晩夏②
晩夏②
初夏、隣町で自殺があった。
マンションから十代の少年が飛び降りるという、ごくごく平凡な自殺だ。
地方紙に小さな記事として扱われ、僕はそれを切り抜きにして、スティック糊でノートに貼って記録した。ノートは何冊にもなって、プラスチック製のファイルに保存している。
この記録は小学生のころから続いている。父が自殺したときからだ。
父の死は少年と同じように小さな記事になった。彼はイラストレーターで、取り柄といえば筆が早いことくらいだった。
父が『量産型』と自嘲していたイラストは確かに特徴のないもので、彼自身も『量産型』の人間だったのだと思う。
平凡で、唯一の取り柄が「人が良すぎる」なんていう男。
そんな彼が死んで、新聞の記事になった。
どこどこのゲームや雑誌掲載の挿し絵で活躍していたイラストレーターの誰それ――なんていう肩書きではなく、自営業の中年の男の不審死として。
酷く曖昧な気持ちになったのをよく覚えている。
父は苦しんでいた、と思う。けれど、原稿用紙一枚、四百文字に満たない短い言葉で、「遺書はなく、事故の疑い有り」と語られるだけで終わった。そのとき、日本では遺書がない自殺は、「不審死」として扱われるケースがあることを知った。
彼は自分で自分を殺した事実さえ殺されたのだ。
年間数万人いると言われる自殺者の数字の中に、父はいない。もしかすると、父のように意志を示さないまま自殺し、「原因不明の死」とされた人は多いのかもしれない。
原因のない死など、ありはしないのに。
でも、原因を追求しない理由を、少し成長した僕は理解できるようになった。
「誰のせいでもない」と結論づけてしまった方が、生き続ける人にとって楽だからだ。死んでしまった人よりも、生きている人を尊重することが大事だというのは、おおよそのところで正しい。それが臭いものに蓋をする理論だとしても。
授業が終わると、すぐに荷物をまとめた。部員二名の美術部の活動や、由季からの誘いがあったけれど、僕にとって重要なのは誰かの自殺だ。
バスを乗り継いで、少年が飛び降りたマンションへと足を運ぶ。
彼が落ちたであろう場所に、いくつかの花が添えてあった。そのほとんどが夏の暑さで水分を失って茶色に朽ちて、ミイラを連想させた。菓子袋が供えられていたようだけど、カラスに突かれたのか、辺りに散乱して、異臭を漂わせていた。いじめを苦にして自殺した少年への同情の象徴としては、良くできている。
それらの横に、来る途中で買った花を添える。まだ瑞々しい白い花で、名前は分からない。花屋で適当に見繕ってもらったもので、覚えているのはその代金、二百十円だ。
少年の死を悲しむ気持ちはなく、切符のようなものだと思っている。花を添えることで、彼の自殺に少しだけ途中乗車するのだ。
九階建てのマンションだった。記事に少年がどこから飛び降りたかは書かれていなかった。
上を見上げる。一番高いところだと、八階と九階の間の踊り場だろう。もし、彼が自分の死を心から願っていたとするなら、そこから飛び降りたのだと見当をつけた。
敷地の中に入る。僕にとって幸いなことに、オートロック式のドアではなかった。苦労することなく中に入ることができた。
途中、住人とすれ違う。互いに淡い笑みを作って、目を合わせることなく、「こんにちは」と挨拶を交し合う。
エレベーターがあったけれど、階段を使うことにした。少年は階段を使っただろうから。階段を使って、自分が死ぬまでの時間を少しでも延ばしたのだと思う。
いつ死んでも構わないと考える人はいる。けれど、死ぬことを望んで生きる人はきっと少ない。生きているだけで死に向かっているというのに、笑いたくなる矛盾だ。
自殺者は楽になりたいから自分を殺すのだ。より強い苦痛を求めて死ぬ人は稀だ。前向きな意志を持った自殺は、現代ではあまりないだろう。
ずいぶん、死にづらい社会になったと思う。滅多な病気では死なないし、大抵の怪我は治せる。高らかに「命を大切に」と無責任な声を上げる人がいる。
階段を上がることで、自分を殺すための位置エネルギーを大きくしていく――その少年の感情を想像する。
自殺現場に足を運ぶとき、必ずその人の感情を想像する。死ぬ前に何を考えていたのか、理解しようとする。
けれど、上手くいったことは一度もないように思える。「恐らくこうだろう」と思えるものはあっても、確信を持ったことはない。僕自身が死のうとしない限り、彼らを正しく理解することはないのだろう。
