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メリー ③

 

          5


 舞台袖から白装束の女がゆっくりと歩み出た。

 スポットライトが影のように付き添いながら、女の異相を照らした。長身の細身に黒い長髪。ノミでそぎ落としたように痩せた頬。血を塗ったみたいに赤い唇は薄く、小さな舌で何度も舐めている。

 恐ろしいのは女の片目だった。獰猛な獣を持わせる瞳は突き出て、黒目は異様に小さいのに、突き刺すような光を放ちながら観客達を見渡している。対して、左目は黒い眼帯で覆われていた。

 茂の言っていた累に違いない。

 歩は嫌な予感を覚えてホールの外に出ようとしたが、外に出られる扉に触れた。通ることができない。足が動かないのだ。よく見ると、扉にはお札が貼ってあった。

「これのせいだ」

 歩は護符を剥がそうとしたが、静電気に触れたように指先が弾かれた。何度もするが、とうとうあきらめるしかなかった。

 女が静かに一礼すると、割れんばかりの拍手がホールに溢れた。椅子から立ち上がり、涙を流す者さえいた。壇上の女だけが静かに喝采を受ける。

 静かになると、女は口を開いた。

「皆様にお尋ねいたします――あなた方は不幸ですか?」

 女の問いかけに、観客の合唱が「はい!」と答えた。

「では、あなた方は幸せですか?」

「はい!」

「不幸でありながら幸せでいる。それはなぜでしょうか? Kの二十三番の席にいる方、理由をお答え下さい」

 小太りの年女性がマイクを渡される。緊張した声が累の問いに答えた。

「みんなが不幸だからです、累様。みんなが不幸であるならば、幸せでございます」

「その通りです。では、皆様が不幸であれば、皆様が幸せでいられるのはなぜですか? 次は、Bの十九番の席の方、お答え下さい」

 指名された茂が立ち上がった。早苗が「頑張って、あなた」と声をかける。

「幸せな人が一人いれば、そこに必ず不幸な人が生まれるからです。そこに格差が生まれる。富や幸福には限りがあるので、全員は共有できません。人間は自分勝手な生き物ですので、幸せになろうとする人はもっと幸せになり、不幸な人はもっと不幸になります。ですので、全員が富を捨てて不幸であれば、格差や差別は生まれません」

 長い説明を一気に言い切り、茂は椅子に座り、顔中についた汗を拭いた。

「よく勉強なされましたね。その通りですわ。この世界は、富む者と貧する者でできております。限られたパイを巡り、争奪が繰り広げられた結果、富む者はそうでない者から搾取してきました。そのサイクルにより、少数の支配者が多数の奴隷を従えてきたのが歴史です。中には、どれの反乱によりほろんだ文明もあるでしょう。しかし、少なくともこの国の社会では起こり得ない現象です。非常に残念ではありますが、その通りの現状なのです。何故、格差は否定されないのでしょうか?」

 累は一呼吸置いた。

「イソップ寓話に『ウサギとカエル』という話があります。ある日、ウサギ達は池に飛び込んで死のうと考えます。彼らは毎日、猟師や狐と言った天敵に怯えなくてはいけない暮らしが嫌になったのです。池に着いた彼らが飛び込もうとした時、池のカエル達がウサギの姿に驚いて逃げて行きました。それを見て、ウサギのリーダーは自殺を止めようと言い出したのです。彼の言葉に全員が納得し、巣穴へと帰っていきました。リーダーのウサギはこう言ったのです。『私達よりもずっとビクビクして、より弱い奴らがいる。だから、私達が死ぬことなどない』と」

 観客達は取りつかれたように、累の話に耳を傾けていた。それよりも深刻なことが起きていた。歩の目には、彼らから薄く小さな靄が抜け出ているのが見える。靄は床を這い、舞台の上の累に流入していく。少しずつではあるが、命が吸われていっていた。茂の死んだ魚の目はこのせいだったのだ。

「この話の教訓は、人は自分よりも不幸な他人がいることで安心する、ということです。現実に照らし合わせると、いじめや差別の構造と同じです。文科省の調査によると、いじめをする児童の多くが、貧しい家庭、家族の中から疎外、虐待されていることが分かっています。彼らは自分達の境遇から目を背けるために、自分よりも劣る者を見出していじめるのです。なぜ、差別が起こるのでしょうか?」

