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真一郎 ①

 

          1


 うだる暑さが弱まり出していた。数日前まで通行人の多くが薄着にハンカチで顔や脇の汗を拭いつつ、連日の熱中症の注意報が流れていた。感覚のなくなった歩には、季節の変わり目など日付以外に判断できなかった。そのせいか、どうでもよく思っていた。

 マンションの一室から一室を移動していて、ある一室で止まった。その部屋では、一人の男が首を吊ろうとしていた。

「俺の人生は終わりだ。思えば良いことなんて一つもなかったな」

 会社をリストラされて、今日にもマンションを追い出されようとしている。遺書を残して、天井から垂れ下がった縄の輪に首をかけようとする。

 歩はハサミで縄を切った。ドスンと床に尻もちをつき、男は泣き始めた。

「死ぬことはないじゃないか」

 天井に大穴が開いて、そこから大きなカバンが落ちてきて男の頭を打った。踏んだり蹴ったりでかわいそうだが、彼の不運はこれで終わるだろう。

「これはたまげた!」

 カバンの中身に、男は大げさなほど驚いた。無理もない。中には札束がぎっしりと詰め込まれていたのだから。

 この人の前に住んでいた人の置き土産である。どうやらそいつは泥棒で、ここに盗んだ金を隠したまま警察に逮捕されたらしい。泥棒は今も刑務所にいるので、戻ってこれを取り返す心配はないだろう。

「これで左うちわに暮らせる。ありがとうございます、神様!」

 男はカバンを抱え、部屋から出て行った。先ほどまで死ぬとか言っていたのに、本当に現金な人だな。窓辺から夕日を眺めながら、歩は一息ついた。このマンションで困っている人はすべていなくなった。

 その時、マンションの扉が開いて、見覚えのある初老の男に入ってきた。

「久しぶりだね」

「あなたは、ええと、死に神さん?」

「三善です」

 座敷わらしになった夜、公園で出会った男。自分が座敷わらしになるのを選んだ時、少し落胆したように見えたのは今でも覚えている。秋の黄昏に混ざり合うのにふさわしく、白々の能面は不吉さを漂わせていた。

「精霊の暮らしには慣れたかね?」

「少しだけ」

「それはよかった。精霊と人は時間の感覚が異なる。精霊の時間は人と比べてゆったりとしている。つい、心が散漫になりがちだ。君は彼女より少しばかり臨機応変にいられるようだ」

 彼女というのはサチのことだろう。三ノ守家に憑いていた座敷わらし。自分が死んだことで、入れ替わるようにして人間に戻った。今は、幸子の名で歩の両親と一緒に暮らしている。

「しかし、余計なことをしてもらっては困る。この部屋にいた住人は今日、首を吊って死ぬはずだった」

「人の死は決まっているんですか?」

「あくまで予定に過ぎない。何かしらのアクシデントで変更される時もある。ただ、今朝から県三つ跨いできたのが無駄骨になった」

「すみません。目の前で死なれるといやと思って、つい」

「無理もないな。彼の代わりに、誰かが命を落とさなければいいが」

 三善は黒い手帳に何やら書き込んだ。サチが言うには、死に神の手帳には、誰がいつどこで死ぬかが書かれていて、近くにいる死に神が弔いに行くのだという。座敷わらしや貧乏神に比べて、数は少ないらしい。なり手が少ないというのだが、少し分かる気がする。自分だったら、絶対にやりたくない仕事だ。

「次に向かうとしよう」

 三善がいなくなると、周りの時間が動き始めた。歩もマンションを後にした。

 近くにある公園の芝生で寝転んでいると、何かが歩の顔を長い舌でなめた。

「うわっ! な、なんだよ、お前!」

 久しぶりに人間じみた反応をさせた正体は、一頭の大きな犬だった。ゴールデンレトリバーという犬種のようだ。ふさふさとした明るい毛並みに、つぶらな瞳が興味深げに歩を観察している。普通は見えないはずなのだが、犬猫の中には、こちらの存在を察知しているのか、吠えて逃げ出す奴がいるが、じかに触れてくる犬は初めてだった。

 犬には首輪がない。捨て犬にしては大きい。歩は犬の頭を触ってみた。頭の中に入り込んでみると、犬に食べ物を恵んでいる自分の姿が浮かんだ。

「お前、僕が何かいいものを持っていると、思っているだろ?」

 犬は舌を垂らしながら、手の上に顎を乗せる。涎がべったりとついた。

「分かったからやめろよ」

 歩は仕方なく、公園の近くに止まっているアイスクリーム屋に取りついた。中年の店員が頬杖をついているところからして、全く売れていないらしいので、少しだけ力を分けてやる。

「全然売れねえや。こんな不景気に脱サラして、アイスクリーム屋をするのは間違っていたかね。季節外れとはいえ、味には自信がある。こんなにおいしいのに」

 店員が余ったクリームにコーンを乗せて、昼飯の代わりに食べようとした。その時、一陣の風が吹いて、てっぺんのクリームが飛んでしまった。

「あっ」

 クリームは店の目の前を通った学生の顔に当たった。

「おにいさん、ごめんなさいね」

 タオルを持って出てくる店員。しかし、顔に着いたクリームをなめた学生は「これ、いいね」と携帯で店の写真を撮った。そして、彼と友達数人が「バニラを一つずついいですか」と買っていく。学生らが去ると、矢継ぎ早に客がやって来た。

