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三重子 ①

 

          1


 歩は知らない町にいた。

 生まれ育った町を出てから、幾日か経った頃だろうか。電車を何回キセルしても、駅員に見とがめられる心配もなく、一日近く電車に揺られ続けた。やがて、乗客もまばらになったところで、歩は電車を降りた。稲葉という名の駅で、ホームには人の姿は数人くらいしかいない。

 駅前にはロータリーを隔てて小さな公園、手前の右手には小さなスーパーが建っている。

 太陽が焼きつける中、歩の足は公園の中に入った。園内に立つケヤキの幹には、クマゼミがびっしりとはりつき、絶え間なく合唱をかき鳴らしている。朝から降り続いていた雨はすでに止んでおり、地面に水たまりを残すだけであった。

 公園で休むこともなく通り抜けると、そのまま住宅街へ向かう。なんとなくという気分の通り、一見足は適当に進んでいるようだが、そうではない気が歩にはした。一度思い立った場所に向かうと、足取りが軽くなり、方向が違うと進む気がなくなるのだ。なので、常に軌道修正ながら、一本の道を歩んでいるようだ。

 住宅街に建つのは、古い木造家屋ばかりだった。車も通れないくらい道幅は狭く、家と家の隙間には祠がある。古い手すりの石段を上がり、曲がるくねった道を歩いていると、どこかの家の玄関にぶつかった。見えない壁に当たったように、足が左右に向くことはなかった。

「ここかな」

 門と塀の木は腐りかけ、ささくれ立っている。門の片方は蝶番が外れているせいか、すっかりガタついている。表札がなければ、空き家と間違える。

 表札は『谷原』とある。下の名前には『一良』と『三重子』。おじいさんとおばあさんの二人暮らし、となんとなく家人を想像しながら、歩は門をすり抜けて、家の中に入った。

 今度は慎重にやらないといけない。

 雑草の目立つ庭を通り、玄関から中へと足を踏み入れた。薄暗い廊下を進んで、畳の部屋に入ると、縁側に誰かがいた。一人の老女が腰かけて、庭に咲く松をボンヤリと眺めていた。おそらく表札にあった『三重子』だろう。

 しわの目立つ手で椅子のひじ掛けをさすりながら、時折、丸い顔を天井に向けてこっくり、またこっくりと傾けている。銀色の眼鏡をしている顔は小さく穏やかで控えめ。片目は少し白く濁っている。最初は眠っているように見えたのだが、小さく息を吐くと、壁にかけられた振り子の時計を確認した。

「そろそろ買い物に行かないとね、あなた」

 隣に立っていたので自分に話しかけられ、さすがに歩は驚いた。振り向くと、壁の上にかけられた遺影があったので、それに向かって言ったのだろう。白黒の遺影に映っている一人の青年。この人が一良だろうか。それとも、おじいさんの昔の顔を選んだのか。

 三重子がゆっくりと立ち上がった。歩は一緒についていくことにした。

 彼女は家を出ると、ゆったりとした動きでシルバーカートを押して、さっきの階段の前まくると、カートを折りたたみ、手すりを持ちながら一段ずつを降りていく。歩の足でも五分もかからない道が、三重子は三十分もかかった。

 さっきの公園まで着くと、ベンチに座って汗を拭きながら一休みした。

 それから、隣にあったスーパーに入った。月曜日の夕方だけあって、店内は客でごった返している。カゴを満載にしたカートの列が奥まで続いている。三重子は自分のペースで、奥にある総菜コーナーで適当に選んで、レジの行列の最前列に並んだ。機械仕掛けの人形みたいに、不平も笑顔も見せない。レジで精算している時も三重子はマイペースぶりで、レジ係のおばさんも不機嫌そうな顔を浮かべていた。

 帰り道ではさすがに疲れたのか、少し進んではカートを止めて座って、また進んでは休んでを繰り返す。周りに夕闇が落ちかけて、青い光りが地上を照らし始めている。家に着くのは明日の朝になるのではないかと、歩は不安になった。

