純 ③
6
コンコン。ドアを叩くと、「はい」と声がして、やや遅れて純が顔を出す。
「どなたですか?」
「僕です。歩です」
「またこんな時間にどうしたの?」
「実はお願いがあって……」
歩はさっそく話を切り出した。
「この子を少しの間だけ預かっていてほしいんです」
メリーは進み出ると、純の手をなめた。
「昨日のワンちゃんか」
歩は今日の出来事を彼に話した。純になら、メリーが三重子に飼われる前の経緯も話してもいいと思った。
「この子も辛いことがあったんだね」
「本当に少しの間だけでいいんです。飼ってくれるかもしれない人を探しているんだけど、日にちがかかるんだ。他に頼る人がいなくて」
「でも、うちのアパートは動物に厳しいからね。僕もこの通り目も見えない」
純に頭をなでられながら、メリーは笑顔を浮かべていた。彼に懐くかもしれないが、迷惑はかけられない。
「ごめんなさい。無理を言ったね」
「でもまあ、いいかな」
「え?」
「何だか、この子を触っていると、他人の犬っていう感じがしない。一人暮らしっていうのも寂しいものだしね」
「ありがとう。絶対に飼ってくれる人を見つけます」
歩は色々考えた末、やはり、幸子しかいないという結論に達した。彼女を見つけ出して頼んでみるしかないと思った。
外に出ている間は純の部屋に行けないので、幸運の気を少しずつ集めて部屋に結んでおいた。ついでに、二人の暮らしを観察できるようにした。
歩は先日に純からもらった肖像画に手のひらを当てて、意識を集中させた。閉じた瞳に自分のそれが重ねる。そして、絵の一枚を純に分からないように天井に張り付けておいた。こうしておけば、遠い場所に居ながらにして、この部屋の様子を見ることができる。座敷わらしになって手に入れた能力の一つだった。
「これでよし」
歩は純の部屋を後にすると、目的地の九州までの最短距離を思い描いた。一番速いのは飛行機だが、空港までだと数分後にアパート前を通りかかる運送トラックに乗れば早く到着する。
時間通りにやって来たトラックの助手席に、ドアを開けずに乗り込んだ。少ししてから、配達から戻ってきた運転手のおじさんが乗り込んできた。
「空港までお願いします」
「よしきた……あれ、俺は何言ってんだ、一人で」
運転手は怪訝な顔を浮かべながら、車のエンジンを入れた。
空港に着くまで、赤信号に一度も引っかかることはなかった。
7
一日をかけて、歩は母方の実家にたどり着いた。
しかし、やっと着いた母の生家はなくなっていて、巨大なショッピングモールの一部になっていたのだ。そこさえも、訪れる客も迎える店員もいない廃墟だった。建物の入り口に『もうすぐグランドオープン!』張り紙があるのだが、日付は一年前だった。建設途中で立ち消えになったようだ。空っぽの店内はビール瓶や粗大ごみが捨てられ、ショーウインドーも割れ、壁には落書きが目立った。
歩は目を閉じた。そこに残る無数の思念。工事風景。広大な更地で行われた地鎮式。古い家の取り壊し。巻き戻される風景の流れ。ふと、意識を止めた。
唐突に現れた祖母の葬儀。祖母に会ったのは数回程しかない。どんな人だったかも忘れてしまった。
葬儀の喪主を務める母がいた。少しやつれている。父の姿はない。
母の隣に幸子が神妙な顔で正座していた。高校生くらい。丸い顔は少し細くなって大人っぽくなった。
(ノタバリコ)
幸子がこちらを向いた。
(私に用があれば、お前の家だったところへ行け)
歩は驚いてその場で尻もちをついた。
「分かったよ。とんぼ返りだ」
夕方近く――歩は故郷の町に戻ってきた。
自分の死んだ踏切や学校、天音がどうなったのか気になったが、時間は残っていない。かすかな記憶を頼りに行きついた場所には、すでに違う家が建っていた。
歩は家の周りを嗅いでいく。セメントと新しい気に混じり、懐かしい匂いを感じた。それらを鼻に取り込む度に、遠い昔の思い出が頭によぎって来る。
広い裏庭には昔と同じように芝生が生えていた。ここでよく自転車の練習をしては転んだ。忙しくなる前の父に背中を押され、ぎこちなくペダルをこぐ小さな少年が、横転して泣きべそをかく姿が目に映る。
壁をすり抜けて家の中に入ると、リビングでは誕生日をやっていた。友達を招待して、大きなケーキを母が焼いている。天井にはたくさんの飾りを施して。
「ハッピーバースデー、歩!」
パーティの中心にいる自分は得意げに我が世の春を謳歌している。
反転して、今にも泣きそうな顔でリビングに座っている自分。父親に叱責されている。テーブルには算数のテストが置いてある。点数は三十点。あれは二年生の頃だ。苦手な文章問題を克服できなくて、ひどい結果になってしまった。
