牛の乳首
男性の乳首が肥大化するお話です。ご安心ください。
ある日の夕食のことだ。食卓を囲む三人の家族がいる。
小学4年生の聡志は父親にこう尋ねた。
「ねえお父さん、牛乳を飲めば背が伸びるって聞いたんだけど」
クラスの中で一番身長の低かった聡志は、いつも学校でチビなどと呼ばれ、からかわれる日々だった。そんな聡志がこんな風に言うのも不思議なことではなかった。
にもかかわらず、父親は口を曲げて困った表情を見せた。と思えば、その横で二本の箸が机に落ちる音が鳴った。
隣に座っていた母親が顔をこわばらせて硬直しているではないか。
「聡志! 牛乳は飲んじゃ駄目ってあれほど言ったじゃないの! 牛乳だけは駄目なの!」
目を吊り上げ金切声で叱りつける母親は狂気すら帯びていた。聡志は目を机に落とし息を吐く。やはりか、と思うのだった。
幼い頃から何度と言われていることだったからだ。
牛乳だけは駄目。
母親の家系は呪われているというのだ。祖父の祖父の代から、牛の乳を飲むとその呪いが現れると伝えられていた。ゆえに母親はその言い伝えを忠実に守り牛乳を飲んだことがないという。
「分かってるよ。呪いでしょ。でもさ、そんなのもう解けてるかも――」
「駄目よ! 絶対駄目なの! 二度とそんなこと考えないでちょうだい!」
母親は有無を言わさぬ態度で聡志の言葉をさえぎる。毎度この話題になると駄目の一点張りだった。
しかるに聡志はしぶしぶその希望を押し込めるざるをえない。
聡志は不服だった。駄目だ駄目だとただきつく言われるばかりで、詳しくは何も教えてはくれないのだ。実際に何が起こるとも聞いてはいなかった。そんなものはただの言い伝えで、本当のところは呪いなど何もないのではないか。そんな疑念を抱きながら、聡志は静かに夕食に手をつけた……
またある日のことだ。
水道の故障のため、聡志と両親は銭湯へと足を運んだ。
聡志は父親について湯舟につかった後、サウナへと連れられて行く。初めてのサウナに聡志はすぐに息苦しさを覚え、父親を置いて先に出ることにした。
一人脱衣所に戻り、ロッカーを開けタオルを取り出す。タオルで体を拭いていると、となりで、
グビッグビッ
と喉を鳴らす音が聞こえた。
タオルを腰に巻いた老人が腰に手をあてて美味そうにビンに入った牛乳を飲んでいたのだ。聡志がその老人の姿に目を奪われていると、老人と目が合った。すると老人は、飲むのをやめて牛乳ビンを聡志に差し向けた。
「ほれチビッコ。風呂上がりには牛乳が一番やぞ。飲んでみい」
聡志は差し出されたままに牛乳ビンを受け取った。冷えたビンの手触りがほてった体に心地よかった。そのビンの中味を口へと運ぶこと以外には何も考えることができなかった。
赴くままに、ビンのふちに唇をあて、流し込んだ。
不思議なことに、片手は腰に手を当てていた。
グビリ、グッ、ブハッ
余りに夢中になって慣れない飲み方をしたために、牛乳を喉の反射で吐き出してしまった。
息を整えると、鏡になっている壁に映った自分を見た。不思議なことに鼻から白い液体が垂れていた。
聡志はその自分の姿を見て思った。
母親の言っていた呪いはこれだ、と。それはあまりにもみっともない姿だった。
牛乳を飲むと鼻から白い液体を垂らした姿になること。そういう呪いだったのだと確信した。
確かに、学校の連中に見られたら存分にからかわれるだろう。
聡志はタオルを手にとり、鏡を見ながら顔を拭こうとする。がしかし、そこにはトンデモないものが映っていた。
となりにいた老人だ。胸から異様な突起が出ているのが見えた。
驚いて鏡から目を離しとなりの老人に振り向く。目の前にそれはあった。
ブルンッ
胸から突き出した、それはそれは巨大な乳首だった。
