メリー ⑤
8
「おい、目ェ覚ませ、ノタバリコ」
遠くから小三太の声が響いた。答えるには口が重過ぎる。視界の端に累が映る。片目を失った娘、おるいと顔が重なった。
「私の先祖を鬼にしたのはお前達だ。私の目には、先祖から受け継がれた怨嗟が、らせん状の遺伝子となって絡みついている。限られた幸せを捨て、万人が泥の中でもがく。その手は自然と互いを結んで連帯が生まれる。万人不幸の世界こそ、人のあるべき境地」
「違う。僕は、僕らは、たとえ、不器用でも、人を助けようとしてきた」
「戯言は結構」
累の手には塩が一山盛られておる。昔、座敷わらしだった頃の幸子に振りかけたのを思い出す。きっと、累の手から落ちるそれは、ただの塩ではない。きっと、こちらの体を溶かしてしまうだろう。
「妖怪の時代は終わりだ」
その時、鉄の扉が開いた。ノソリと動いた何かが、唸り声を上げながら走りこんできた。歩の目にはその正体が分かった。
「メリー……?」
口の端から血を滴らせながら、低い唸りを漏らす老犬のメリー。そして、全速力で駆け寄ると、累に飛びかかった。絶叫を上がった。メリーが累の手に食らいついたのだ。
「このケダモノめ!」
もう一方の手で殴りつける累だが、バランスを崩してそのまま床に倒れた。体にまとわりつく重みが消えた。
歩はすかさず感情を開放させた。倉庫全体が揺れて、照明器具や配管が次々と落下する。その一本が累の足に落ちて、苦悶の声を上げさせた。
「メリー!」
累の手を噛んだまま動かない犬を助け起こした。
「どうして、僕のいる場所が分かったの? 何で、こんな危ないことを」
頭をゆっくりと上げて、口から舌を出して笑っているように見えた。熱い体温を通して、あの時の公園の風景が甦った。アイスクリームの甘い匂いが鼻腔をかすめた。
「あんなの、昔の話じゃないか」
満足したようにだらりと力が抜けていくメリーを支えた。背中の幼子を落としそうになり、小三太が代わりに持ってくれた。
ケラケラ笑い続ける累に冷めた瞳を向ける。
「私を殺すか、座敷わらし」
「殺さない。僕らの力は、人を傷つけるものじゃない」
「犬でさえ、私を噛んだのに」
「この子のおかげで僕らは助かった。それで十分だ。もう、僕らに関わるな」
歩の前を、小三太が仁王立ちした。だが、顔に怒りはない。
「昔のオレなら、てめえを八つ裂きにしただろうぜ。だが、オレもあいつに賛成だ。てめえなんか、殺す価値もない。疫病神ごっこでも何でもしやがれ」
小三太と珠代、そして、彼におんぶされる幼子も歩の後に続いた。
「私は諦めない。どれだけ時間がかかろうと、必ずや、この世を不幸で満たしてやる。誰もが汚泥に沈みながら、一人残らず笑いながら死んでいく!」
怨念を振り払うようにして、精霊の少年少女らは倉庫を後にした。
9
たんぽぽ荘にある大家さんの部屋で、メリーは布団の中で横になりながら、うつろな目を薄く開いている。小さな呼吸が今にも止まりそうになり、苦しげに咳を繰り返す。その度に血反吐が飛んだ。
「もう、いいんだよ、メリー。もう、頑張らんでも」
大家さんが涙ぐみながら、メリーの口元からあふれる血を拭いてやる。
部屋のドアが開いて、純が入って来る。
「間に合ってよかったよ、さあ、一緒にいてやんな」
純の手探りの指がメリーの顔に触れた。すると、メリーの舌が顔をもたげてその手のひらをなめた。大家さんの隣には幸子もいた。
「こいつはおれらを助けてくれたんだよな」
小三太が光る手で痩せたわき腹をさすってやる。珠代も同じようにしてくれた。
「ありがとう」
「この子と、目の見えない人。何かとてもきれいな線でつながれているようです。優しそうなおばあちゃんやおじさんがいる。歩様が導いたのですね」
「僕じゃない。この子の意志だ」
三重子はもういない。そして、今日、幸子から真一郎のことを聞いた。彼もまた、この世からいなくなった。悪い風邪にかかって、そのまま体調を崩して獄死したのだ。最後まで、被害者の人にお詫びをするために模範囚であり続けたという。
「僕は、何をしてあげられたんだろう。純やメリー、あの人達に。ただ、短い時間にささやかなものを与えただけなんだ」
「それでいいんだ。人の幸せなんざ、結局のところ誰にも分からねえ。本人だけのものだ。おれ達でさえ蚊帳の外なんだ」
その時、三人の後ろで眠っていた幼子が目を覚ました。小さな手を伸ばし、メリーの首から額に触れた。
「え?」
目の前の風景が一瞬で変わった。
そこは、どこかの砂浜だった。前方には左右に海が広がっている。底の砂まで透き通っていた。波が泡を立たせて静かな音を当てている。
「この子が見せているの?」
「チョウピラコの力だ。犬の思い出を見せている。ノタバリコ、俺らも手伝うぞ」
言われた通りに、チョウピラコの隣に自分の手を添えた。神経を集中させると、頭の奥で、二人の面影を思い浮かべた。まるでさっき別れたばかりであるかのように容易く思い出せた。三重子と、そして、真一郎だ。
二人が砂浜を歩いているのを見つけて、メリーは目を輝かせて駆け寄った。二人の手をなめる。三重子はやさしく頭をなでて、真一郎は手に持ったアイスを食べさせる。
