晩秋③
晩秋③
どこかで見たサイダーだと思ったら、いつかコンビニで買ったものと同じパッケージだった。
そのときは、『コンビニ限定』を謳っていたがするけれど、どうしてそれが学校の購買の飲料売場にあるのか。
ご好評につき一般流通したのかもしれない。軽い詐欺だ。
小銭を家具の下に転がしてしまったときと似た気分になったけれど、どこか懐かしかったのでそれを買うことにした。
一口飲んで、当たり障りのない味に顔をしかめる。
「あのとき、あいつは生きていたな」なんて感傷に浸るのは不謹慎だろうか。
半分も減っていないサイダーを、ゴミ箱に入れる。「もったいないお化け」の祖母が見たら卒倒しそうなワンシーンで、祖父なら「飽食の時代」と眉をひそめるかもしれないけれど、待ち合わせの時間までこのサイダーと格闘する気にはなれなかった。
華音と化学室で会う約束をしていた。
*
有川が飛び降りてから一週間が過ぎた。その間に、学園祭の自粛――つまり、中止が決まって、僕の描いたポスターその他全てが無駄になった。
そして、僕と華音は有川の自殺を収集することにした。
自分たちのやっている行為が悪趣味で、他人の神経を逆撫でするようなものであるという自覚はある。だから、公にするつもりはない。仮に、有川の死について、新聞記事以上の事実が判明したとしても。
有川の死は「事故」という結論が下された、らしい。少なくとも、ホームルームで、担任の教師は「先日起こった不幸な事故」と有川の自殺を称した。
遺書がなく、いじめや悩みを抱えているという情報もない。学校としても、周囲の人間としても、「自殺で死んだ」よりも「事故で死んだ」の方が安心できる。納得できる。そこで思考を止められる。
ホームルームが終わって、担任が席を外すと、教室の中がざわざわとした。有川が飛び降りたときの混乱とは違う、もっとじっとりとした騒めきだ。みんな、有川の死について、色々な考察や詮索をしているのだろう。
「実際、事故みたいなものだったんだろうな」
山田が小声で僕に言う。
「事故で、飛び降りると思う?」
「飛び降りたのを見た人がいるわけじゃないんだろう?」
「いるよ」
周りの幾人かが僕と山田の会話に聞き耳を立てている気配を感じて、「そう聞いた。そういう噂がある」とつけ加える。
「なら、自殺なのかもな。でも、俺が言いたいのはそういうことじゃないんだ」
山田は腕を組んで、「つまり、だな」と続ける。
「唐突に、これやったらヤバイだろうなってことをやりたくなることってない?」
「例えば?」
「エレベーターのボタン、全部押すとか」
「君のヤバイってしょぼいな」
「うるせえよ」
例えばだ、と山田は少し声を大きくして僕を睨む。
「有川も、そんな感じで飛び降りたんじゃないかってこと。ここから落ちたらヤバイだろうなって思って、本当に実行したんじゃないの? だって、自殺するようなやつに見えなかったし」
「かもしれないな」
本当のところがどうであるのか、そんなこと誰にも分からない。
なら、山田のように、適当なそれらしいことを考えて納得してしまうのも、ある種の正解なのだろう。
けれど、僕や華音のような人間はそこで止まれない。
好奇心というより、強迫観念に近いかもしれない。事実にほつれを見つけたら、それを暴かなければ安心できない。もちろん、『自殺』に関することに限定されるけれど。
化学室の扉を開ける。幸い、無人だ。華音はまだ来ていない。
教室は今まで通り、錠はされていない。ここでしばらく授業は行わない予定らしいけれど、立ち入り禁止にはされていない。
もし、そうしてしまうと、人が寄りつかない場所となってしまう。学校側として、教室一つが使えなくなるというのは大きな損失なのだろう。化学室のような特殊な設備の教室であればなおさら。設備や器具を丸ごと別の教室に移すとしてもなかなか大変そうだ。
この世で誰も死ななかった場所があるとすれば、人類が未到達の場所に違いない。
華音がそんなことを言っていたのを思い出す。
扉が悲鳴を上げた。
彼女の名前を呼ぼうとして、ぎりぎりのところで飲み込んだ。
由季が扉の隙間から顔を覗かせて、眉をひそめて僕を見ていた。
「ここで何をしているの?」
「君こそ」
由季が言い淀んでいたので、先に僕が目的を明かすことにした。
「弔いに来たんだ」
カモフラージュ兼『切符』として持っていた花を彼女に見せる。
時折、有川の死を偲んでか、彼の死んだ場所に足を運ぶ人の姿があった。でも、そういった人たちが赴くのは有川が落下した場所で、飛び降りた場所ではない。
けれど、化学室に花を供えに来たとしても、それは多少「ずれている」かもしれないが、逸脱はしていない。
「千歳、有川くんと仲良かったの?」
「それなりに。同じクラスだったし、僕にポスターを任せてくれたのも有川なんだ」
適当な嘘を交ぜる。
「そっか」
納得していないなら頷かなければいいのに、と本気で思う。
「君も仲良かったんだろ?」
「え?」
「君も、有川を弔いに来たんじゃないのか?」
由季の目が左右に揺れる。
「全然違う。一度も話したこともない」
「あれ、そうなんだ?」
「私は千歳に用があったの。ここに入って行くのが見えたから」
「へえ……何の用だったの?」
「千歳、有川くんが死んでからおかしいから心配で……」
首を傾げる。「そんなことないよ」と言うつもりはなかった。有川の死について、思い当たることが多すぎるから、それが態度に出てしまっていても、不思議ではない。それを悟られてしまったとしても。でも、由季が鋭い女の子だとは知らなかった。僕は彼女を過小評価していたのだろうか。
「有川くん、何で飛び降りたんだろうね」
「分からない」
「死ぬ前に何か言ってた?」
「いや、何も。少なくとも僕は聞いていない」
有川が飛び降りる前日、僕は彼と話した。あれは、『他愛のない話』ではなかったかもしれない。あの日、彼は僕に対して、ある言葉を投げかけた。
僕に向けて、ボールを投げた。
――母親を奪われる気持ち、あんたなら分かるだろ?
