第7話 不穏な影
春彦と佳奈が公園で鯛焼きを食べているころ、春彦たちが住む町の一駅先の町で、猿島と猪俣が休みを利用して、日用品の買い物をしていた。
二人は佳奈を監禁していた犯人の屋敷で働いていたが、何も知らされておらず、事件には直接関与していなかったが、逆に佳奈を救出に一役買ったことから、俊介も務めている俊介の父親の会社に就職し、社宅で生活することになった。
俊介の父親の会社は要人警護を主としており、常に護身術など体を鍛えなくてはならず、頭を使うより体力に自信があった二人には打ってつけだった。
俊介の自宅と会社、そして社宅は同じ敷地の中にあり、春彦達の住んでいる町の隣の駅にあった。
隣りの駅と言っても電車で10分以上かかるほど離れており、駅の周りは俊介の住んでいる町の駅の方が栄えていて、デパートなど商業施設が立ち並んでいた。
その日は、二人とも非番で、猪俣が日用雑貨を買いたいから付き合ってくれと、猿島を拝み倒し、買い物をした後だった。
「悪かったね、猿ちゃん。
コーヒーでも酒でも何でもおごるから。」
大きな紙袋を手にした猪俣がニコニコしながら話しかける。
猪俣としては、長い黒髪、細く目尻の上がった目、薄い唇、筋の通った鼻と冷淡な印象を受けるが美人の猿島が気に入っていて、二人で買い物に出られて上機嫌だった。
「まったく、なにさ。
たかだか、服を買うのに突き合わせて。
いい歳になっても、一人で行けないのかい。
しかも、私にスカート履いて来てくれなんて。
何様のつもりだい?」
猿島は冷たく言い捨てる。
猿島は、黒っぽいブラウスにベージュ色の丈の短いスカートを履いていた。
「まあまあ、そんな冷たいこと言わないでさ。
軽くそこら辺のパブで一杯ひっかけて行こうよ。」
「ちっ、それが目的だろうに。
あら?
あいつ…」
猿島は何十メートルか先に、自分達を見つめている精悍な、そして危ない雰囲気の男に目をやった。
男は、猿島と目を合わすとニヤリと笑ったようだった。
「猿ちゃん?」
猪俣は猿島の様子が気になって声をかける。
「猪、あいつ。」
猿島は緊張してか血の気の引いたような顔をして猪俣を見る。
「え?」
「ほら、あいつだよ。」
猿島は猪俣から目を反らし、男の方を見たが、視線の先には男の姿はなかった。
「どいつ?」
「いや、もういない。」
「誰なの?」
猪俣は怪訝そうな声を出す。
「猪。
この前の事件で、傭兵どもは逮捕されたが、親衛隊は結局行方不明だって聞いただろ?」
親衛隊と聞いて猪俣も緊張した顔をする。
佳奈が監禁されていた屋敷では、10人位の腕の立つ傭兵がガードマンとして雇われていた。
しかし、春彦達によりガードマンたちは残らず検挙されたが、実は、もっと腕の立つ傭兵数名が親衛隊として屋敷の主の警護や直接命令を受け、非合法的な仕事をしていた。
その親衛隊は、屋敷の主が日本の警察に目をつけられると、早々に見限り、行方をくらませていた。
「知っている。
確か、4人ぐらいいたはずだ。
あいつら決して正体を明かさず、俺なんて、一人として顔を見たことはなかったぜ。
当然、名前なんか知らないし。」
「ああ、私もさ。
でも、その中の一人と、ある時、偶然に屋敷の中で出くわしたことがあるんだよ。
他の子分たちとは、全然違っていて、鍛え抜かれた、そしてまるで血の通っていないロボットみたいで、目なんか、まるで爬虫類のような目をしていたよ。
だから、きっとそうだと直感したのさ。
当然、むこうにも私の顔をしっかり見られたけど。」
「まさか」
「ああ、その男があそこに居て、こっちを見ていたんだ。」
猿島は男が居た方向を指さすが、既に人影もなかった。
「そいつがか?
よしんば、そいつだとして、なんでこんなところにいるんだ?
逆恨みで、危険を冒してまでうちらのことを追うような奴らじゃないだろうに。」
「私もそう思うよ。
あいつら、金にならないことは一切しないから、金田がいなくなった今、ここに残っている意味がないはずだってことをさ。
でも、確かにあいつだ。
しかも、こっちの様子を窺っていたんだ。」
「人間違いだろ。
たかだか、うちらを相手にする理由がないよ。
あるとしたら、坊ちゃんか立花くらいだろ。
それも考えにくいけどな。」
「猪、取りあえず帰って、俊介坊ちゃんの耳に入れておこう。」
「でもさ、顔も一度しか見ていないんだろ?