 三重子が電信柱の真横で腰を落ち着かせようとした時だった。暗がり道の向こうから光りが近づいてくる。

 何やら嫌な予感を抱いた。なぜなら、光りから黒い筋が伸びていて、その先が尖っていた。針の先は三重子のカートを刺し貫いている。人の目に見えない気の糸が、歩には不吉な色に感じた。反射的にカートを電信柱の後ろに動かした。

 バイクから伸びた手が空を切り、「おわあぁ!」と叫びながら側溝の泥をはね上げて、運転手とバイクが転倒した。全身黒い服装のそいつは慌ててバイクを持ち上げると、そそくさと逃げ去った。

 どうやら、ひったくりをしようとしたらしい。ここに自分がいなければ、三重子はお金を取られた上に、取り返しのつかない怪我を負っていたかもしれない。

「はて。何かすごく大きな音がしたわね。早く、帰りましょうね」

 自分に言い聞かせるように、彼女は帰路に就いた。

「少しは感謝してよね、おばあちゃん。僕のおかげで助かったんだから」

 夜の七時を過ぎた頃、三重子と歩はやっと帰宅した。四時くらいに出かけたので、大方三時間かかったことになる。

 ため息交じりに呆れながら、歩は三重子の静かな夕食を見守っていた。ものを食べる時はしっかり噛みなさい。歩は小さい時からそう教えられていたが、三重子は何度も噛みながら食べていたので、食べ終わる頃には九時になっていた。

 その後はボンヤリとテレビを眺めながら、うたたねを繰り返した後、やっと浴室に向かったのが夜中の十一時。布団に入る頃には日付が変わっていた。

 とりあえず、家の中をぶらぶらと歩いてみた。

 ちなみに、歩は眠くならない。座敷わらしになってからというもの、食欲はないし、眠気もない。歩きすぎて疲れる心配もない。便利だと思ったのは最初だけで、この世界から取り残されているようだった。

 ふと、悲しい思いにとらわれた。気がつくと、目から涙があふれ出ていた。両親が恋しくなったのもそうだが、同時に三重子がとても気の毒に思えてきた。日がな一日ボンヤリと家の中を過ごし、一人でその日の食べ物を買いに出て、誰とも話さず関わらず、一人で寂しそうに暮らす姿は、孤独そのものだった。

 もしも、今も旦那さんが生きていたら、少しは明るい老後を一緒に過ごしていたかもしれないのに。

 どうにかして、三重子の無為な日常に彩りをもたらす方法はないものか。座敷の中を周りながら、色々な幸せのプランを考えてみた。

 いったん家の外に出てから、道端に転がっている色球を探した。新しい出会いを与えたらどうだろう。素敵なおじいさんと再婚させて、第二の人生なんかを。歩は首を振った。額縁の中でほほ笑む一良さんに申し訳ない。

 では、金運をもたらして、この家をリフォームさせて、リッチな老後を送らせて、とも思ったものの、これも気が進まない。三重子の暮らしは質素だが、取り立てて貧しいわけでもない。たやすくお金持ちにさせるのは、天音の失敗で懲りている。

 もっと別の幸せがあるはずだ。お金では買えない幸せ。そんなものがこの世界にあればの話だが。

「ああ、くそ!」

 頭をかきながら、廊下の天井を歩いた。逆さになった世界を眺めつつ、アイディアを考えるが、あまり効果はない。

 歩は一旦あきらめて、台所のテーブルに座った。テレビをつけてやる。普通の人からすれば、勝手に点いたように見えたかもしれない。半裸のお笑い芸人がクネクネ踊っている。つまらないのですぐに消して、テーブルの上に胡坐をかいた。

