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三重子 ③

 

       6


 幸子を連れて、歩は三重子の家へ向かった。電車に揺られながら、目を閉じたままの彼女に聞いてみた。

「僕、今度はどんな間違いをしたの?」

「向こうに着いたら教えてやる。きっと、その人はおそらく――」

 それ以上は何も教えず、ガマ口を閉ざしたままであった。

 三重子の家に到着すると、夫妻と子供達は出かけていた。なぜか、玄関の扉は鍵が閉められていた。それが普通なのだが、三重子が一人で暮らしていた時はそうではなかったはずだ。他の窓も同様だった。二人は縁側へ向かったが、そこの扉も雨戸が隙間なく閉じられていた。

「まさか、あの二人が」

 歩は雨戸から通り抜けて、家の中にそのまま入った。内側から鍵を外してやると、幸子が一気に縁側を明るくしてくれた。和室の中に彼らの家にあった絨毯やタンスが塞いでいる。

「まるで物置小屋ではないか」

 箪笥と箪笥の隙間を抜けながら、幸子は仏壇の前に来た時だった。

「大変じゃ」

「どうしたの?」

 歩も駆け寄ると、仏壇の下に三重子が倒れていた。また、いつものように物思いにふけっているとばかり思っていた。

「いかん。息をしておらんぞ。早う病院に電話せえ! そうか、お前はできなんだか。ええい、まどろっこしいが」

 と、彼女は緑色の携帯電話を取り出して一一九番しようとするが、まだ使うのに慣れていないのか四苦八苦している。歩は操作を教えて、なんとかに一一九番ができた。

 数十分後、救急車に乗せられて、三重子は搬送された。その際、幸子も同行した。孫娘と偽った。歩はもちろん簡単に乗れた。

 救急車が来るまでの間、幸子が心肺蘇生をしていたおかげか、三重子は一命をとりとめ、すぐに一般病棟に移された。病室ではスヤスヤと寝息を立てている。

「まるで、王子が来ぬまま年を取った眠り姫じゃ」

「この人には王子様がいたんだ。今はいないけど。遠い昔に旦那さんがいた」

 茂や早苗の話を聞いていると、どうやら、三重子の夫は、彼女が三十二歳の時に亡くなったらいい。以来五十年の間、再婚することもなく、息子を一人で育て上げた。その最後がこんなみじめな扱いを受けるなんて、歩には信じられなかった。

「そうか」

 事情を聞いた幸子は、納得したように言った。

「ちょうどいい。力の一つを教えてやる。三重子の隣であおむけになれ」

 歩は言われた通りにした。

「目をつぶり、息を止めて、心を空っぽにしろ。息はずっと止めたままだぞ」

「そんなことをしたら死んじゃうよ」

「お前はもう死んでいるだろ。さあ、続けろ。しばらくしたら、隣の三重子の顔を思い浮かべるのじゃ」

 暗闇の中で、歩は三重子の丸顔を思い浮かべる。いつも、縁側に座って何を考えているのか分からない老婆。いつも腰を曲げて、ゆったりとした動きで毎日買い物に行く。一日中、一言もしゃべらずに人と関わらない。

 暗闇の向こうに小さな光の点が見えた。足を歩かせる自分をイメージすると、点が徐々に大きくなる。やがて視界一杯に光が満たされていく。瞼の外が妙に明るく感じる。少し閉じていた目をゆっくりと開いた。

 さっきまでいた病室が消えていた。代わりに、明るい緑色の草原がどこまでも広がっている。青い空には巨大な積乱雲が浮かぶ。涼しい風が優しく肌をなでて回っている。

 川のせせらぎが聞こえる。澄み切った小川が目の前を横断し、小さな魚が泳ぎ、アメンボが水面を踊っている。ぽつぽつとコジマのように突き出る岩には苔が生えている。

 どこまで行けども、果てしなく草原と青空は途絶えない。

 この世界のどこかにあるかもしれない。でも、どこにもない風景。

 小高い丘の上に人影が立っている。一人の少年が手を振った。虫取りの網にカゴを持ち、麦わら帽子をかぶっている。

 歩も手を振って返そうとしたら、少年の姿が変わった。足や体が伸びて、精悍な若者に成長する。半袖のワイシャツを着て、紺色のズボン姿、少年の面影を残しつつも、眼鏡の奥には賢さと優しさの光りを宿している。