人違いで、坊ちゃんを煩わすことはないって。」
「そうかな…。
わかった。」
猿島は猪俣に言われ、釈然としなかったが、確かに自分達に危険を冒してまで何かするような連中ではなかったので、放っておくことにした。
しかし、社宅に戻り一人になると、どうしても男の顔、猿島を見ていた残忍そうな笑顔が頭にちらつき、離れなかった。
そして夕方にもう一度、今度は一人で男を目撃した場所に戻る。
「やっぱり、勘違いか」
周りを見回しても、それらしき人影はなく、猿島は自分の勘違いだと言いきかせ社宅の戻ろうとした。
「?!」
すると、遠くの100メートルくらい遠くを歩いている男が目に入った。
男は猿島に背を向けて歩いていて顔がわからなかったが、背格好と昼間見た服装によく似ていたので、猿島はその男が親衛隊の一人だと確信し、後を追う。
猿島は男に気づかれないように、足早に近付いて行ったが、間隔が10メートルくらいに近づい手からは、その感覚を保つようにして、こっそりと後をつける。
男は何回か道を曲がった後、細い路地に入って行った。
猿島は、最大限に注意を払い、角から路地を窺うが、人の気配は立ち消えていた。
「ちっ。
ばれたか。」
猿島は深追いせずに戻ろうと振り向いたその時、背筋が凍り付く。
眼の前には路地に入って行ったはずの男が、残忍な笑顔を見せ猿島の前に音もなくたっていたのだった。
「?!」
猿島は、何もできずに目の前が暗くなっていくのを感じ、意識を失った。
春彦は、家に帰って、舞に無事に連れて帰ったことを説明した。
「でも、どうせ、すぐに茂子さんから報告が入んでしょ。」
「まあね。
茂子も毎日大変だけど、佳奈ちゃんが日増しによくなっていくので、それが元気の源になっているみたいよ。
もう、しょっちゅう電話で、今日は佳奈ちゃんどうだったとか、あーだのこーだの、ほぼ一方的ね。」
「でも、気持はわかるよ。
それに、母さん相手だから尚更でしょ。」
舞は、まんざらでもない顔で「まあね」と言った。
「そうだ、春彦君。
次のプランは、考えてるの?」
「うーん、ノーアイデアってとこかな。」
「だめだねー。」
と話している側から電話がなった。
「噂をすれば。
やっぱり、茂子よ。」
舞は、受話器を取って話しはじめた。
「いったい、この二人の電話代は、どうなっているのやら…。」
春彦は苦笑いしながら、自分の部屋に戻り、ベッドに仰向けに寝転んだ。
「次ねー。
佳奈の喜ぶところか…。」
リビングの方から、舞と茂子が電話で話している声が聞こえた。
「えー、春がそんなことしたのー。」
舞の素っ頓狂な声で、春彦は、佳奈を“お姫さまダッコ”したことが報告されていることを察した。
「やば…。」
春彦は、布団をお頭から被りながら、佳奈を抱き上げた時の柔らかな感触や、佳奈のいい匂いを思い出していた。
春彦は、それから、電話が終わった後、舞に部屋を急襲され、さんざっぱら、“お姫さまダッコ”の件でからかわれまくられた。
「そうそう、じゃあ、ダッコの王子様にいいこと教えてあげる。」
「ダッコの王子は余計!」
春彦は、少しむくれて言った。
「まあまあ。
そう、いいことはね、佳奈ちゃん、ちゃんと車椅子でも使えるおトイレがあれば、介助の手がなくても大丈夫になってきたんだって。
どう?
次のプラン、範囲が広がったでしょう。」
「じゃあ、少し遠くても、きちんとした施設があればオッケーなんだ。」
「そうよ。
佳奈ちゃんの外用の車椅子、確か、たためるから、近場なら家の車でも大丈夫と思うわよ。」
「そっかー、サンキュー。」
「じゃあ、しっかり考えなさいね。
ダッコ王子!」
「うるさい!」
舞は、言いたいことを全て言って部屋を出ていった。
「そっかぁ、いろいろと行動範囲が広がってきたのか。」
春彦は、佳奈の笑顔がたくさん見れるようになるかと思うと、自然と顔をほころばせた。