 店員は慌てて、コーンにアイスクリームを乗せていく。さっきの学生がネットに店の評判を書き込んだせいかだった。いつの間にか、閑古鳥の泣いていたアイス屋には行列ができていた。

「なんだ、すごく忙しくなったぞ」

 アイスクリームはあっという間に売り切れた。店員が片づけをしているところを、さっきの犬がやって来る。

「なんだ、お前、野良犬か。今日は、俺も機嫌がいいから、こいつをやるよ。中途半端に余ったからな」

 カップに入ったチョコレートをなめる犬。これでいいだろうと、歩はその場を後にした。四棟のマンションに何週間もわたって住み着いたので、そろそろ、この町を移動しようと思った。この町には一人暮らしに戻った三重子がいる。彼女がどうなったのか気になるところだが、自分の役目は終わったと考えるしかない。

 駅に入ろうとした時、「おい!」と駅員に声をかけられて、歩は飛び上がった。

「犬でもキセルはいかんぞ!」

 違った。自分の後ろを歩く犬に向かって言っていた。さっき、アイスを食べて満足していたはずの野良犬がしっかり後ろについて来ていた。

「しっし! あっち行け。入るな」

 見えない力で背中を押し出された。座敷わらしは、その姿の見えない人間が拒むと、建物の中に入れないらしい。足元には犬が付き添っている。

「お前のせいで行けないじゃないか」

 仕方なく、住宅街に向かった。犬はなくなった影の代わりのようについてきて、少し走って逃げても追いかけてくる。入り組んだ路地を通り抜けて、階段を駆け上がり、別の家の塀の向こうに隠れた。かわいそうだけど、野良犬に付き合っているほど暇ではない。

 そろそろいいかと立ち上がりかけた時だった。家の窓が急に開かれた。最初は住人かと思ったが、少し様子がおかしい。その人は頭に頬かむりをして、全身を黒い服を着て、背中には唐草模様の風呂敷を背負っている。絵に描いた泥棒そのままだった。

 いや、そいつは間違いなく泥棒である。年は四十代後半でクマみたいに口元には黒いひげを蓄えている。ずんぐりとした大柄な男。大工さんが履いているような足袋を履いている。本当の泥棒がそんな格好をしているとは夢にも追わなかった。

 このままではいけないと思い、「泥棒!」と大きく叫んだが、生きた人間の耳には入らない。憑りついた家以外には効果は起きない。

「やめろ」

 歩はポケットからと出した黄色い球を、泥棒に向かって投げつけた。泥棒は地面から突き出た石に足をひっかけ、「おわ!」と叫びながら地面に転倒した。風呂敷から鍋や高級そうな掛け時計、ゴルフクラブが散乱した。けたたましい物音が辺りに響いた。

「いけねっ!」

 泥棒は風呂敷だけを拾って、家の塀を越えて、横隣の家に逃げ込んだ。歩も彼の後を追って塀をすり抜けた。泥棒は池の中に落ちていた。ガマガエルが縁の岩陰に慌てて逃げていく。どこか、見覚えのある庭だった。

「よかった。誰もいない。ん、この家は不用心だな」

 泥棒が縁側に上がった。戸は閉まっていたが、鍵をしていなかったせいか簡単に泥棒が室内に押し入ってしまう。

「こら、止めろ! ここの家の人は――」

 歩の抗議が聞こえない泥棒は頬のひげをさすりながら、薄暗い家の中を観察している。仏壇の遺影を眺めながめつつ、「旦那の遺影か。古い畳と縁側の床のへこみ具合からして、婆さんの一人暮らし。門もボロいから、同居している家族はいない。そのくせ不用心で防犯意識に疎い。七十後半から八十歳前半くらいといったところか」

 泥棒に独り言は見事に当たっていた。さっそく、タンスの中を探り始めようとする前に、仏壇の前に座って手を合わせて拝んだ。

「ちょっくら、お邪魔しますよ。ケチくさいコソ泥の日銭を拝借するだけですから」

 盗みをするのにお願いをする泥棒も珍しい。とにかく、早く警察を呼ばないといけない。もう二度と来るはずのなかった家で騒動を起こしてしまうなんて。

 その時、庭に入り込んだ野良犬が走りこんで、泥棒に覆いかぶさった。

「わあっやめろ! 何をすんだ、こら!」

 犬は倒れた泥棒の上に跨って、舌で髭面の顔を思いっきりなめている。こそばゆいのか、泥棒は笑っていた。

「誰かいるんですか?」

 和室の襖が開いて、丸い顔の三重子が出てきた。泥棒と犬が顔を合わせた。この泥棒は危険な奴だったら、三重子に危害を加えるかもしれない。歩は何か方法はないかと思った矢先、「あら、どなたですか。新聞屋さんですか?」

 三重子は意外には怯えた感じはなかった。

「あ、いや、俺は」と、泥棒は縁側の障子を指さして、慌てるように付け加えた。「実は、障子の張替えでここいらを回っているんです。おかあさん、ちょっくらいかがですか。この障子も張り替え時ですよ」

 泥棒の言う通り、障子は穴だらけだった。数か月前、茂夫妻の子供達が悪戯で破ってしまったせいだった。この期に及んで、いくら三重子でも、付け焼刃のウソでごまかされるはずはないと思った。

「そうなの。じゃあね、一つ任せていいかしら?」

 歩は縁側で転げ落ちそうになった。

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