 いくら歩いても、青年との距離は縮まらない。しかし、彼はいつまでも丘の上で待っていた。まるで、この大草原を思わせる眼差しはどこか、悲しげであった。

 ここには、こちら側の苦しみは一切ない。そして何もない。絵本の世界に似ている。主人公が最後に幸せになり、閉じられる最後のページをそのまま切り取ったようだ。終わることもないし、何かが始まる訳でもない。

 青年の顔立ちと遺影が重なった。

 そして、歩は元の病室に立っていた。涙と鼻水は顔中を濡らしていた。

「何を見た?」

「きれいな場所だった。そこに人がいた。この人の亡くなった旦那さん、一良さんだったかもしれない。きっと、そうだ」

「わしは以前、この人に似たような者に会うたことがある。そやつは人里離れた山小屋で一人寂しく暮らしていた。世捨て人のようにな」

「その人にも憑りついたの?」

「すべて無駄じゃった。最初は仙人の修行でもしているのかと思った。じゃが、ようやく気づいたのだ。その者の幸せは、わしらでは決して与えられんとな」

 幸子は寝息を立てる三重子の顔をタオルで拭いてやる。

「お前の目にはみじめに映ったであろう。毎日が同じ繰り返し。ささやかな楽しみもなく、驚きもなく、ただ無為に過ごす日々。思わず手を差し伸べる気持ちも分かる。じゃがな、この人は不幸ではなかった。なぜだと思う?」

 歩は分からずに首を横に振るしかなかった。

「一切の未練がないからじゃ。辛い過去も幸せな思い出も、人生の長い道のりを歩いてきた。もう何も望むものはない。この人は今、ただ待っている。心に浮かべる草原の野で、大切な人と再会するその時を」

「三重子さんは死にたいと思っているの?」

「今のお前には少し難しい。人を交わっていけば、少しは分かるようになるかもな。いずれにせよ、これで分かったであろう。関係のない者の幸不幸を気安く操れば、どんな結果を生むのか。務めに私情を挟んで、余計に人を不幸にしてからに。この、未熟者のノタバリコが!」

 幸子は最後に一喝した。歩は言い訳などできなかった。自分のせいで人が死ぬところだったのだ。

「急いであの家に戻れ。自分の間違いを修正しろ。今なら間に合う」

「はい」

 歩は病室を後にした。


       7


 三重子の家では、ちょうど、夫妻が引っ越しの準備に取りかかっていた。先ほどのタンスや棚を外に出し終えている。三重子が病院に運ばれたのを知ったはずなのに、急いで駆け付ける様子はなかった。

「お母さんが倒れたそうね。悪い言い方だけど、これで一人暮らしは危ないって、言い訳ができるわ」

「危ないから、施設に入った方がいいって言うつもりか?」

「あなたのお母さんでしょ。一人暮らしをさせるよりも、安全な施設にいた方がいいの。こちらの負担も減るしね」

「なあ、早苗。もう少し我慢できないのか?」

 茂は気弱そうに聞くが、早苗の決心は強く、夫の提案には耳も貸さない様子だった。

「お義母さんを施設に入れたら、今度はこの家の土地を売る。できたお金を子供達の養育費に当てる。その方が有効的というものよ。年寄りがさ、お金を持ったまま、長生きするのは、私達からすれば不公平じゃない」

「だがな……」

「しっかりしてよ、あなた。病院に運ばれたのは、あの人の不注意じゃない。私達がいてもいなくても、いつかは起きたはずなのよ」

「確かにそうだが。余りにも突然な気がする」

「私達には三人の子供がいるのよ。新しい家を買うお金があれば、みじめなマンション暮らしから脱出できるし、暮らしも楽になるし」

 茂は肩をすくめると、電話をかけて施設の入居を申し込もうとした。

 しかし、歩が電話線を抜いて、通話ができなくなった。

「あれ?」

「どうしたのよ」

「電話がつながらないんだ」

「本当にオンボロみたいな家ね。電話もろくにできないのかしら」

 今度は縁側の障子を力いっぱいに締めた。早苗は悲鳴を漏らした。

「何よ、急に。誰か悪戯をしているの? それとも、立て付けが悪いのかしらね」

 一良の遺影をカタカタと鳴らした。

「うわっ親父の写真が動いてる! 幽霊だ。この家には幽霊がいるんだよ」

「風のせいよ、きっと。幽霊なんかいるはずがないでしょ!」

 二人の後ろの襖を勢いよく開けた。茂が弾かれたように腰を抜かした。歩は台所のテレビをつけた。ちょうど、タイミングよく怖い映画を放送していた。歩は髪の長い幽霊の声を吹替えしてみせた。

(出て行け。この家から出て行けえぇ!)