 累は舞台からゆっくりと降りてきた。

「人は利己的な生き物なのです。自分が他人より優位に立つことが至上命題でありながら、大抵がその本質が分からないのです。大企業の社長になり、高級外車を何台も持ち、豪邸に住む人は、しかし、自分の幸せを自覚できない時、どうするでしょうか?」

 観客は固唾を飲んで累を見つめている。生まれたばかりの我が子が、新しい仕草を覚えるのを期待する母親みたいに、教祖の一挙手一投足をつぶさに観察している。

「貧しき者達を蔑視するのです。貧者は自らの境遇に目を背け、さらに下の者を虐げる。自分よりも幸福な者を妬み、自分よりも不幸な者に優越を感じる。分かりますか、皆さん。それが、幸不幸というレールの上を歩く人間の本質なのです」

「その通りですじゃ!」

 杖の柄を握りしめて、観客の老人は言った。

「幸福は人を幸せにはしない。幸せになるのは常に他人。彼らの業により、あなた方にはいつも不幸が降り注ぐ。あなた達は、彼らが幸福であるために生まれた不幸を受ける側、『幸せのとばっちり』を受ける側なのです」

 歩は一瞬だけ頭痛を感じた。幸せの量は決まっている。無限に湧き出る泉ではない。砂漠の底からでる、ひとかけらの鉱石。それを手にする一方で、手に入るはずだった者の手からすり抜ける。自分や、かつてのサチは、自らの胸三寸に任せて、幸福の采配を行なって来たのだ。

 その結果が正しい時もあれば、間違った結果になることもあった。幸福を手にした人は、さらなる幸福を求めようとする。やがて、背伸びして、身の丈以上の富や名声を欲しがる。彼らは偶然に感謝を忘れてしまい、自分こそは選ばれたと傲慢になり、人を差別するようになる。彼らの幸福だって、本来は別の人間が手にするかもしれなかった。漂う幸せの糸を、座敷わらしが繋ぎとめて偶然を作り出す。しかし、たとえ精霊になったとしても、未来まで知ることはできない。

 ふと、歩は過去にした采配に不安を感じた。三重子や真一郎らを救った一方で、谷原夫妻はどうなったか。今この場にいることこそ不幸ではないのか。真一郎が押し入った家は福の神が出て行った。三重子の家があった街でも、強盗が多かった。それらも自分のせいだ。天音だってどうなったのか。

「不幸な人間を生み出さない方法は、はたしてあるのでしょうか?」

「あります」と観客が答えた。

「それはどんな方法ですか?」

「幸福になる人を出さない」

「その通りでございます。幸せな人が一人もいなくても、皆が不幸であれば、差別は生まれません。万人が平等に汚泥にまみれた世界こそ、真の理想郷なのです。誰もが頭まで泥につかり、虫に内臓を食い荒らされる。しかし、そこに差別はあるでしょうか? 誰もが不幸せであるからこそ、幸福から生まれる格差も起こらない。地獄の中でこそ、自分と他人は平等になれるのです。さあ、今日は何かをしましたか?」

 累の手が女子高校生のそばかすの頬に触れた。真面目そうな、どこにでもいる少女は小さな瞳をうるませて立ち上がった。

「はい、累様。三日前、友達の家が火事になりました。彼女は家族を亡くしました。かわいそうなので、私は自分の家に火を放ちました。家族は死んだけれど、彼女の辛い気持ちが分かりました。今日、ここへ来る前に他のクラスの家にも火を点けました」

 喝さいに包まれる中、累は別の席に移動する。右足が義足の青年の前で止まった。

「あなたはどうでしょう?」

「僕は、交通事故で右足を失いました。なので、夜な夜な、車で人を轢いています。足を何度もひき潰します。一人でも、僕と同じ苦しみを背負う人が増えれば、公共のバリアフリーはもっと広がると思います。健常者と障碍者って分けるなんて差別です」

「その通りですわ」

 別の人はこう答えた。

「私もあります。お金が盗まれたので、他の財布も盗んで溝に捨てました」

 誰もが口々に主張する凶行の数々。累が手で制しても静かになるのに時間がかかった。ホールの中は今や熱狂で膨張している。

「よろしい。では、世の中に不幸を蔓延させ、一縷の幸福も排斥したとして、この世界はどのようになるか。誰もが不幸になります。あなた方の親兄弟親類も隣人も顔を見たことのない他人も、みな不幸です。この世界は不幸によって中和される。人の愛は、優しさは、同じ災禍を共有して初めて生まれるのです」