「こんな点しか取れない子はうちの子じゃない。世の中は競争なんだぞ。お父さんは勝ち組だが、その息子のお前も勝ち組になれるわけじゃない。勉強を疎かにすれば、すぐに負け組に落ちてしまうんだぞ、歩。お前は負け犬か?」
首を振る幼い歩。その後ろに幸子、いや、サチが立っていた。泣きじゃくる彼の頭を優しくなでていた。それを見ながら、すぐにリビングを後にする。良いことも悪いことも、色々な思い出があった場所。
少し早送りをしてみよう。だんだん死ぬ前に追いついていく時間。お葬式を飛ばし、幸子が暮らし始める日常。やがて、事業の失敗で傾きかけてくる家計。両親の奔走も空しく、会社は倒産する。家財道具を転売しても、一向に減らない莫大な借金。そして、破産。白髪の混じった両親を連れて、幸子は家から出て行く。
その時、幸子は机に向かい、紙にきれいな字を書いている。紙をアルミの箱に入れ、ふたをガムテープで密封する。それを裏庭の芝生に埋めた。
「タイムカプセルだな」
歩は裏庭に戻った。そして、彼女が埋めたであろう場所を探り掘り当てた。地中から幸子が埋めたのと同じ箱が出てきた。テープをはがしてフタを開けると、中には一枚の紙が入っていた。そこには、こう書いてあった。
『探すな。 三ノ森幸子より』
たった一言だけであった。歩は首をうなだれるしかなかった。
「ん?」
しかし、何の気なしにメモの裏を裏返すと、かわいいカエルの絵と真横に添えられた吹き出しに住所が書かれていた。
探してほしくないのに、住所を書き記すということは、探してほしいが素直にそう言えないという証拠だ。天邪鬼の幸子らしい。
さっそく、歩は住所の場所を目指した。今度はそう遠くないはなかった。
それどころか、かなり近い。
8
一方その頃、純とメリーはと言えば――。
「おかいいな。筆はどこにもないぞ」
純が後ろに転がっている筆を探している。なかなか気づかないようでいると、メリーが筆を口にくわえて、純の前に差し出した。
「メリー、どうしたの? あ、これだ。よく分かったね。お前は賢いな」
日曜日の夕方、純は暗がりの部屋の中で絵を描いている。鉛筆は長いものと短いものがそろえてある。彼の手は芯で真っ黒だった。
描いている絵は、どこかの海辺だった。砂浜があり、小さな波が打ち寄せている。遠くの海原には船のシルエットが浮かび、地平線の向こうには夕日が映える。
「海に入ったことはあるけれど、この目で実際に見たことない」
メリーは首をかしげる。遠い昔に自分を捨てた家族と一緒に行った思い出はあるようだ。生憎、メリーも海の色を知らない。犬の視界はモノクロに映るせいだ。
「波の音ってさ、ジュワジュワと炭酸の弾ける音と似ているよね。ソーダ水かと思って昔に飲んだことがあるんだ。その日はおなかを壊して病院に運ばれた」
鉛筆の芯が長い時間をかけて黒い砂浜を描いていく。鉛筆を持ち直すたびに、キャンバスに指をあてて縦横の位置を確認している。純の絵には人物は出てこない。時間の止まった世界はどこまでも清らかで、臨場感があふれて真に迫っていた。目の見えない青年は、構図や奥行きを一寸も狂わせることもない。
「いつか、君も絵に描いてみるよ。どうも、人物や動物を描くのは苦手なんだけど、何事も挑戦だね」
天井の目を通じて、歩は呆れた。自分に描いてくれた絵は、どう見ても苦手とは言えないほどきれいだったのに。
「歩くんは不思議な子だね」
純が話題を自分に切り替えたので、歩は自分が見つかったみたいに動揺した。
「彼みたいな声の人は、今まで会ったこともない。何ていうか、存在感がない。薄いっていう意味じゃなくて、透明感があるというか、なんていうか、その、ううん、なんて言えばいいのかな。幽霊と妖怪、妖精、なわけないか」
その時、ドアを叩く音がした。
「はい」と彼が出て行くと、廊下には腰の曲がったおばあさんが立っていた。
「あたしさ」
「あれ、大家さん、どうしたんですか?」
「どうしたもないよ。ドアを開ける前に、誰だと尋ねないと。あたしが強盗だったら、どうするんだい。まったく、不用心なことだ」
ガラガラ声で大家さんは言った。
歩は嫌な予感がした。今、電車の席に座っているのだが、自分の座っているところを中年太りした会社員に座られても全然気づかなかった。
「昨日、あんたの部屋から話し声が聞こえたって、隣の大沢さんが言ってるんだよ」
「はあ」
「時間は夜の十時くらいだから、電話じゃないだろう」
「はあ」
「あたしも、さっき話し声が聞こえたよ」
「はあ」
「はあはあじゃないだろ。まさかと思がね、あんた、動物を飼ってるわけないよね」
