2-1
バーンズは自分の心に燻るどす黒い感情を必死に押し殺していた。
大きな姿見の鏡を前にして、彼はそこに映る自分を静かに睨みつけている。
燃え上がったような赤い色の髪をオールバックに纏め、乗馬服をベースにデザインされた治安部隊の制服を身にまとっている。左胸には無数の勲章が輝いており、右腰には銃のホルスター。そして左腰には黄金の装飾が施された剣が吊られている。
「――落ち着け、バーンズ。私情に捕らわれるな」
バーンズは鏡に映る自分に向かって静かに呟く。
「初心を思い出せ。失敗を恐れるな。冷静さを失うな。戦場では自分を見失った者から命を落とすのだ」
バーンズは鏡に向かって何度も呟く。やがて目を閉じると大きく息を吐いた。
「私はもう大丈夫だ。いつもの私に戻るのだ」
そう言ってそっと目を開く。そこには冷静沈着ないつもの自分が映し出されていた。
バーンズは再び息を吐くと、部屋から出た。赤いカーペットが敷かれた廊下を進んでいき、目的の部屋に向かう。
「――ですから決して貴殿の御子息との婚約を破棄したいということではございませぬ。来週までには戻ると手紙にもあります」
部屋の中から話し声が漏れてくる。バーンズは扉の前で小さく咳払いをし、軽くノックする。
「勿論、私としてもブライアン殿の言葉を疑いたくはありません。しかし既に良からぬ噂も流れていて――」
バーンズが扉を開けると、中にいた人物が驚いた様子でバーンズを見た。話に夢中でノックが聞こえていなかったようだった。
「バーンズか。まだ話し中だ」
その内の一人がバーンズに向けてそう言った。短く刈った赤い髪と鋭い目。バーンズと同様の軍服を身に纏っている。その顔からは感情が読み取れない。
彼の名はジェームズ・アルバード。バーンズの父親だ。見た目からは厳かな雰囲気を醸し出しているが、憲兵としての階級はバーンズよりも下である。ジェームズ自身がそれを誰よりも理解しており、多大な功績を上げた息子を誇りに思うと共に、妬ましく思っていることをバーンズは知っていた。
「お話し中のところ、失礼します。父上」
そう言ってバーンズはゆっくりと頭を下げた。
「やあバーンズ君。お元気そうで」
ジェームズの向かいに座る男性が、微笑を浮かべながら言った。恰幅が良く、人の良さそうな顔つきで、高級なスーツに身を包んでいる。口調は穏やかだが、その表情は少しやつれ気味だった。
彼の名はブライアン・ラパロ。フレアの父親だ。
「ミスター・ブライアン。お久しぶりです」
バーンズはブライアンに丁寧に頭を下げる。そしてジェームズに向き直ると静かに口を開いた。
「父上、婚約者の事なのですが――今回の問題の解決、私に全て任せてはもらえませんか?」
バーンズの言葉を聞いて、ジェームズは眉をひそめて尋ねる。
「問題の解決とは?」
バーンズは頷きながら言葉を続ける。
「独身の内に最高の遊びをというのは、昔から貴族の方々もよくやっているものです。今回のミス・フレアの行動も同じものでしょう。まさかお供も連れずに一人旅に出るのは予想外でしたが――これも若気の至りという奴です。私にもミス・フレアの気持ちが分かります」
バーンズの言葉にブライアンは戸惑った表情を浮かべている。バーンズは安心させるように温和な笑みを浮かべる。
「ご安心下さい、ミスター・ブライアン。私があなたの御息女を連れ戻してきます。アルバード家の名に懸けて」
そこまで言ってバーンズは深々と頭を下げた。ジェームズとブライアンはどちらも困惑した表情を浮かべていたが、やがてブライアンが小さく頷きながら口を開いた。
「分かりました。バーンズ君。君を信じよう」
