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純 ②

 

     3


 純の住む『たんぽぽ荘』に到着したのは、明け方近くだった。そこは思ったよりも古いアパートで、茂の住む住宅地や周りの高層マンションの街並みから外れるように、ひっそりとたたずんでいた。時代から取り残されたというよりは、自ら追いかけることを止めたという表現がふさわしいだろう。

 歩は自分の家に帰った時のような懐かしさを覚えた。一度も訪れたこともないのに不思議な感じだった。

 一階奥にある一〇四号室が彼の部屋だった。

「ありがとう。寄っていかないかい? ちょっと散らかっているけど」

 彼が部屋のドアを開けると、黒い靄が漂っていた。鉛筆の匂いだろうと思った。嗅覚のない歩には、臭いや気体は中空に舞う靄に見えるのだ。

 純が言うほど床は散らかっていない。部屋の奥まで進むと、一面にキャンパスが置かれていた。目を見張るような精細さで描かれたそれらは風景画が多いが、ほとんど絵の具が塗られていないデッサン画だった。

「すごいや。これ、純さんが全部描いたんですか?」

「下手の横好きってやつさ」

 純は狭い台所でお茶を作り始めたが、普段からお客の来訪がないせいか、あまり慣れない手つきだった。

「お茶の葉はどこだったかな」と流し元の下の棚を探していると、古そうな缶を取り出した。薬缶の笛がけたたましく鳴っている。

 歩は見ていられなくなって、つい手伝ってしまった。もしも、純の目が見えていたら、宙に浮く薬缶に腰を抜かすか、とぼけて笑ったかもしれない。

「きっと、腐ったお茶じゃないと思うけど、手伝ってくれてありがとう」

 歩は緊張した。家族以外で他人の家に一人でお邪魔したことがないだけでない。幸子以外に生きた人間と会話をしたのは、死んでから初めてだった。

「恥ずかしい絵ばかりだろ」

「そんなことないです。目が見えなくなる前に描いたんですか?」

「いいや。僕は生まれた時から目が見えないんだ。これは人の口から聞いたのと、あとは自分の想像をかき混ぜて、海はこんなところ、山はこんな感じって描いてみたんだよ」

 純は自分の絵を指でなぞる。指先は細く白い。画用紙に溶け込むように。

「でも、色ばかりはどうも分からない。赤とか青とか、生まれてから一度も見たことがないからね。知っているのは、黒かな。それなら分かる」

 あっけらかんと笑う青年。

「でも、黒にも色々な種類があるんだ。薄い黒、濃い黒、固い黒、柔らかい黒、暗い黒に明るい黒。他の色でもそうかもしれない」

「人と同じですね」

「うん。でも、絵の具を塗るのは難しい。今はデッサンで精いっぱいだ」

「純さんの親は一緒なんですか?」

「母さんは僕が中学の頃に死んじゃった。だから、生まれた頃からいないお父さんがどんな人なのか見当もつかない」

「大変ですね」

「不便なことは多いけど、毎日を楽しく生きているよ。それにしても、君みたい子は初めてかもしれない。息遣いとかが全然聞こえない。玄関の床を踏む音も聞こえなかった。あそこの留め板は外れかけているから、上を歩くと鴬張りみたいにギィギィと音を出す。大家さんや他のお客さんが来たら、すぐに分かるんだ」

「僕って結構身軽なんです」

 座敷わらしと言っても信じてもらえないだろう。

 この人と一度会った気がする。いつどこなのか覚えていないが、純が初対面という感じではなかった。誰かに似ているのかもしれない。

「純さんは目の手術をするつもりはないんですか?」

「してみたいこともあるけど、お金がかかるしね。今さら見えるようになっても仕方がないし、もう慣れてしまった。迷子になっちゃったりもするんだけど。そうだ、歩くん、少し時間あるかい?」

「はい」

 少しどころか、無限にある。

 純はスケッチブックに鉛筆で何かを描き始めた。

「君のことを少し話してみて」

「どんなことを?」

「何でも。プライバシーにかかわるのはいいよ。何が好きとか嫌いとか」

「うーん。そうだな、僕はアイスクリームが好きかな。ストロベリーのシャーベットとか、嫌いなのは野菜とか梅干しとか。あと、スポーツは鬼ごっこみたいな駆け足で走るのは好きだけど、ボールで遊ぶのは苦手」

 純は黙ったままペンを走らせる。

「君は、黒い髪。それとも染めてる?」

「ううん。黒」

「クラスの中では背は高い方?」

「普通より低いかな」

「四年生くらい?」

「当たり」

 正確には最後に亡くなって七年近くたっているので、人間として生きていたら、今頃は高校生くらいになっていたに違いない。

「次は、好きな女の子はいる?」

「プライバシーで秘密」

「そうだった。ごめん」

 窓から朝日が差し込む頃、「これでいいかな」と純がスケッチブックから一枚を千切り、歩に向かって差し出した。

「僕にくれるの?」

「拙い絵だけど、これしかお礼ができない」

 そこに描かれた顔に、歩は心臓が止まる思いだった。

 こちらの姿が見えないはずの純が描いた、想像上の歩は、電車に轢かれる前と瓜二つだった。黒髪を整えて下ろし、小さな顔は笑顔でありながらどこか、不安をのぞかせる瞳が空に向かっている。

 描かれた姿は自分と瓜二つだった。どうして、目の見えないはずの純にそれが分かったのだろう。さっき位の話を聞いただけでは無理だろうから、大半は純自身の想像によるものだろう。だが、それにしても似顔絵のように正確で、特徴を捉えている。気弱そうな瞳の感じまで。