男性のとか女性のとかそれどころの大きさではない。手のひらで握れるほどの大きさの乳首だった。
いっそのこと握ろうか。いや、
――搾ろうか。
聡志は魅せられたようにその巨大な乳首に手を伸ばした。
「ひやっ!」と老人は両手で胸を覆った。
そのすっとんきょな声に聡志は、はっと我にかえることができた。同時に、己が今他人の乳首を勝手に搾ろうとしていたことを悟った。
恐ろしかった。巨大な乳首以上に、搾ろうとしている自分自身が恐ろしかった。
少し落ち着きを取り戻し、周りを見てみるとそれはその老人だけではなかった。脱衣所にいる男達みなの乳首が巨大化していた。異様である。
ただし、垂れ下がっているものは誰にもなかった。みなしっかり立っていた。それらの巨大な乳首に恐怖しているのは聡志だけだった。
そして何よりも、「こんな沢山搾れるかよっ」と口走ってしまった自分が恐ろしかった。
逃げ出そうと、聡志は急いで服を着て、脱衣所から出ていった。そのとき、通路で追い越したおじさんを横目に見てしまった。おじさんはTシャツの胸の部分がツンと出っ張っていたうえに裾からおへそが見えていた。おじさんはへそ出しルックだった。
聡志はその恐ろしい光景に目をそむけた。さらに気が動転したためだろう、足をもつらせて転んでしまった。不思議なことにTシャツをツンと尖らせへそ出しルックたおじさんは鼻歌を歌いながら見て見ぬふりをして通り過ぎて行った。
いったい何が起こっているんだ。
聡志はいろいろと気持ち悪くなって胃の中のもの吐き出し、そして気を失った。不思議なことに鼻から白い液体を吹き出しながら……
目が覚めたのは病院のベッドだった。
心配そうに見つめる父親の顔が目に映った。
「気づいたようだ。聡志、気分はどうだ」
聡志はとっさにその父親の胸に目をやった。
「お父さん! 胸見せて!」
聡志がベッドから起き上がろうとするのを父親は肩をつかんで抑えた。
「聡志、落ち着くんだ。ああ、きっと悪い夢を見たんだな」
父親はいつも通りの姿だった。それでも聡志は興奮を抑えられない様子で声を張る。
「お父さん! あのね、乳首が! みんなの乳首が!」
父親のとなりにいた母親が身を乗り出した。
「聡志……」
「お母さん! 乳首がね! みんなの乳首が!」
「おおおお黙りなさい!」
母親が厳しい声で聡志を制した。聡志は息を飲み込んで黙り込むしかなかった。
「あなた、牛乳を飲んだわね」
問い詰めるような母親の視線に、聡志は眉尻を下げ、視線を落とした。
「うん……、そう。ごめんなさい」
「何があったかは言わなくていいの。だから、もう牛乳は飲まないと言って」
「うん……、分かったよ。もうあんなのはイヤだから」
それを聞くと、母親は頬を緩めてゆっくりとうなずいた。
母親は何度もうなずき、聡志は天井を見つめ心の整理をした。
三人は聡志の無事を噛みしめるようにして、静かな時が流れた。
しばらくして聡志はふと父親の視線を感じた。
「な、なあ……、聡志……」
沈黙をやぶり、父親が神妙な声で言った。
「ところで……、いったい、どんな呪いだったんだ……」
聡志はガバッと体を起こした。
「お父さん! あのね! 乳首が! みんなの乳首が!」
「黙りなさい!」
「でもお母さん! すごいんだ! 乳首が! みんなの乳首が!」
「黙りなさいと言ってるでしょ!」
「でもほんとに! すごかったんだ! 乳首が! みんなの乳首が!」
「いい加減にしなさい!」
「乳首が!ち――」
「乳首乳首うるさあああい!! 二度とその話をしないでちょうだい!!」
「ちく……」
「黙りなさい!」
(了)
ありがとうございました。
特に深い意味はなく、その言葉を違和感なく連呼するための小説です。牛乳に恨みもありません。
怖がっていただけたなら嬉しく思います。