「良いのですか?」
ジェームズの言葉にブライアンはニッコリと微笑みながら頷く。
「娘の夫となる者の言葉だ。何を疑問に思うことがあろうか。それに娘にはこれまでずっと窮屈な思いをさせていた。何の相談も無く旅に出てしまったのもそれが原因だろう」
ブライアンはバーンズに向き直る。
「どうか娘を頼んだぞ」
ブライアンの言葉にバーンズは力強く頷いた。
「さあ後は若い者に任せましょう、ジェームズ殿」
ジェームズに向き直ってブライアンが言った。バーンズは再び一礼し、部屋を後にした。
部屋を出たバーンズは階段を下り、まっすぐに屋敷の外へと向かう。途中で何人かのメイドとすれ違うが皆一様に好奇に満ちた視線をバーンズに向けていた。
「…………」
バーンズは胸の奥にこみ上げるものを必死に抑えながら早足で外に出た。やがて視界に私用の車が映りこむ。傍らにはバーンズと同様の軍服を着用した女性がいた。襟首で切りそろえた茶色の髪を指で弄りながら、メイド達と何やら話し込んでいる。
「ここだけの話なんですけどぉ、これから隊長と一緒に婚約者を捕まえに行くんですよぉ」
「えぇ!? バーンズ様が婚約者に逃げられたって噂、本当だったんですか!?」
「本当、本当。まぁ、仕方ないですよねぇ。あんな真面目だけが取り柄の、つまんなそうな男、私でも逃げ出すわ」
軍服の女性は肩を揺らして笑っている。メイド達もそれに合わせて愛想笑いを浮かべているが、女性の背後に立つバーンズに気付き、その顔が一瞬にして青ざめた。
「ていうかぁ、私まで付き合わされるとか意味不明ですよぉ。自分の嫁なんだから自分で迎えに行けっての! 本当、何であんな奴の部下にさせられてるのか――」
「――シクレ」
バーンズが低い声で名を呼ぶと、軍服の女性――シクレは肩をびくっと震わせ、ぎこちない仕草でゆっくりと振り向いた。前髪の間から覗く黒い瞳が、バーンズに向けられる。
「屋敷に変な噂を広めたのはお前か?」
バーンズが低い声で尋ねる。シクレはぶんぶんと首を横に振りながら口を開く。
「ちちち、違いますよぉ。私がそんなことするわけないじゃないですかぁ」
シクレは両手をパタパタと振りながら言った。その様子に、バーンズは呆れたようにため息を吐く。
「……出発の準備は出来ているか?」
「勿論ですよぉ、バーンズ隊長!」
シクレは取り繕った笑顔を浮かべて敬礼した。そして逃げるようにバーンズから視線を逸らし、運転席に乗り込んでいく。
バーンズは再びため息を吐くと、シクレと話していたメイド達に屋敷に戻るよう顎で促した。メイド達は申し訳なさそうに一礼すると屋敷の方へと走っていった。バーンズはそのメイド達の背中を見送る。
「ん?」
屋敷に視線を向けたところで、バーンズはある違和感に気付き、眉をひそめた。視線をわずかに上げ、屋敷の窓を注視する。二階、廊下の突き当りの窓――そこにバーンズをまっすぐに見つめているメイドの姿があった。顔は良く見えないが、微動だにせずに、まるで監視しているかのようにじっとこちらを見据えている。
「……あいつ、何を――」
「さぁ、バーンズ隊長、出発しましょう!」
目を凝らそうとしたところでシクレに声をかけられ、バーンズは一瞬背後を振り向く。そして再び窓に視線を向けた時、メイドの姿は消えていた。
「…………」
バーンズは小さく首を横に振ると、屋敷に背を向けて車の助手席に座り込んだ。
「ええっと、どこに向かいましょう、バーンズ隊長」
シクレの言葉に、バーンズは静かな口調で答えた。
「南だ。砂漠の町アーセでフレアのバイクが見つかったと報告があった」