「当たり外れが多いから勘弁してね」

「すごいや。ほとんど同じだ。どうして、分かるの?」

「たまたまだよ。歩くんの教えてくれた特徴と、頭の中で思い描いた想像図と組み合わせた結果だ。歩くんはこんな人なんだろうと空想したんだ。でも、君は見た目より大人びていると思う。なんだろう、イメージを掴むのが少し難しかった」

「ありがとうございます」

「でも歩くん、家出はよくないよ。お父さんとお母さんはきっと、君を心配している。親子はなかなか引き離せるものじゃない。どちらかが死んだとしてもね」

 歩は、遠い昔に離れ離れになった両親を思い出した。確か、会社が倒産して、九州にある母の実家に移り住んだと、幸子が言っていた。会いに行きたいと思ったが、メリーをほっておくわけにはいかない。

 恋しい思いが心に滲む。歩は涙を流した。わずかな嗚咽を漏らすと、純は「ごめん」とだけ言ってくれた。

「でも、君の両親は君の帰りを待っている。きっと……」


     4


 朝方、歩は純の部屋を後にして、谷原家に帰ってきた。犬小屋には人だかりがあった。小学生くらいの子供が集まっている。近所の家の子供だろう。

 近づいたところ、「キャンッ」とメリーの甲高い鳴き声が響いた。

「何をするんだ!」

 歩の怒鳴り声に振り向く人はいない。

 リーダーの男子がピストルのおもちゃでメリーの腰に撃ったのだ。

「オラッかみついて来いよ、老いぼれ犬!」

「こいつ、年を取ってるから抵抗できないんだよ」

「今度は頭に撃って」

「止めなよ、かわいそうだよ」

 小太りの男の子が弱気な声で留めようとするが、他の男子は聞く耳を持たない。

「こいつがここに来てから臭いんだよ。うちの親は汚い犬がいるせいだって、景観が損なってるとかいうんだぜ」

「景観ってなんだ?」

「この犬はいるせいで、汚くて臭いって思われるらしいぜ」

「賛成」

「かわいそうだよ。おじいちゃんみたいな犬なのに」

 一人が弱々しく反論するものの、すごく心細く、頼り気のない蝋燭の炎だった。このままでは、メリーが危ない。

 歩は、一人の手からピストルのおもちゃを取り上げた。宙に浮くおもちゃに、悪童たちは一瞬言葉を失い、一人が叫びながら逃げていく。

「お、おばけだ!」

 そのままピストルの先で地面に文字を描いてみせた。

『犬をいじめるな!』

 リーダー格の少年が悲鳴を上げながら、道路に走り出した時だった。ちょうど、向かいのガレージから出てきた車と重なった。

「あっ」と叫んだ直後、急ブレーキとクラクションが閑静な住宅街に響き渡った。少し遅れて、いじめっ子がさめざめと泣き出すのが聞こえた。


     5


 谷原家のリビングでは、家族会議が行われた。歩も部屋の隅にいたが、風向きは悪い方向に流れつつあった。

「南田さんの子は、右足首を骨折したらしい。完治まで二週間はかかるって」

「死ななくてよかったじゃん」

「縁起の悪いこと言わないで頂戴」

「そうよ。お兄ちゃんのバカ」

 長男の冗談を非難する早苗と長女。次男は相も変わらず、ゲームばかりしている。

「治療費は、向かいの西ノ宮さんが負担することになった」

「当然でしょ。うちは関係ないもの」

「ところが、うちにも厄介ごとが降りかかった」

 茂はテーブルに手を置いた。ゆっくりと話し始めた。

「南田さんはクレーマーというやつで、近所では有名らしい。南田さんが言うには、息子が怪我したのは車に引かれたせいだが、道に飛び出した原因が、うちのメリーにあると言っている。あの犬が子供に吠えかかったから、うちの子は思わず逃げてしまい、そこで車に轢かれたって」

「そんなバカな話があるかよ」

 歩は一人だけ叫んだ。しかし、リビングでは至って静かだった。

「証拠はあるの?」

「子供の証言だけだ。西ノ宮さんは見ていないと言っている」

「それで?」

「南田さんは、メリーをよそに預けるか、殺処分しろ。そうじゃないと、うちを相手取って裁判を起こすとまで息巻いている」

「でも、隣近所だから仕方がないじゃない。これからの体面を考えると、無視するわけにはいかないし、ねえ?」

 早苗は茂に、自分の言いたい答えを引き出そうとする。

「おふくろの残した犬だし、どこかに引き取ってもらうのがいいかもしれない。遺言には、人に危害を加えてまで面倒を見る義務はない。だけど、困ったことに知り合いに犬の好きな人はいない。そもそも、老犬を飼ってくれる人がいるかどうか……」

 歩は居たたまれなくなり、リビングの壁をすり抜けて外のガレージに出た。メリーはうなだれたまま、すすり泣きを漏らしていた。

「大丈夫だよ。僕が守るから」

 守ると言ってもどうすればいいのか。犬小屋に幸運を呼び寄せてみたが、人間のようにうまくいかない。やはり、動物が相手では力は出せないのかもしれない。誰かに飼ってもらうしかない。その人に幸運をもたらせば、メリーに優しくしてくれるかもしれない。しかし、三重子も真一郎もいない。幸子にも頼れない。

 思い浮かぶのは一人だけだった。歩は首輪を外して、メリーを自由の身にする。

「ついて来て、メリー」

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