 その時、テーブルの端に置いてある写真立てが落ちた。物音で三重子が起きてしまったかと心配して電気を消した。幸い、起きてくる様子はない。

 歩は写真立てを直した。庭先の縁側で、三重子の隣に男女と子供が三人座っている。息子か娘の夫婦とその子供達だろう。

 しばらく目を凝らしていると、なんと、被写体の三重子達が動き出した。小さなスクリーンみたいだった。これも座敷わらしの力か。

「おふくろ、そろそろ一緒に暮らそうぜ。早苗も面倒を見るって言ってくれているんだ」

「そうよ、お母さん。私も茂さんも本当に構わないの。子供達もね、お母さんと一緒にいたいって言っているわ」

「ありがとう、二人共。でもね、わたしはこの家が好きなの」

 息子夫婦が優しく三重子に話しかけているのが聞こえる。

 子供の「おばあちゃん!」と元気よく呼びながら、庭先を走り回っている。

 歩は写真立てをテーブルに置いた。今までの幻覚を頭の中で整理する。三重子には、息子の茂と嫁の早苗がいる。孫が三人。いずれもおばあちゃん子ばかり。

 彼らがこの家に住むならどうだろうか。きっと、家の中は今より賑やかになるし、三重子は一人ぼっちの毎日を過ごさずに済む。もう、買い物で時間を駆けなくてもいいし、ひったくりに合う危険も減る。それに、こういった一人暮らしの老人は、詐欺師に騙されてお金をだまし取られるってニュースでも目にする。

 家族と一緒に住んでいたら、三重子もきっと安全に違いない。

「よし。この作戦で行くぞ」

 歩は三重子の家を出た。ポケットに入れていた赤玉を握りつぶし、粉を地面に吹きかけた。すると、一本の道に赤い線が浮かび上がった。迷路の答えと同じだ。こいつをたどれば、息子夫婦の家にたどり着くだろう。さっそく、彼は走り出した。

 夜はとうとうと更けていく。やがて、暁が山の向こうから頭を出す頃、目的地の家にたどり着いた。

 三重子の家に戻ったのは、それから二日後のことであった。


          2


「はいはい、お待ちどおさま。どなたですか――」

 門を開けてゆっくりと出迎えた三重子は、ハトが水鉄砲をくらったような顔を来訪者に向けた。退屈気ままな日常で一番のアクシデントに違いないと、歩は思った。

「おふくろ、久しぶり」

「茂、それに、早苗さんまで。一体どうしたの?」

「実は、おふくろに大事な話があるんだ」

 三重子はとりあえず息子夫婦を家に入れた。皆に紛れて、歩もついていく。

 今から二日前、三重子の家から伸びる赤い線を頼りに、何十キロも走り続け、電車と新幹線を乗り継いで東京まで赴いた。出発した夜が明け、また夜になった頃、谷原一家のいる古いマンションの一室を着いた。

 谷原家は、子供が男の子二人と女の子一人といるので、夜中だというのに大変騒がしかった。壁には落書きがあり、襖も破れている有様だった。

 とりあえず、谷原夫妻に三重子を思い出させなくてはいけない。方法は簡単だ。リビングでテレビを見ていた夫妻の前で、歩は三重子と茂らが映っている写真を、指で押して何度も倒してみせた。茂が直すたびに、歩は真横でささやいた。

「おふくろ、大丈夫かな」

「おふくろ、大丈夫かな?」

 茂がおうむ返しで答えながら、ビールをちびちび飲み始めた。あと少しだ。

 今度はテレビのチャンネルを変えた。早苗が不審に思いながら戻そうとすると、ちょうど、新聞でチェックしておいた特集が流れていた。

(お年寄りの一人暮らしは不便であるのみならず、危険がたくさんあります。オレオレ詐欺、ひったくり、病気、認知症、孤独死……お年寄りの暮らしに詳しい、コメンテーターの実ノ森歩さんはどう思われますか?)