 またも起こる拍手喝さい。歩はいつの間にか耳を塞いでいた。

「今、世界は二一世紀始まって以来の未曽有の大恐慌に見舞われています。海外では戦争、名だたる企業の倒産、財政破綻してゴーストタウンと化した地方都市。スラム化した住宅地。十五パーセントを超える失業率。蔓延る犯罪、差別、憎しみ、不和。しかし、その一方でいまだに金満に執着する寄生虫が人々から搾取しているのです。彼らの暮らしを維持するために我々だけが、未だ汚泥に漬かっているのです」

 彼女が舞台に戻っていく。最前列の席に座る人はみな、床に手をついて祈るようなしぐさをしていた。

「私は、この世界を、人々の心を、空っぽに戻します。かつて、争いのなかった共同体社会を実現するには、すべての物を捨て去るしかないのです! そのために、私は生まれた。長い時代を隔てながら、幾度の転生を繰り返し、累の称号を脈々と継承し、現在、皆様方の前にいるのです。私は累。累は昔からこう考えています。草一つない荒地でこそ、人の楽園たり得ると! 差別なき荒地の住人となるために!」

 累がそう叫ぶと、ホールの観客が立ち上がって、同じスローガンを唱和した。その度、ホールに張り巡らされた黒い糸が光り出す。信者達から放たれる小さな光りが吸い込まれていく。彼らの命を吸い取っているように見えた。

「さて、この世界には幸不幸を支配している存在がいます。人ではありません。彼らに名前を付けるならば、座敷わらしと言いましょうか」

 累が左目の眼帯を取った。観客の多くが息を飲み、または感動の声すら上げた。累の左目の瞼ははれ上がり、空洞の眼窩がのぞいていた。黒い筒口がこちらを向いた気がして、歩は咄嗟に椅子の陰に隠れた。

「本日お集まりいただいた皆さんに特別、災いの元である座敷わらしをご覧に入れたいと思います。もっとも、その姿を肉眼で見られる保証はありません」

 累の指示の下で、舞台に大きな檻が運ばれてきた。二メートル四方の大きな檻だ。中にクマでも入りそうだ。檻の中には、三人の子供が入っていた。

「この中に、座敷わらしがいます。子供が三人います。どなたか見える方は手を挙げて。あら、いませんか。残念ですね」

 累にはやはり見えているのだ。

「やい! 俺達をここから出しやがれ!」

 眉毛の太い少年が格子を叩く。しかし、勝手に音が出ているようにしか見えない観客は驚くばかりであった。

「人間のくせに、俺達にこんなことしてただで済むと思うな、罰当たりめ!」

 累がケラケラと笑う。

「この魔物は、私を罰当たりと言いました。まさに笑止千万です」

 累は手から一枚の札を取り出して、檻に貼りつけた。すると、格子を掴んでいた少年の座敷わらしが悲鳴を上げた。檻の中から煙が立ち上ったのだ。

「さあ、皆さん。一心に祈るのです。幸せなど要らない、と。不浄の精霊を打ち滅ぼすのです」

 信者たちは手を合わせ、一斉に祈りを始める。ホールの中が異様な空気に包まれていく。ひりひりとした痛実が増す。歩は観客席から舞台袖に隠れた。彼らを何とか助けなくてはいけない。

 檻の中にいる子供達は、苦悶の声を漏らしている。特に、二人よりも一際小さな男の子は丸くなったまま動かない。声のない祈りの波が歩の平衡感覚を狂わせようとする。耳を塞がなくてはいけない。

 舞台上の照明に乗り移り、眉毛の太い少年に向かって、歩は心の声を送った。精霊同士ならば、口に出さなくても会話ができるはずだ。

(君、大丈夫かい?)

「誰だ、おれを呼んだのは?」

(声に出さないで。あの人に見つかる。上を見て)

 太眉毛の少年と目が合った。状況に似合わず、おかしな顔に変わった。

(やっぱりそうだ。君は、小三太だね)

 眉の太い座敷わらしには覚えがあった。昔、天音のいた団地で隣にいた先輩だ。確か、天才の一族をつくると躍起になっていたのを思い出した。

(てめえはいつぞやのノタバリコ! なんでそんなトコにいんだよ)

(落ち着いて。君達はあの人に捕まったんだね)

(あの女は化け物だ。このままじゃ、おれらは殺されちまう。早く助けてくれ)

(落ち着いて。とにかく。このショーが終わるまで我慢して。なんとか、助けてから)

 少年は何か不満を漏らしたが、あの女がそばにいる状態で動くわけにもいかない。きっと、助けるチャンスはあるはずだ。

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