第17話 心の葛藤
次の週末、春彦は予定通り会社の慰安旅行に出かけていた。
ただ、前日、舞から佳奈の調子が良くないと聞いていた。
茂子からの話で、週の後半から口数が減り、食欲も落ちてきて、ため息をつくことが多くなったとのこと。
「春彦が、今週、会いにいけないからじゃない?」
舞は、春彦をからかう。
「なんで?」
言っている意味が理解できていないという顔をする春彦を見て、舞は半分呆れた顔をする。
「春彦、あんたねぇ…。
鈍いにもほどがあるってもんよ。」
「え?」
「いいから、お酒持ってきなさい。
景気づけよ。
『処女の葛藤』というお酒が手に入ったから。」
「相変わらず、でたらめなネーミングだよな。
そんなことより、何かあったのかな」
春彦は、自分が原因ということはありえず、他に、何かあったのかと気になっていた。
その土曜日の夜、茂子は佳奈の様子を見に佳奈の部屋にいた。
「佳奈、この2,3日、変よ。
どうかしたの?」
「ううん、どうもしないわ。」
「そう?
でも、食欲もないし、ため息をついたりして、ふさぎ込んでいるじゃないの。」
「…。」
「熱でもあるの?」
「ううん。
大丈夫よ。」
「お友達は、今週、来ないの?」
「うん、連絡してないから。」
佳奈は小さく頷いて言った。
茂子は、そっと佳奈の手を取って、優しく言った。
「何か心配事?
何でも、お母さんに言ってみて。
一緒に考えてあげるから。」
「……」
佳奈は、しばらく考えこみ、そして、重い口を開くように言った。
「春が、今週は会いに来ないの。」
(やっぱり)
茂子は、内心思った。
「確か、社員旅行で、泊りがけで出かけているんでしょ?」
「うん。
鶴舞温泉に行っているの。」
茂子は、黙って頷き、佳奈の手をさすっていた。
「お母さん。」
「なに?」
「何か、変なの。
今週だけなのに、春に会えないと思うと、何かつまらないと言おうか…。
何もしたくなくなっちゃって。」
春彦は、佳奈が退院し自宅に見舞に来るようになってから、1回も欠かすことなく週末の土日のどちらかは、佳奈に会いに来ていた。
「そうよね、春彦君、ずっと、毎週来てくれていたわよね。」
「うん。
何か、私、それが普通になっちゃって。
でも、考えたら、春だって、春の世界があって、やりたいことがあるはずなのに、それなのに、いつも会いに来てくれて、優しくしてくれて…。」
徐々に佳奈の声が、涙混じりになってきていた。
「私と居るより、もっと、楽しいことや、やりたいことがあるはずなのに。
でも、でも、私には春が傍にいてくれることが当たり前で……。
私、春と一緒に公園を歩いたり、一緒にバスケや運動することができないし……。
春の好きなことを一緒にできないし。
なのに、私は、春にいてほしい……。」
「佳奈……。」
「お母さん。
このまま、春に甘えていていいのかな。
春は、ああいう性格だから、きっと顔には出さないわ。
春、仕方なく来てくれているのかな。
私、わからなくなってきた……。」
茂子は、そっと、佳奈の頭を撫でた。
「佳奈は、春彦君のこと信頼しているのよね?」
「うん。」
「じゃあ、『いやだ、会いに来たくない』と思っている人が、こんなにも毎週会いに来てくれないでしょ。
それに遠慮はしない間柄だって佳奈が言っていたじゃない。
特に、春彦君でしょ。」
「そうだと思うけど。
でも……。」
佳奈は、とうとう泣きべそをかき始めた。
「佳奈は、春彦君のことが好き?」
「え?
