晩夏③
晩夏③
有川の右ポケットが不自然に膨れていた。「万引きでもしたのか」と聞いてみると、「どうにもそうらしい」と彼は神妙な顔で頷いた。
夜の散歩のついでに漫画雑誌の立ち読みでもしようと、家から離れたところにあるコンビニに立ち寄るのは、すっかり習慣となっていた。
軽度の不眠症で、寝る時間が遅くなっていた。軽い運動をして、疲れようという目的もあったが、何より夜の街というものが好きだった。
シンと張りつめた空気がピリピリと肌を刺激する。道に人の姿がない。二割増しのスピードで通り過ぎる自動車。自分の呼吸音がはっきりと聞こえる。どこか不安を感じながらも、冒険をしているような気分になって自然と早歩きになる。そういうのがいい。
先ほど買ったばかりの『コンビニ限定』のサイダーのペットボトルは、早くも表面に水滴が浮かんでいた。九月に入ったばかりのころは、いくらか涼しい日が続いたけれど、最近になってまた暑さが厳しくなってきた。
有川の隣に腰を下ろすと、ベンチが悲鳴を上げた。かなりのご老体で、現役引退がささやかれている――というのを先ほど店員から聞いた。
このコンビニで有川と出食わしたのは梅雨のころだった。じっとりとした空気が不快で、息がしにくかったのを覚えている。明日から七月だ、暑いのは嫌だな、なんて考えていたからか、六月三十日という日付まで覚えていた。
僕にとって、学校外で知り合いと会うのは不幸に分類されるできごとではあったけど、彼に対して興味を持っていたこともあったから、軽く世間話をした。
でも、その不幸は二度三度と続いた。話を聞いてみると、有川はここのところ毎晩、コンビニに足を運んでいるらしい。
――この時間になると、父親と姉貴が始めるんだ。
「何を?」と聞き返した僕は考えてみると少し純情だったかもしれない。
――男女がベッドの上で忙しくするアレだよ。
彼は誤って泥を口に含んでしまったような顔をした。
それ以来、特別約束をしているわけではないものの、僕が追っている漫画雑誌が発売される日には、この時間、このコンビニのベンチに座って他愛のない話をするようになった。
自分のこと。
学校のこと。
家族のこと。
会話をキャッチボールに例えることがあるけれど、僕と有川の間には壁があった。僕が壁に向かって投げて跳ね返ったボールを、有川がキャッチする。そのボールを有川は壁に投げて、僕がまたキャッチする。お互いに向かって投げるボールはなくて、僕たちの『他愛のない話』は独り言に似ていた。
*
「やっぱり、悪いものはここに入れるのが落ち着くんだよな」
有川が右ポケットから取り出したものは、紙だった。桜色というのだろうか。淡い桃色だ。小綺麗な便箋だが、ポケットに押し込まれたせいでくしゃくしゃになってしまっている。
「平均点を下回ったテストとか、どうしてた?」
「さあ。子供の頭に興味のない親だったから」
由季から、「千歳のお父さんとお母さんは変わってるね」と言われたことがあった。「そんな点数取ったら、うちの親、怒るもん」と彼女は僕のバッテンばかりの答案用紙を指差す。
父親は美大出身で、母親は高校を出てすぐ働き出したらしい。あまり学業というもの興味がなかったのかもしれない。
「うちの母親は点数がつくものにはうるさくてな。だから、隠すんだ。でも、いつも見つかった」
癖で上着の右ポケットに隠しちゃうんだよ、と有川はカラカラと笑った。有川は母親の話をするとき、分かりやすいくらい上機嫌になる。
「いつも身につけているものなら、バレにくいと思ったのかもな」
「でも、見つかったんだろう? いつも同じ場所だから」
「見つけて欲しかったのかもしれん。もしくは、罪を自覚するためだな。ポケットに手を入れる度に、罪が手に触れる」