大家さんの勘は冴えている。ツルのように長い首を伸ばして純の部屋をのぞく。メリーの姿はない。いつの間にか、キャンバス立ての後ろに隠れていた。
「勘違いですよ。たぶんラジオを点けっぱなしで寝ているから」
「ふうんそうかい。おや?」
大家さんが何かに気づいて、部屋に立てかけている絵を指さした。そこには、描きかけのメリーが浜辺にたたずんでいる。
「おかしいね。あんたは今まで風景画しか描かなかったんじゃないのかい」
「あ、いや、これは、その気まぐれですよ。ほら、新しい挑戦も大事ですから」
純が分かりやすいように当惑している。天井に顔を向けて、そわそわしていかにも怪しい素振りを見せてしまう。生まれつき嘘をつけない人が、やむを得ず嘘をつくとこんな態度になるのかもしれない。
大家さんは玄関にかがんで何かを見つけて拾い上げた。
「モデルのワンちゃんはどこにいるんだい?」
「公園です、公園。決して部屋の中に上がらせていません」
そんな答え方ではダメだ。歩は頭を抱えた。
「そうかい。じゃあ、玄関に落ちている犬の毛は何だろうね」
「ぐぬうう」
純は苦しそうにのどを鳴らす。陥落寸前の砦そのものである。
「さあ、正直に白状しな。こちとら、元万引きGメンを三十年勤めあげたのさ。引退後も、刑事ドラマを見るのが趣味のあたしに嘘は通用しないよ」
すると、絵の後ろからメリーがとぼとぼと出てきた。その顔は純と同じように、あきらめの表情を浮かんでいる。
その後、大家さんはみっちりと純に説教した。
「まったく、あんたは嘘が下手だね。正直者は正直でいるのが一番なんだよ」
「すみません。実は、知り合いに頼まれて数日だけ預けていまして」
「あんたは人が好過ぎる。そのワンちゃんを押し付けられちまったんだ」
メリーは玄関に座り、顎を床に乗せていた。
「歩はそんなことしません」
「分かった。その歩っていう奴、あんたの知り合いなら悪人じゃないとしようか。でも、そいつが当てを見つけられなかったら、この子はどうなる?」
「それは……」
「犬猫を飼うのは、一種の贅沢だ。贅沢じゃないと動物が苦労するのが目に見えている。人よりも短い間しか生きられないんだからね。あんたには、メリーに苦労させない自信があるのかい?」
純は答えられずに、自分の手を膝の上に握っていた。
「あんたは生まれつき、目が見えない。だけど、あんたはその子に身寄りがなければ、見捨てることができないほどやさしい。甘いという奴もいるけど、そんなことはどうだっていい。でも、目の見えないあんたに最後までこの子の面倒を見れるのかい? 断っておくけど、意地悪で言ってるわけじゃないの。あたしも昔、犬を飼っていたのさ」
大家さんは玄関に寝そべるメリーの頭をなでながら、大きく息を吐いた。
「かわいそうにね。その子は年を取ってから水を飲まなくなった。そのうち食欲も落ちた。おかしいと思いながらも、昔のあたしは年を取ったせいだろうと思った。でも、さすがにおかしいと思って獣医に診せたらね、胃癌だったよ」
「手術はしたんですか?」
「無理だった。年を取り過ぎて体力が持たない、もう手の施しようがないって言われた。あたしは最後まで面倒を見たけど、半年は長かっただんだん歩けなくなって、体もガリガリに痩せて。最後の数時間は、血を吐いて、ほとんど寝たきりの状態だった。そうなっても、あの子は頑張ってまだ生きようとする。たまらなかった。いっそのこと、あたしの手で、なんて思ったくらいだ。だから、獣医に安楽死を頼んだ。あっという間だったよ。黄色い薬を入れた大きい注射を背中に刺して、あの子の中から何かが抜けていくのが分かった。その時、悲しみはなかった。ホッとしたのが正直だった」
大家さんが涙ぐんだ。純がティッシュを渡した。
「湿った話をしてすまないね。でも、犬猫を飼うのは、きれいごとじゃない。愛情をかければかけるほど、別れが辛くなる。ぞんざいにいたら、どっちも心が痛む。贅沢させてやればいいわけじゃないけど、余裕がなければ飼うべきじゃない。だから、あたしは何も飼わないようにした。このアパートもペットを禁止している」
「きっと、歩は新しい飼い主を見つけてくれます」
「見つからなかったらどうすんだい?」
「その時は僕が飼います。親さんや他の人にも迷惑になるので、ここを出ます」
「バカ言うんじゃないよ。目の見えない奴を住まわせてくれるトコなんて、こんなアパート以外にないよ」
「それでも本気です」
二人の会話を聞いていた歩は、頭を抱えるしかなかった。天井の絵を通してではなく、玄関から直接耳に入っていた。




