になり、今では人口の九割以上がマンション、アパート、団地暮らしだった。住人のいなくなった家屋、果てにはオートロック付のマンションも入居者が減り、管理がされなくなると、移民や貧困層が不法に住むようになった。
幸子の家は。今では大変珍しい木造建築だった。昼間でも薄暗いが、外の喧騒が聞こえない。奥の座敷は三重子の家を思い出させる。縁側には、小さな庭が広がり、椿の花が咲いている。小さな池の近くには松の木が一本、緩やかにしなりながら家に葉を落とし、そばの岩肌には、ガマガエルが一匹、日光浴をする。
歩は、仏壇の真横で正座する男にぎょっとした。のっぺりとした白い顔は常に落ち着いて、眉一つ動かさない。白髪のオールバッグに手元には黒いカバンを置いている。死に神を生業とする三善だった。
「昨日からここにおる。最近、体に痛みがひどいから、もしやと思ったよ」
「そんな。冗談は止めてよ」
「命をもって生まれたからには、いつか死ななければならぬ。三重子や真一郎、メリー、お前がそうであったように。例外などない」
縁側に座ると、彼女は一息ついた。
「世の中は大きく変わった。流れが、少しずつ、悪い方向に反れておる」
「どこの家でもそうだった。いくら幸せにしても、どれも失敗に終わった。人の心を変えられても、現実が変わらないからだ。大人は誰もが失業している。若い人や子供は学校にも行けない」
未曽有の大恐慌から半世紀経っても、人の暮らしは衰退し続けた。歩が人間だった頃に、テレビで流れていたほとんどの会社は合併したり、倒産したりした。スーパー、ショッピングモール、商店街もショッピングモールも廃墟と化し、人は外に出て買い物や遊びに行くことができないほど、巷の治安は悪化していた。財政破綻による過疎化で、図書館といった公共施設も封鎖された市町村も少なくない。
「さっきの連中も似たようなものじゃ。学校には行っておらん愚連隊。学校なんてものはなくなったせいさ。今では金持ちしか学校には行けん。ほとんどは、政府から定期的に発行される、粗末な紙に誤植だらけの教科書や参考書が配られるだけで、自分で勉強しないとできない。だからと言って大人になっても、満足できる仕事もない。国が保護をしてくれる時代は終わった。金のほとんどが国防費に回っているらしい」
「僕らは、少しでも幸せな人を増やそうとした。でも、皆はすぐに忘れてしまう」
幸子は静かに頷いた。
「誰もが、幸せの在り方を見出せなくなっておる。お前はどう思う? この世の中はどうあればいいと思う?」
「昔のように戻ってほしい。子供が普通に学校に通えて、大人は普通に働けて。あの頃に戻れたらどれだけいいかなって。でも、それは難しいかも」
「なぜじゃ?」
「世界が戦争に向かっている気がする。僕や他の座敷わらしが、いくら何かをしてもすぐに戻ってしまう。川の流れに逆行しても押し流されてしまう」
濁流をダムでせき止めても、あっという間に溢れてしまい決壊する。
「わしの頃もそうだったな」
外はいつの間にか、夜に変わっていた。高層団地の隙間から満月がのぞく。
「私は、しばらく散歩に行くとしよう」
死に神が静かに立ち上がる。「すまぬな」と幸子がお礼を言った。
二人のいる和室は静かだった。布団に眠る幸子は天井を見上げているばかりであった。
「あの人は少し無理をし過ぎた」
幸子は壁にかかる遺影に呼び掛けるように言った。彼女の夫だった教師だ。
「最後に残った学校に最後まで在籍していた。あの人はずっと言っていた。人間の武器は学びだ。失敗からの学びだ。失敗を学んでこそ進化できる。武器を捨ててしまったら、同じ間違いを繰り返す。最後の卒業生にそう言った。君達は己を育め。その成果を他人に対して還元せよ、とな。同僚の教師は、金持ち御用達の学校へ移った。あの人は無理がたたって過労で倒れた。最後は、私や息子の手を握ってほほ笑んでくれた」
「息子さんはどうしたの?」
「正は、国に関わる仕事に就いた。愛国政策ナントカ推進省の役人をしている」
「僕は、幸子さんに何をしてあげられる。今なら、何でもできるよ」
「ここにいてくれるだけでよい。年寄りの話し相手なら容易いだろ」
幸子は体を起こして、そばにある戸棚を指さした。歩がそこを開けると、セピア色の紙包みがあり、中には古い鈴が入っていた。千切れたヒモがつながっている。持って揺らしてみると、古そうだが鈍い音が響いた。
「最初の人間だった頃から、ずっとこいつを持っていた」
「親の形見?」
「そんないいものじゃない。これは首輪の鈴じゃ。金で買った牛を逃がさんための。わしが座敷わらしになる前の昔、親に売られた。キカヤで働く女工としてな」
「キカヤ?」
「生糸を作る工場じゃ。明治時代は分かるな。江戸時代の後。黒船が来航して、維新が起こって新しい国が始まった。あの頃の日本は、富国強兵といって、急いで国力を強めていった。その中で、外国に輸出できたのが生糸だった。生糸は儲かったらしい。国営のキカヤに続くように、全国でたくさん建造された。そして、貧しい家の女が女工として雇われた。わしの場合は売り飛ばされた」
「キカヤって、どんな所だったの?」
「今でいうところのブラック企業というべきか。人の欲を国の発展のためと称して、一日中働かされた。土日の休みなんてない。給料だって雀の涙だった」
幸子がやせ細った手を差し出した。
「説明だけではつまらんだろ。映画を見せてやろう。頭を触りな」
彼女の指先に触れた途端、背景が上から剥がれ落ちるように変わった。