その言葉が、引っかかって仕方ない。
でも、僕と有川が深夜に会っていることは、誰も知らない。そのはずだ。僕も有川も、誰にも教えたくないはずだから。
「心配させたなら謝るよ。でも、大丈夫」
「なら、いいけど……」
「一人にさせてくれないかな?」
由季は黙って頷いた。教室を出て、扉を閉めるとき、隙間からこちらの顔を伺っているような気がした。
短く息を吐く。机の上に乗せられていた椅子を下して座る。机に。
机やテーブルに座ってはいけないという教育を受けているけれど、やさぐれたい気分だったのだ。
おかしいと言えば、由季もおかしい。
それはちょうど、有川が死んでからだ。
由季は有川について「一度も話したこともない」と言ったけど、それは嘘だと思う。親しくないのは本当かもしれないけれど、同じ学園祭の実行委員なのだから、話したことくらいはあるはずだ。「一度も」や「絶対」という言葉を信じてはいけない。
それに、親しくないとするなら有川の死に対して、探りを入れるのも不自然だ。由季が僕や華音のような人種であるなら、話は別だが。彼女はミーハーだから、興味を持ちそうではあるけど。
「……いや。興味というより、警戒かな」
有川の死に対して、由季が後ろめたい気持ちを持っているのは確かだ。そうでなければ、嘘をつく必要はないのだから。そのマイナスの感情は、僕に繋がるのかもしれない。関係の薄い由季と有川を繋げるものが、僕くらいしかないから、そう考えるのが自然だ。
彼女の後ろめたさは、有川の背中を押したものだろうか。
長く息を吐く。顔を上げる。
教室に、忽然と華音の姿があるのに気づいた。真っすぐとこちらを見る姿に幽鬼のような何かを感じて、気圧された。
「隠れていたのか」
「『二人で待ち合わせ』をしていたのだから、他に誰かいたら不都合でしょう?」
それもそうだ。でも。
「盗み聞きとは趣味が悪い」
「隠れていたけれど、盗み聞きするつもりはなかったわ」
華音はにこりともしなかった。
教室は、隠れようと思えば隠れられる場所が多い。机の陰や、用具入れの中とか。注意しなければ、そこに人がいるなんて思いもしない。死角に人がいることを想定して日常を送っている人は少ない。
きっと、どこかで由季は知ったのだろう。華音と有川の関係とか、僕の自殺採集を。
そして、憤りを感じたのかもしれない。殺したいと思うくらいに。
机から降りる。
「愛されているのね、千歳は」
「何から?」
「由季さん。あんなに可愛らしい恋人がいるのに、あなたって少しも自慢に思っていないでしょう?」
「自慢だよ。自慢の可愛らしい恋人さ。ストーカー気質なのがちょっとした欠点の」
「お似合いじゃない。あなたは墓荒らしが趣味でしょう」
凍てついた冬の風のような言葉に、乾いた笑みを返すことしかできなかった。
「君と僕がやっていることは同じじゃないか」
「違うわ。千歳は自分のため」
「君は誰のため?」
「自分のためよ」
「一緒じゃないか」
彼女は無言を返した。
「取りあえず、先にやることを済ませてしまおう」
カーテンを開ける。
有川が飛び降りた窓が現れた。
美術室から見て、左から二番目。つまり、こちらからだと右から二番目になる。
落下防止用の鉄の棒が一本張られているけれど、余程の巨体でない限り、身体を滑り込ませるのに十分な隙間がある。
窓を開けて、その隙間に手を伸ばす。持ってきた花を落下させた。季節外れの白百合だ。
百合の花は風に煽られた。
華音が小さく言葉を漏らした。
お父さんもああやって死んだのよ。私の目の前で、私と同じ高さから、飛び降りたの。私は立ちすくんで、何もできなかった。
花は宙を舞いながらも、ほぼ真下に落下した。有川が死んだ場所に。
華音はそれを静かに見下ろしていた。