うん、好きよ。」
「兄妹としてではなくてよ。」
「え?」
佳奈は、しばらく黙り込んでから口を開いた。
「うん、小さい時からずっと好きだったの。」
「好きだった?」
過去形で言う佳奈の言葉に、茂子は思わず聞き返した。
「うん。
春は、その気がないみたいで、一方的な片思い。
それでも、いつかは…、なんて思っていたけど、この身体になっちゃたし。」
佳奈は自分の両脚を見て、寂しそうにつぶやいた。
「佳奈……。」
「こんな私を好きになって、なんて言えないし。
もし、万が一、春がその気になってくれたとしても、それって、きっと同情半分。
だから、きっと長続きしないと思うの。
春には、健康的で一緒に歩いたりしてくれる女性が似合うわ。
私じゃない…。」
佳奈は、首を左右に振って、俯く。
「佳奈、そんなに思い詰めないで…。
『こんな身体になって』って言っても脚だけじゃない。
後は、健康になってきたんだし、脚も、その内、きっと良くなるから。」
茂子は、佳奈の手を摩りながら、何とか励まそうとして言った。
「ありがとう、お母さん。
でも、この身体になって、ひとつ良いことがあったの。
「いいこと?」
何を言い出すのかと茂子は訝しんだ。
「あのね、この身体になって、春が毎週、私に会いに来てくれるようになったこと。
それまでは、大学、社会人と春と別々の道に進んだら、会う機会もぐっと減って、寂しかったの。
変でしょ。
うれしいなんて…。
だから、もし、付き合って、別れちゃったら二度と会えなくなるじゃない。
このままでいいの。」
「佳奈…。」
「だからね、だからね、ずっとこのまま会いに来てほしいなって。
春が、素敵な女性と結婚したら、その人にお願いして、毎週じゃなくていいから、たまに会いに来てって。」
佳奈は、涙声で話し、茂子は何も言えずに、ただ聞くだけだった。
翌日、佳奈は昼近くまで布団の中にいた。
昨晩、茂子と話をして、そのあと、なかなか寝付けずに、明け方まで起きていたためだった。
「佳奈、起きたの?
ご飯、出来ているわよ。」
佳奈が起きだした気配を察し、茂子が声をかけてきた。
「うん。
今行くね。」
いつもなら、朝早くから目を覚まし、春彦が来るのをそわそわして待っているのだが、今日は、春彦が来ないという喪失感から、佳奈は元気なくため息をついた。
(誰もこないから、パジャマのままでいいや。
ご飯食べたら、また、ごろごろしてようと)
佳奈は、そう思い、パジャマ姿で車椅子に乗り、リビングに向かった。
「あら?
今日は、パジャマガールなの?
せめて、顔ぐらい洗って、髪を梳かしてきなさいよ。」
「はーい。」
佳奈は茂子の言うことに素直に従って、洗面所で用事を済ませ、再び、リビングに戻った。
テーブルの上には、ホットケーキと卵焼きが乗っていた。
「え?
今日は、ホットケーキなの?」
「え?
佳奈好きでしょ?
今日は特別よ。
ケーキシロップも新しく買って来たから、好きなだけ掛けていいわよ。
但し、太らない程度にね。」
茂子は、少しでも佳奈の気が晴れるようにと、好きなものを用意していた。
「わーい、ありがとう。」
佳奈は微笑みながら答えたが、言葉には力が入っていなかった。
「あれ?
お父さんは?」
いつも日曜日には、リビングでテレビを見てくつろいでいる一樹の姿が見えなかった。
「お出かけ。
ゴルフの練習よ。
何でも、お得意様に誘われたので、練習しなければって言ってね。」
「何か、ドラマでよくある光景ね。
上手になったのかしら。
いつも、ゴルフ場の芝を耕しているって、今度、野菜の種を持って行こうかって言っていたのに。」
「まったくね。
この前なんて、砂遊びの道具でも持って行こうかって言っていたのよ。」
茂子は、笑って答えた。
「そうそう。
池に落ちたボールを拾うのに、魚とりの網を持って行こうかとも言ってわよ。
ついでに魚も捕ったりして。
何だか、何しにゴルフ場に行くのか、わからないわね。」
佳奈は苦笑いをする
「ほんと。
さあさあ、冷めちゃうから食べなさい。」
「はーい。」
佳奈は少し気だるそうにホットケーキを頬張っていた。
しばらくすると、来客を知らせるチャイムが鳴る。
「誰かしら?」
「お父さんじゃないの?」
「お父さん、鍵、持って出掛けているから違うわ。
はーい、どなた?」
茂子は、そういいながら、玄関の方に歩いて行った。