第5話 再び、外の世界へ
春彦は、台所から自分のコップを持って、舞のいるテーブルに腰掛けると、舞は、にこにこしながら、春彦のコップに酒を注いだ。
「さて、今日のお酒の銘柄は何でしょう?」
意地悪な顔をして、舞は尋ねる。
「え?
うーん、『熟女のため息』ですか。」
春彦は、自分で言っていて、赤くなった。
「おー!
お前も言うようになったわね。
残念でした。
今日のお酒は、『処女の感触』でした。」
ぺろっ、と舌を出して舞は言った。
「嘘つけ!」
春彦も笑いながら答えた。
「でも、退院してから5か月、リハビリを始めてから3か月か。
そう思うと、佳奈ちゃん、順調に回復してるわね。
これなら、歩ける様になる可能性が高くなるわね。」
「そうだね。
佳奈は、がんばっているからなぁ。
体中、痣を作っているんだよ。
一人で、車いすに乗ろうと練習して。」
「茂子が言っていたわ。
最初、派手な音が佳奈ちゃんの部屋から聞こえ、ハラハラしていたって。
最近は、派手に転がる音が少なくなったって。
ん?
それで、君は、その痣を触ろうとして、思わず、佳奈ちゃんの恥ずかしがるところに手を!」
「そんなことないよ!
まったく、妄想だけは激しいんだから。」
春彦は、怒った顔をしていった。
「あとは、気分転換に外に出れるようになれば、また、気が変わるんだけど。」
春彦は、少し考え気味に言った。
「そうなんだ、佳奈ちゃん、まだ、病院以外に外に出ようとしないんだ。
お友達と会ったりしないの?」
「そうみたいだよ。」
「ふーん。
心も、一歩一歩かな。」
「だろうな。
まあ、佳奈のことだから、その内、何とかなるんじゃないかな。」
「おー、まるで他人事。」
「そうじゃないよ、あいつ、昔から社交性はあるから、良くなればじっとできなくなるって。」
「じゃあ、君が、また、そのきっかけを作ってあげたら?」
「え?」
意外な舞の言葉に、春彦は戸惑った。
「そうか、きっかけか…。」
舞の言葉に、春彦はいろいろと考え始めた。
舞は、お酒を口にしながら、ニヤニヤ笑い、春彦を見ていた。
「え?」
佳奈は、驚いた声を上げる。
「ああ。
今度の日曜日、天気だったら、一緒に『中屋』に鯛焼きを食べに行かないか?」
次の日曜日、春彦はいつものように佳奈に会いに行き、にこやかに言った。
「だって、私、歩けないのよ。」
「ん?
車椅子があるじゃないか。
それに、中屋だったら、ここから20分も掛からないし。
おれが、きっちりエスコートするから。」
「えー、春がぁ?」
「うん、俺が。」
佳奈は、しばらく考え込んでいた。
「春は、車椅子の私と歩くの、嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ。」
「だって、車椅子って、結構大変なのよ。
わかってる?」
「うん、わかっている。」
「……。」
佳奈は再び考えこんでいた。
「ちょっと、お母さんと相談するね。
それから、返事するのでいい?」
「OK。
いいよ。
あっ、でも、決して無理しなくていいからね。」
「うん。」
佳奈は、頷いて答えた。
そして、その夜、春彦の携帯に佳奈からメールが届いた。
『春へ
「中屋に行こう」の話しだけど、春彦が嫌じゃなければ、連れて行ってね。
私も頑張って、車椅子漕ぐから。
よろしくお願いします。
佳奈』
メールの文面から、佳奈が緊張しているのが手に取るようにわかった。
『佳奈へ
ぜんぜん、いやじゃないよ。
エスコート、ばっちり、任せて。
じゃあ、楽しみにしてるからね。』
春彦は、メールの返信を送った。
「はるー、ごはんだよー。」
舞がリビングから声をかけた。
春彦がリビングに行くと、ご飯の支度を終え、晩酌している舞がいた。
「春彦も、飲む?」
「うん、じゃあ、一杯もらうわ。」
「ビールなら冷蔵庫ね。」
「はいはい、妖しい銘柄の日本酒より、ビールの方が悪酔いしないからな。」
「ふん。」
舞は、不満げに春彦の言葉を鼻であしらった。
春彦が冷蔵庫からビールを取ってきて、自分のグラスに注いでいると舞が声をかけた。
「春、今度、佳奈ちゃんを外に連れ出すんだって?」
「え?
もう知ってるの?