「まさか、そんな」

 間髪入れず、次は家の中を走り回った。妖怪の図鑑に出てくる家鳴りの真似をする。家の家具を動かしたり、音を立てて住人を驚かせたりする妖怪。まさか、自分が妖怪の真似をして、人を怖がらせる側になるなど夢にも思わなかった。

「な、なんだ。まさか、幽霊が本当にいるんじゃないのか!」

「欠陥住宅に決まってるじゃないの。そうよ、この家はぼろいのよ」

「誰がぼろい家だと!」

 歩は怒鳴って、お茶碗や薬缶を手に持って走り回った。慌てて逃げる二人。棚から本を取り出すと、羽ばたく鳥のように飛ばして見せた。

 子供達がちょうど部屋に入ると、部屋の惨状と怪現象に妹が悲鳴を上げた。少しかわいそうな気がするが、池にいたガマガエルを持ち上げて、少女の顔の前にくっつけた。悲鳴を上げながら走り回った挙句、兄達にぶつかって転倒した。

「ここは三重子の家だ。お前達に用はない。さっさと出て行け!」

 腹の底から絞り出した声が家中に響き渡った。

「分かりました! 出て行きます。すみませんでした!」

 茂と早苗は子供をおんぶさせながら、荷造りする間もなく、一目散に玄関から出て行った。歩は家の中を片づけて回る。

 しばらしくしてから、車いすに乗った三重子が帰ってきた。車いすを押していたのは、幸子だった。

「ありがとうね、お嬢ちゃん。この辺では見慣れないね。少ないけれど、お礼をもらってちょうだい」

「私は当然のことをしただけです。それより、どうして、家の中がきれいですよ」

 和室を塞いでいた棚はすべて外に放り出しておいた。

「あらそうね。助かったわ」

「息子さん達からの伝言です。おふくろは一人暮らしの方が似合っているから、俺達は帰る、とのことです」

「昔からせわしい子なの」

 三重子は元の縁側に戻ってきた。畳に残っていたガマガエルを幸子が持ち上げて、池の中に戻した。同じ顔なので、歩は笑みをこぼすと、彼女の怖い顔に睨まれた。

「本当にお礼をだけでも貰ってちょうだい。今時の子供で、あなたほど真面目な子を知らないの」

「ご主人に何か供え物でも買って下さい。それと、おばあさんも生きがいを見つけて下さい。その方が、亡くなったご主人さんも喜ぶと思います」

「ありがとうね。でもね、あの人がいなくなってから、残りの人生がおまけのようにしか思えないの。今さら、何かを始めるには私は年を取りすぎた。明日にもお迎えが来るかもしれない」

「これからですよ。今日から始められる楽しみだってあります」

「そうね。そうかもしれないわね」

 三重子はまたうとうとし始めた。まるで、年を取った眠り姫である。

「よく寝る人だね」

「寝る子は育つ。こういう人ほど先は長い。さあ、行くぞ」

 幸子と一緒に三重子の家を後にした。駅前の公園でブランコに座りながら、駅の向こうの空へ落ちようとする夕日を眺めていた。

「僕は余計な事ばかりした。天音も、あの人も。そう言えば、天音はどうなったの?」

「元に戻った」

 歩が思い出すのは、暗い部屋にたまるゴミ袋の地べた。すえた臭いに、這いまわるゴキブリ。心を閉ざした瞳。

「あいつの場合は、お前のせいではない。運というのはな、行ったり来たりするものだ。いつも、同じ人の元にはない。人は真面目にひたむきにいれば、死ぬまでずっと不幸のままとはならん」

「幸子さん、僕はこれからどうすればいいかな?」

「歩け。そして、足の止まった先の家のために力を使え。今のわしにはそれしか言えない。だが――三重子の家には少し注意してやれ」

「でも、あの人には力を使っても意味がないって」

「事情が少し変わった。一本の川が二又になった。余計なことをしたかもしれんが、あの人は何かを悟ったのかもしれん」

「何か?」

「何歳になろうと、一人はやはり寂しいということじゃ。お前は気づかなかったか。家の中にある気が透明なものから、色が加わったぞ。あの人には近く何かが起こる気がする。良いことかもしれんし、悪いことかもしれん。じゃが、このままでは終わるまい」

 夕日に染まった電車が出発する。自転車に乗った主婦に混じって、いつものようにカートを押す三重子がスーパーへ入っていった。

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