そうであれば、生きている人たちには死んでいった人の気持ちなんて何一つ理解できないのかもしれない。
自殺者とそれ以外は永遠にすれ違い続ける。自殺者はそれ以外から見当違いの結論を用意される。「可哀想」なんて言葉をかけられて、お終い。
「酷い話だね」
八階と九階の間から、世界を俯瞰する。
ワイシャツが汗で湿って背中に貼りついていたが、不快には思わなかった。
少年が最期に見た風景を僅かながら共有する。斜陽が目に突き刺さった。彼が死んだのも今日みたいなよく晴れた夕方だ。
彼の目に映った夕日は煩わしかっただろうか。それとも、美しかっただろうか。
どちらにせよ、彼は飛び降りた。
「煩わしいから死のう」か「美しいから死のう」のどちらか、それとも別の感情があったのかは分からない。新聞はそんなことを書かないし、多くの人が興味を持つことではないだろう。
けれど、僕が知りたいのはそういう部分だった。
*
夕日の絵。
華音の絵。
美術室の前の壁に飾られていて、名のあるコンクールで賞を取ったということを説明する大きなゴシック体の太字が、彼女の繊細な色使いの絵とミスマッチで台無しだった。
通りすがった生徒が彼女の絵の前で足を止める。人集りができることもあった。
「綺麗だね」と呟く人もあったし、「才能があるっていいね」と妬ましい感情を言葉に乗せる人もいた。
この絵が何であるか気づいている者はいない。僕を一人を除いて。
華音は自殺の絵を描く。僕だけがそれを知っている。
絵は、建物から夕日を直視した構図だった。
場所は、少年が飛び降りた場所。
八階と九階の間。
夏を思わせる入道雲と強い斜陽。
宙に舞う季節外れの枯れ葉。
飛び降りる寸前、少年が見た風景を非情なまでに再現していた。まるで、彼女自身がそれを見たかのように。
少年は、永続的にこの風景を見続けるのだろう。自殺者は死んだ場所に永久に縛られる。自分の最期としても、他の者の記憶としても、記録としても、この風景――マンションの八階と九階の間がの「死んだ場所」として認識し続けられる以上。
この場所と風景は少年だけのものとして固定される。
ああ、でも、最期に見た風景がこんなに美しいものなら、悪くない。
自殺が救いだと、少しだけ信じられる。
九月。
夏休みが終わって、校舎内にはどこか落ち着かない空気があった。
久し振りの学校に浮き足立っているというのもあるだろうし、これから年末までに色々なイベントが控えている。十月の中頃には学園祭が控えているし、十二月になったらクリスマスだ。ハロウィンなんてものもあったかもしれないが、それがいつだったか僕は覚えていない。
「クリスマスまでにカノジョが欲しい」なんていうクラスメイトのぼやきを聞かない日はないし、それに対する「それなら学園祭がラストチャンスだぜ」というアドバイスは安っぽくはあるけれど、もっともであるのかもしれない。
夏休み前のクラス会議で、僕のクラスは演劇をやることになった。今はその準備期間で、忙しそうにしている生徒がちらほらと教室内に見られる。
演目はオリジナルの脚本、という名の既存の童話を少しアレンジしたものだが、地方の学園祭に著作権うんぬんと文句をつける人はいないので問題なし――という認識なのかその辺りの問題は華麗にスルーされている。
美術部員の僕は、学園祭実行委員の一人の女子生徒から美術担当に任命された。まともに絵が描けるのが僕しかいなかったというのが大きな理由だろう。どういうわけか、この学校に美術部員は少ないし、芸術関係の授業は選択制だ。一応、進学校だからかもしれない。
「神林くんは裏方がよく似合うよ」と彼女が僕に言ったとき、周囲から小さな笑いが生まれたことに深い意味はないのだと思う。
劇の登場人物は限られているから、僕のような快活さ明朗さに欠ける地味な人間は自然と日陰に追いやられる。
「不公平じゃないか? ちゃんとくじ引きとかで決めればいいのに」
山田は口をへの字に曲げて文句を言っていた。彼は僕と同じ裏方で、劇に使う大道具や小道具を作る役割だった。
「くじ引きで主役になったらどうする?」
「そりゃあ、辞退するさ。どう考えても俺は主役の器じゃないだろう」
「知ってる」
失礼だな、と山田は苦笑いをする。
「でもね、そういうのも含めて、自分で選びたいじゃないか。勝手に地味な役回りをさせられるのは納得がいかない」
「まあね」
山田の言いたいことは分かる。裏方に配属された多くの生徒が、胸を撫で下ろしていると思う。最悪なのは、見世物半分に目立つ役柄にされることだ。それなら、多少の不満なんて呑み込めてしまえる。
