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百メートルを超す断崖絶壁。そこを流れ落ちていく、幅十メートルはあろうかという巨大な瀑布。水煙と冷たく澄んだ空気に包まれたこの場所は、否が応でもここが特別な場所だと知らしめている。
ここは鉱山都市『ハノキ』。周囲を巨大な山と森に覆われたこの町は、金や銀の産出地として発展を遂げてきた。その観光名所にして、祝福の道標の一つなのが目の前に広がる『蝶の滝』だ。天気の良い日には水煙に無数の虹が浮かび上がり、蝶の形を作り出すことからこの名前が付いたという。
そんな滝を、フレアとクラッチは沈鬱な表情で眺めていた。
ベンチに腰掛けた二人は無言だった。クラッチはずっとうつむいたままで、フレアはそんなクラッチを横目で見ていた。
フレアの口が開く。だが言葉は出てこなかった。
クラッチが置いてきたアクセルの事を考えているのは明白だ。それに対する気休めの言葉もかけようと思えばいくらでもかけられるだろう。だがフレアは何も言えなかった。この町まで逃げてくる道中で、クラッチからウォルフファミリーの事を聞かされたからだ。
自分が犯罪者の標的になるなど、フレアは夢にも思っていなかった。そして後悔した。自分の軽率な行動によって二人を危険に巻き込んでしまったことに。
――いっそのこと、私を罵ってくれればいいのに。
フレアはそう考えていた。しかしそんなフレアの考えを見透かすかのように、クラッチの言葉は優しかった。
二人が滝の前にいるのもクラッチが提案したからだ。駐在所に寄る前に――旅を終わらせる前に見ていこうと。こんな状況になってもなお自分の事を気遣ってくれるクラッチに、上辺だけの気休めの言葉などかけられるはずが無かった。
真夜中ということもあって辺りに人の気配は無く、滝の音だけが響いている。
「――寒くない?」
突然声をかけられ、フレアの肩が跳ねる。いつの間にかクラッチがこちらに顔を向けていた。
「は、はい、大丈夫ですわ」
笑顔を浮かべてフレアは言った。だがクラッチの瞳に映る、必死に笑顔を取り繕っている自分の顔を見て、フレアの顔が固まる。
「どうしたの?」
フレアの表情の変化に気付き、クラッチが尋ねる。フレアは表情を曇らせてうつむくと、呟くようにして言った。
「どうして――私に優しくしてくれるんですの?」
フレアの突然の問いに、クラッチは眉をひそめる。
「何言ってんの?」
「何って……」
「わざわざ理由を聞かないとダメなこと?」
クラッチの言葉に、フレアは言葉を詰まらせる。そして泣きそうな表情で首を振った。
「だって、だって、全部私のせいじゃありませんか! 私が無計画に一人旅なんて始めてしまったばっかりに、ウォルフファミリーを呼び寄せることになってしまって……そのせいでお二人を危険な目に合わせてしまって……。それなのにどうして私に優しくしてくれるんですの!? こんな愛想を振りまくしか能の無い私に!!」
「……フレア落ち着きなって。あんたは何も悪くないよ」
「だからどうしてそういう事を言うんですの!?」
フレアはこらえきれなくなり、立ち上がった。
「本当のことを言えばいいじゃないですか! 危ない目にあったのも――今アクセルさんが安否不明なのも全部私のせいだって! こんな世間知らずなんか放っておけば良かったって! 私は……私は自分がほとほと嫌になりましたわ!」
「自分を責めんじゃないよ。私らはついていきたくてあんたの旅に同行したんだ。あんたのせいだなんてこれぽっちも思ってないよ」
「そんなこと言って本当は私のこと疎ましく思ってるのでしょう? あぁ、分かりましたわ。私のお金が目当てなのですね。私に優しくすればお金が貰えると――だから私のことをそんなに気遣ってくれるのですわ」
「……あんたいい加減にしなよ」
ぱんと乾いた音が鳴った。クラッチが立ち上がるなりフレアの頬をひっぱたいたのだ。さらにクラッチはフレアの胸倉をつかみ、顔を引き寄せる。
「あぁ、そうだよ、全部手前のせいだよ! 手前が自分の立場も考えないで無防備に歩き回ってたせいでこんなことになったんだ!」
クラッチは歯を食いしばりながらフレアを睨みつける。
「ほら、言ってやったぞ! これで満足!? 兄貴が何であんたに黙って旅を続けてたと思う? 危険を冒してまで私らを逃がしたと思う? 全部金の為だとでも!?」
クラッチの剣幕にとうとうこらえきれなくなり、フレアはボロボロと泣き始めた。それでもクラッチの言葉は止まらない。
「何泣いてんの? 泣けば誰かが助けてくれるとでも思ってんの? ここにはあんたと私しかいないんだよ。結局誰かに頼ることしか出来ないなら屋敷にずっと引きこもってれば良かったんだ。綺麗なドレスも、おいしい食事も――結婚相手だって用意してくれる。あんたはただ黙ってニコニコ笑って、ずっと人形の様に飾られていれば良かったんだ!」
クラッチの言葉に、フレアは泣きながらも怒りで顔をひきつらせた。
「……わ、私のこと……私の苦労なんて何も知らないくせに……」
「あんただって私の事どれだけ知ってるんだよ。悔しかったらさ――」
クラッチは自分の頬をペシペシと叩く。
「やり返してみたら? あんたにそんな根性あるとは思えないけどさ!」
言うや否や、フレアの右手がクラッチの頬をひっぱたいた。
「私だって……私だって……」
フレアは悔しさに顔を歪ませながら呟く。顔を俯かせ、手足がわなわなと震えている。
フレアは右手をぎゅっと握りしめる。そしてそのまま泣き崩れた。大きな声で泣きながら、握った自分の拳を見つめていた。
「……うぐ、ごめんなさい……ひどいこと言ってごめんなさい……殴ったりして……ごめんなさい……」
嗚咽混じりの声が聞こえてくる。
「…………」
クラッチは無言のまま叩かれた頬を撫でる。そしてフレアにゆっくりと歩み寄ると――その身体を静かに抱きしめた。
「……たく、怒ったり泣いたり忙しい子だね」
フレアの嗚咽が激しくなる。クラッチは呆れたようにため息を吐いた。
「ほら、泣かない。私は何も気にしてないからさ。だいたい互いにおべっか言い合う関係なんて嫌いだし」
フレアの頭をぽんぽんと叩きながらクラッチは言葉を続ける。
「不安だったんでしょ? だからわざと私を怒らせるようなこと言ったんだ。相手の本音を知りたくってさ。誰でもやっちまうことだよ」
フレアが胸に顔をうずめたまま上目遣いにクラッチを見上げる。
「……クラちゃんには全部お見通しだったのですね」
「……まぁ、割と本気でカッとなっちゃったけどさ」
フレアが涙を袖で拭いながらクラッチから離れる。涙はまだ溢れているが、怒りや不安の表情は消えていた。
「……私、結局最後まで人に頼りっぱなしでしたわ」
「一人で生きてる奴なんていないさ。互いに都合よく利用し合って生きてるんだよ」
「支え合うって言わないところがクラちゃんらしいですわ」
フレアが笑いながら言った。クラッチも眉をひそめながらも笑顔を浮かべた。
ひとしきり笑った後、クラッチは困った表情を浮かべて小さく息を吐いた。そしてゆっくりと振り返り、視線を藪の方に向けた。