「マゾか。そうでないなら、君の右ポケットは懺悔室だな」
「汝、罪をポケットに隠したまえ」
なんつってな、と有川は便箋を僕に渡した。広げてみると、『有川宏一くんへ』と書かれている。ラブレターというやつだ。差出人は、同級生の女子生徒だった。この前、有川と一緒に学園祭の作業をしていた『裏方が似合う』の子だったかもしれないし、記憶違いかもしれない。
「いたいけな少女の恋心は罪なのかい?」
「勘違いさせるのは罪だ」
有川の口調は酷く冷淡で、単調だった。
有川は煙草の煙を吐くかのように、唇をすぼめて息を長く吐く。
気分が悪そうだった。少なくとも同級生の女子から告白されて、喜んでいるようには見えないから、拒絶の言葉を考えているのかもしれない。もしくは、情緒的なことが頭に浮かんで、嫌になったのかもしれない。
あるとき、クラスの誰かが成人雑誌を持ちこんだ。
男子高校生にとって、成人雑誌というものは蟻にとっての砂糖菓子のようなものだ。それを囲んで群がっている集団があった。
その中に有川の姿があった。彼は集団の一番後ろの方で、腐敗した生ゴミを素手で触ってしまったような顔をしていたけれど、その様子に気づいている仲間はいないようだった。
有川が「ヤリチン」であるという噂は、色々なところで囁かれていることだ。軽薄で、女を軽く扱う男だと。有川にヤリ捨てられたであろう女子生徒が、そんなことを友人に吐き捨てていた。
でも、実際の有川は性的なものに対して、強い嫌悪を持っているようだった。
有川を慰めるつもりはなかったが、ベンチに少しだけ体重を預けて、「ポケットに収まるくらいの大きさの罪なら気にするなよ」と言っておいた。
「アンボイナガイ」
「え?」
「猛毒を持った貝の名前。ポケットに収まるくらいの大きさだけど、人間三十人殺せるだけの毒を持っている。海水浴に来た人が、ポケットに入れて死ぬこともある」
あっそう、と僕は頷く。
「その女の子の失恋で三十人死んだら、猛毒の貝もびっくりするだろうね」
「この程度なら、殺せたとしてせいぜい一人か二人だな」
そうだね、と適当に相槌を打つと、会話が途切れた。
ジジジと街灯が鳴る音と、雨粒が地面を静かに打つ音が響く。大通りから遠く離れているこの場所は、夜になると静かだ。暇を持て余した不良と呼ばれる人は、不思議とこのコンビニに寄りつかない。駐車場もなく、灰皿もないからかもしれない。
子供のころの有川の気持ちを、僕は少し理解できた。
庭木の枝を折って、「僕がやりました」と素直に言える人間は珍しい。それは、ほとんどの人間がアメリカの初代大統領になれないことに関係しているかもしれない。
悪いことをして、いつまでもそれが発覚しないで済むならそれはそれでいい。でも、発覚を恐れてびくびくするのが続くなら、バレてしまった方がずっと気が楽だ。
――千歳のこれを見たの。
彼女に言われた言葉を唐突に思い出した。あの日も今日みたいな小雨だったからかもしれない。
明かりのついていない、薄暗い教室だった。彼女は僕にプラスチック製のファイルを渡す。僕のものだ。自殺の記録を収集した、分厚いファイル。失くしたと思ったものを、彼女が持っていた。
――私が自殺したら、千歳のファイルに記録されるの?
――そうだね、そうしたいと思うよ。
――なら、あなたが自殺したら、絵にしてあげるわ。
そこに鏡があるように錯覚した。自分の顔は分からないけれど、僕と彼女の表情は似ているように思えた。
でも、僕と華音は友人になりえない。由季とのような恋人の関係とも、有川とのような深夜徘徊の『ついで』のような関係にも。
何故なら、華音の父親は僕の父を殺したから。
何故なら、僕は華音の父親を殺したから。
ペットボトルの蓋を開ける。
サイダーは、当たり障りのない普通の味で、うんざりした。