でも、選べるなら選びたい。何事に関しても。
授業は基本的に十五時に終わる。この時期からは学園祭の準備が本格化して、ほとんどのクラスが放課後に居残りで作業をする。
教科書を学校指定のバッグにしまっているところで、「帰んの?」と声をかけられる。
声の方に顔を向けると東野がいた。
隣に有川がいる。有川と目が合うと、「仕事を頼んでもいいか」と企画書を渡された。演劇のポスターに関するものだった。
夏休み中、色々と準備が進んだ、ということを有川から説明される。有川も実行委員の一人で、クラスの運営をまとめているのは彼だ。
学園祭の実行委員は、各クラスから四人選出される。学園の運営を任され、自分のクラスのリーダー的存在であることが求められる……うんぬんと由季から聞かされた。彼女も実行委員で、頑張っているらしい。「あなたのカノジョ、頑張り屋さんなのね」という華音のお墨付きも頂いている。
そういえば、華音はどこで由季のことを知ったのだろう。一年のとき、同じクラスではあったみたいだが、二人が親しくしている姿は想像しづらい。
「神林は夏休み中、一度も練習に来なかったな」
東野が僕に邪気のこもった笑みを向ける。
「呼ばれてないからね」
「呼んでないからな」
「なら、行きようがない」
「そこは気合いだろう」
東野とのやり取りが面倒臭くなって、有川に視線を投げる。彼は小さく息を吐いて、間に入る。
「何か必要なものがあったら遠慮なく言ってくれていいから」
「了解」
東野が割って入る。
「頼みましたよ、裏方さん」
彼はゲラゲラと笑いながら、有川の後を追って遠ざかっていた。
肩を竦める。
「東野って、何でお前に当たり強いんだろうな」
隣でやり取りを見ていた山田が小声で言う。
「さあね」
首を傾げてみせる。東野について、僕はテニス部員ということしか知識がない。彼がラケットを持っている姿を見たことはないけど。
「もしかすると、お前のどれかの恋人に興味があるんじゃないか?」
「何人もいるつもりはないぞ」
「嘘つけ。ショートカットでちっこくて元気なのと、髪が長くて幽霊みたいなのがいるだろう」
半分妬み、半分はからかいなのだろう。山田とこのやり取りは何度目かだ。
それにしても、華音のことを「幽霊」は少し酷い。僕も何度かそう思ったことはあるけれど。
「月島さん、昔は髪が短かったし、やかましいくらい元気だった」
ちょうど今の由季のように無邪気で無神経だった。二人の内面を分けた出来事は、おそらく家庭環境だ。もし、華音の家が平穏なものであるなら、今の彼女はいなかったのかもしれない。
あの日の出来事が、華音から笑顔と活発さを奪ったのだ。
「あれ、幼馴染なのか?」
「一緒の絵画教室だった。学校は違ったけど」
「ちっこい方とも幼馴染なんだろ? 幼馴染ハーレムか」
山田はたまに理解に苦しむ単語を使う。
「有川も、ヤリチンって噂あるしろくでなしばかりだ」
「そうか? 真面目そうに見えるけど。誠実そうだ」
「そうやって、女を油断させて、パクっとやるのが手口なんだろう」
山田は手を蛇の頭のようにして、空を切る。
「ふぅん」
「まあ、噂だけどな。でも、本当らしい」
「どっちだよ」
分からん、と山田は笑う。
「じゃ、俺は他の集まりがあるから」
彼は軽く手を上げて教室から出て行った。
企画書に目を通す。ポスターのイメージが細かく記載されていた。「取りあえず描いてみて」みたいな注文が一番怖いが、その心配は杞憂のようだった。
誰かの手を借りて行う作業ではない。一人で行うなら、煩わしい教室にいる必要はないだろう。
席から立って、バッグを肩に掛ける。
仲間と楽しげに喋っていた有川に声をかける。
彼らは流行りの音楽について話しながら、段ボールを切って何かを作っていた。
有川に席を外すことを告げると、頷いてくれた。東野は演劇の稽古に向かったのか、すでに教室にいないようだ。顔を合わせる度に絡まれていては堪らないから、その方がいい。
「用があったら携帯電話にメールか電話でも入れておいて」
僕と有川がお互いに連絡先を交換しているのが意外だったのか、近くで作業をしていた女子生徒がこちらを一瞬意識した。僕に「裏方がよく似合う」と言った人だ。
「どこにいるかだけ教えてくれ」
「美術室かな」
絵の描ける落ち着ける場所と考えて、真っ先に思いついたのはそこだった。
教室を出るとき、女子生徒が有川に「あいつと友達だったの?」と言っているのが聞こえた。
「全然」と有川は苦笑いを浮かべて首を振った。