佳奈に言ったの、昼間だよ。
それに、連れ出すって言っても、中屋までだよ。」
「でもね、大騒ぎみたいよ。
茂子から電話があって、佳奈ちゃん、何着ていこうか、とか。」
舞は、ケラケラ笑いながら言った。
「えー、高々、中屋に行って、『鯛焼き』でも食べて帰ろうと言ったのに。」
「いいじゃないの。
これも、良い傾向の一つよ。
何せ、病院以外の外に出る気になったのだから。」
「まあ、そうだね。
佳奈は食いしん坊だから、『鯛焼き』で釣られると思ったんだ。」
「ばか。」
舞は、頭を抱え込んでいった。
春彦は、何の事だかわからず、コップのビールを飲み干した。
「お前は、そういうところが、相変らず鈍いね。」
「え?」
「まあ、いいや。」
舞は、苦笑いして言った。
「で。
ちゃんと、エスコート出来るんだよね。」
「ああ、一応。
坂道とかは、車椅子を押してやるとか。」
「それだけ?」
「え?」
舞は、真顔になった。
「いいかい、佳奈ちゃんは、以前と違って、何するのも大変なんだよ。
例えば、トイレに行きたくなったらどうする?
家では一人で何とかできるようになっても、外では勝手が違うんだよ。
車椅子でも大丈夫なトイレじゃないといけないし、何かあっても、一人じゃ対処できないんだよ。
それに、車椅子だって、道に段差があったら倒れるかもしれないじゃないか。
だから、佳奈ちゃんが進む道をちゃんと先に見て、段差や穴ぼこがあったら、道を迂回するとか、お前が、車椅子ごと持ち上げるとかしないと。」
「……。」
春彦は、黙って舞の話を聞いていた。
確かに、舞の言う通り、自分は簡単に考えすぎていたことを、後悔していた。
「特に、病院という決まったルートじゃないし、知っている町並み、道にしたって車椅子では初めてなんだからね。
それに車椅子からの景色は、普通の時とは違うんだからね。
細心の注意を払わなきゃだめだよ。
いくら幼馴染の佳奈ちゃんといっても、よそ様のお嬢さんなんだ。
何かあってからじゃ、遅いんだからね。」
「そうだね、ちょっと、軽率だった。」
春彦は、真顔で言った。
「いいかい、自分が車椅子に乗っていたらと言うことをよくよく考えて行動しなさいよ。」
「はい。」
春彦は、かしこまって返事をし、コップにビールを注いで、一口、飲む。
「でもね、佳奈ちゃんには、良い刺激なんだから、あんたにしちゃ、よく考えたもんさ。
それは、褒めてあげるよ。」
舞は、顔を崩して言った。
それから、夕飯を食べ、春彦はベッドに横になった。
そして、足を使わないように、ベッドから椅子に移ろうとした。
が、どうしても足に力が入り、うまく、腰から上だけで移ることはできなかった。
「佳奈は、もっと大変なんだよな…。
車椅子か。」
春彦は、ベッドに仰向けに横たわり、ぶつぶつ言いながら考え事をしていた。
日曜日は、朝からいい天気で、暑くもなく、いい陽気だった。
春彦が、佳奈の家に迎えに行くと、玄関の内側で白いワンピースと麦わら帽子をかぶった佳奈が、すでに車椅子に乗って待っていた。
「佳奈、お待たせ。」
「春、今日は、よろしくね。」
春彦が声をかけると、佳奈は、にこやかな顔で返事をした。
茂子も傍にいて、少し心配そうな顔をしていた。
「佳奈、大丈夫?
お母さんも、着いていこうか?」
「やだー、大丈夫よ。
春が、ちゃんとエスコートしてくれるって言ってくれてるし、それに、中屋の『鯛焼き』は口に合わないんでしょ。」
佳奈が、笑いながら言った。
「そうだけど……。」
茂子は、そういわれて口籠った。
「おばさん、大丈夫ですよ。
ちゃんと、エスコートしますから。」
春彦がにこやかに言うと、茂子はあきらめた顔をした。
「じゃあ、よろしくお願いしますね。
佳奈も、何かあったら、すぐに連絡しなさい。」
「はーい、じゃあ、出発!」
佳奈は、車椅子を自分の手で動かし、玄関を出た。
春彦は、そんな佳奈の横に付き添った。
佳奈の家の門をくぐろうとした時、佳奈は車椅子を止め、一瞬躊躇しているようだった。
春彦は、そっと佳奈の後ろに回り、車椅子の手押しハンドルに手を掛けた。
「慣れるまで、ゆっくり押してやるよ。」
春彦が優しく声をかけた。
「うん。」
佳奈は、身体をねじって春彦の方に向いて、笑顔で返事した。
春彦も、佳奈が体をねじるほうに、身体を倒し、佳奈がすぐに自分を見れるように気を配った。
「じゃあ、再び、出発。」
今度は、春彦が号令をかけ、ゆっくりと車椅子を押して門の外に出ていった。
茂子は、心配そうな顔で二人の後姿を見送った。
「どう、久し振りの外の気分は。」
「うん、やっぱり、外は気持ちいい。
特に、今日は天気もいいし。」
佳奈は弾んだ声で応えた。
「そうだね。」
春彦は、そういいながら車椅子の進む方向に細心の注意をしていた。
前日はリハーサルと称して、一人で佳奈の家から、『中屋』までの道を歩き、段差やくぼみがないかをチェックはしていたが、やはり、何か障害物が落ちているかもと注意をしながら、車椅子をゆっくり押していた。