(そうですねえ、今こそ家族の見守り、絆が必要だと思います。例えば、家族が一緒に住んであげるとか)

 テレビに映る背広姿の歩は、視聴者の早苗と茂に力説する。テレビの後ろからに顔をうずめて、思い描くだけで番組の出演者に扮することもできた。

(大切な家族を一人にさせない。寂しい思いをさせない。それが一番大事です。うん、大事。僕なら明日でもおばあちゃんに会いに行きますね、はい)

(よく分かりました。以上、座敷わらしの生活相談室でした)

 番組が終わると、茂は小さくうなずきながら残りのビールを飲みほした。

「よし決めたぞ」

「何を決めたの?」

「なあ、早苗、おふくろと一緒に住もう」

「私もそう思っていたところなの。でも、お母さんは一度断ったじゃないの?」

「分かっている。おふくろはあの家から離れたくない。亡くなった親父との思い出がある、あの家を終の棲家にしたいのさ。じゃあ、俺達がおふくろの家に住めばいいんだ」

「でも、うちの子たちの学校はどうするの? あそこの町は何もないわよ」

 タイミングよく、早苗のひざ元に画用紙が降り立った。

「まあ、これは。あなた、見てよ」

「これはいいな。あの子たちもおふくろと一緒に居たいみたいだ」

 その画用紙には三重子の似顔があった。歩は家族がいないうちに一人で書いておいたのだ。良太、光太、絵美、それぞれ三兄妹の名前も添えてあり、合作で書いたように装った。

「早苗、色々不自由を駆けるかもしれないが、よろしく頼む」

「私は構わないわよ。住めば都っていうし。あなたを小さい頃から育てた人ですもの。一人にしておくわけにはいかないでしょ」

「ありがとう。明日はちょうど日曜日だし、子供らを連れてさっそく会いに行こう。おふくろ、きっと驚くぞ」

 そして、翌日の正午、歩は一度憑りついた家に戻ってきた。遠出をしても、歩自身が出て行くと心に決めない限り、座敷わらしとしての効力は保たれる。座敷にて、夫妻のためにお茶を出そうとする三重子に、早苗が優しく手伝った。

「私がしますから。どうぞ、お母さんは休んでいて」

「でも」

「おふくろ、実は折り入って相談がある」

 茂は仏壇に手を合わせた後、開口一番に言った。

「以前、一緒に住もうと提案したのは覚えているだろ。あの時、おふくろは断ったけど、俺達はどうしても心配で仕方がない」

 夫妻はお互いに目配せした。

「そこでだ、俺達もこの家に住むっていうのは、どうだろうか」

「え、ええ、はあ」

 三重子は最初、息子の言葉を聞きそびれたように思えた。

「俺達がここへ引っ越そうと思う」

「あなた達がこの家に?」

「そうだ。おふくろがこの家に住みたい気持ちは分かるよ。親父との思い出があるもんな。でも、おふくろだってもう若くない。色々と不便があるだろ。だからと言って、俺達はおふくろの暮らしをあまり変えたくない。なるべく、今のままで、かつ、少し楽に思えるようにしてあげたいんだ」

「茂」

「今までろくに親孝行をしてやれなかっただろ。頼む、今のうちに孝行息子をさせてくれないか。これを見てくれ」

 そう言うと、茂は例の画用紙を見せた。ちなみに、子供達は庭の中を駆けまわっている。一番上の子はダンゴムシを踏みつけていた。小さい子はしし落としを無理やり上下させている。次男はゲームに夢中だった。

「あの子達が描いたものだ。学校や幼稚園は遠くなるが、なあに、すぐに慣れるさ。な、おふくろ、この通りだ。俺達に甘えてくれ」

「お母さん、みんなと一緒に暮らしましょう」

「茂、早苗さん、でも、わたしは」

 三重子は何かを言いたげだったが、飲み込むように口をつぐんでしまった。それを承諾と受け取ったのか、夫妻の目は輝いた。

「いいだね、おふくろ!」

「いや、その、あの、わたしは――」

「よかった。よし、今日から六人家族だ。やはり、核家族はダメだ。おじいちゃんおばあちゃんもいて、大家族の方がにぎやかになる」

 こうして、三重子の家は一気に五人の家族が増えた。これからどうなるのか、歩は心を躍らせた。

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