一枚の絵のように固まる。その時が永遠になる頃、メリーの目が閉じた。呼吸が止まり、心臓の鼓動が少しずつ緩やかになり、やがて、その動きを止めた。
純はメリーの亡骸にすがり、静かに泣いた。
座敷わらし達は部屋の外にいた。
「泣くな、ノタバリコ。おれらが泣いてどうする」
そう言う小三太も、目元が赤く腫れていた。その頭を珠代がなでた。
「あの目の見えない人も、いつか、会える日が来るのでしょうね」
「ありがとう、みんな」
二人はまた別々の道を歩き始めた。今度は捕まらないように気をつけて。歩は心に念じると、彼らの言霊が響いた。余計なお世話だ。おめえこそ精進しろよ。いつか、またどこかでお会いしましょう、歩様。
「君はどうするの?」
幼子はアパートの階段に座った。
「そうか。じゃあ、今度は僕が出ていくよ。あとは任せる。ところで、君の名前はなんていうの?」
「と、き、ひ、と」
幼子は舌足らずな声でそう答えた。
「トキヒトか。僕は歩」
トキヒトは指を差した。その方向から、一人の男がやって来た。大家さんの部屋に入っていくようだ。歩は気になり、部屋の中に戻った。
「広山純さんですね。私は、こういう者です」
男の人は純に差し出した名刺には、点字が印刷されていた。法律事務所の弁護士のようだ。この人は純が盲目なのを知っている。
「弁護士さんですか?」
「私は、一年間、あなたを探していました。ここにお住いと分かったのは、昨日のことです。少し遅すぎました。谷原三重子さんという方はご存知ですか?」
「いいえ」
「では、岡島真一郎さんという方は?」
純の顔に驚きの表情が見せた。その名前を知っているが、今頃になって聞くはずもなかったのだろう。歩自身もこの場で真一郎の名が出るとは思わなかった。
「僕の……父でした」
弁護士は一息をついた。
「やはり、そうでしたか。あなたのお父さん、真一郎さんが先日、お亡くなりになりました。死因は結核です」
純は父の死に表情を変えなかった。
「父は、母と僕を捨てた人です。事業に失敗して、莫大な負債を抱えて、借金取りから逃げるという理由で、僕らの前から姿を消しました。しかし、今さら父を恨んでも仕方ありません。そんな時期は終わったんです。でも、僕らが辛い暮らしをしてきたのも事実だ。今さら父への涙は出ません」
純の心象風景を思い出した。母の死、母親が亡くなっているのに気づかず、その帰りを待ちながら絵を描き続けていた。純は両親を待つことをあきらめている。もう、怒りや憎しみも忘れているのだ。
「真一郎さん、厳密に言えば、彼と懇意にしていた三重子さんが遺産を遺されました」
三重子は真一郎に残していた遺産は、彼の死によって、その息子である純に相続されるというのだ。
「今さら、お金なんて」
「真一郎さんの遺言があります。今まですまなかった、純。彼に目をかけていた刑務官がそう聞いたのです。血を吐きながら、何度も」
弁護士は彼の部屋にある絵を眺めた。
「素晴らしい才能をお持ちだ。私は不器用ですから、落書きもできません」
「どれも、デッサンだけです」
「色をお塗りになればいい。勇気がいると思いますが。お父さんを赦すことができれば、それも難しくないでしょうね。出過ぎたことを言いました」
純は、モノクロの海に顔を向けた。ざらざらとしたが用紙の表面を指でなぞった。そこには、ちょうどメリーがいた。
「あの子と約束しました。いつか、青い海を描けるようになるって」
窓から差し込む陽光を浴びる純の笑顔と、明るい未来と重なる気がして、歩はたんぽぽ荘の外へ出た。ちょうど、幸子が正を抱いて出てきた。傍らにはトキヒトもいる。
「行くのだな」
「うん。今度は長い別れになる」
「この方がいるなら、しばらく安泰だ。お前は安心して幸せの采配を続けろ」
「幸子さん。僕らのしていることは本当に正しいのかな?」
「何を今さら」
「僕は誰かを幸せにする一方で、別の誰かから何か大切なものを奪っているんでしょ。目の前の人を助けても、誰かが傷つく羽目になる」
「累に出会うたな」
「知っているの?」
「あの女は何代にもわたって生まれ変わっている。座敷わらしを狩ることに憑りつかれている。不幸になる教えを広めながら。あれはもはや、人ではない。人の姿を借りた化け物だ」
皆が不幸になれば、不幸はなくなる。今さら、歩はその教義を理解した。全員が苦しめば、幸せになる人はいないが、一人が背負うことはなくなる。
「ノタバリコ、お前に宿題を出してやる。提出期限は五十年後の今日、わしの家を訪ねて来い。その時にお前の答えを聞かせてもらうぞ」
「五十年後だって!」
「あっという間じゃ。それまでに自分の務めを分かれ。今みたいにびぃびぃ言ったら承知せんぞ」
トキヒトが歩み寄り、歩の手に何かを渡した。幼子の手のひらに入るそれは、ひもで結ばれた紫色の袋。
「僕にくれるの?」
こくん。トキヒトは頷いた。中を開けようとすると、駄目だと首を振る。大事な時が来るまで開けるな。声が聞こえた気がした。
「さあ、早う行け、ノタバリコ! お前を待つ誰かの元へ。自分を信じろ」
「はい」
歩は、幸子とトキヒトに手を振って返すと、ゆっくりとした足取りで、朝もやのの立ち込める中に姿を消した。




