晩秋①
晩秋①
自殺をするなら飛び降りがいい。
恋人の白倉由季が、そんな言葉を漏らした。
放課後、僕と由季は駅前にあるコーヒーが一杯五百円もするお洒落なカフェに来ていた。コーヒーの値段でお洒落さを表現するのはどうかと思うけれど、僕にカフェのお洒落度合いを表現するためのボキャブラリーはそれ以外にない。子供っぽい外見の由季には、ハンバーガー屋の甘ったるいだけのシェイクが似合うのに、とは口にしない。
「私が好きそうな飲み物頼んで」
メニューを見ながら、由季が僕に微笑む。
由季は甘いものが好きだ。それについて、僕と彼女の趣味は合っている。
僕は舌がつりそうになる呪文のような飲み物を店員に伝えて、自分は無難にレギューラーコーヒーを注文する。カフェモカを探したが、それらしい飲み物がどれか分からなかった。
店員がカウンターから出した二つのカップを受け取って、僕たちは空いている席につく。
「まあまあね」
一口飲んで、由季は頷いた。
由季はこうやって、時折、僕を試す。僕が彼女のことを正しく理解しているか、把握しているか、調査する。
由季はそうするとで、僕の彼女に対する愛情の証明をしようとしているのかもしれない。
「自殺するなら、飛び降りがいい」
キラキラの内装とノスタルジックな音楽が流れる店内で、どうして由季がそんなことを口にしたのか、僕には分からない。おそらく、思いつきなのだろう。彼女が知っているタレントが飛び降り自殺をしたのかもしれない。
ただ、いつものように「どうして」と聞く。由季との上手い付き合い方は、彼女の口にする言葉に疑問を投げかけることだ。
「ん。だって、首吊りってすごい汚い死に方するっていうし、包丁で自分の身体を切るのは絶対痛いじゃない?」
「なるほどね。薬は苦い。練炭自殺は苦しい」
どこかで聞いたフレーズだ。
「そう、そうそう」
彼女は嬉しそうに何度も頷く。カラフルな飴玉みたいに楽し気な笑顔を見て、咀嚼した食べ物を飲み込み損ねて、喉の奥の方で残っているような居心地の悪さを覚える。
考えてみると、僕は由季に対して失望してばかりだ。
相手の良いところを好きになるのが恋で、相手の悪いところを許すのが愛――なんて語っていた人がいた気がするけれど、失望はどう処理すればいいのだろう。僕の感じるそれは、由季の長所と呼ぶべき「無邪気さ」や「考えなしさ」に対するものだ。
ため息の代わりに笑い声を上げる。
確かに「首を吊る」や「手首を切る」よりも、「飛び降りる」は運動的かもしれないし、落下のときに感じる急速な景色の変化や風圧を想像すると、少し楽しい。
でも、飛び降り自殺だって同じだ。身体の中身をぶちまけて、汚いはずがないし、痛くないはずがない。逆流して口にあふれた血は苦いし、潰れた肺で呼吸するのは苦しい。
そんなふうに思ったけれど、僕は「そうだね」と頷いた。「僕も自殺をするなら飛び降りがいいな」と笑った。
どうして。
なるほど。
そうだね。
由季との会話の構成のほとんどがそれだ。疑問を感じて、納得すれば、機嫌を損ねない。扱いやすく可愛らしい僕の恋人だ。
でも、僕も自殺をするなら、飛び降りがいい。
*
授業開始のチャイムから少し遅れて現れた担任の教師が、「自習」とだけ告げて走り去っていった。彼女の顔は蒼白で、早足で歩く死体のようだった。
気が弱く、いつも生徒から分厚い眼鏡をからかわれて、その度におどおどしている人だ。卒倒しなかっただけましかもしれない。『反面』をつけるほどではないけれど、彼女のように生きていたら損ばかりしそうだ。
十月八日。
今日は僕が日直の日で、日誌を書かなければいけないはずだが、彼女はそれを教室に置くのを忘れたらしい。教壇の周辺を見てみたが、どこにもなかった。
あんな頼れない教師だが、彼女の現代国語の授業はとてもためになる。「文章読解の選択肢問題で、『一度も』とか『絶対』を信じてはいけません」という教えのおかげで、その手の問題の正答率だけはだいぶましになった。
探すのを諦めて、席に戻る。
「ヤバイなあ」
隣の席の山田が呟く。彼がこの言葉を発したのは三度目で、僕はその度に「ヤバイね」と返さなくてはいけなかった。
学園祭一週間前で、本来なら浮き足立っている時期であるはずだが、それどころではなくなってしまった。泣き喚く女子生徒や、誰が死んだのか知りたがる人たちの騒音で頭が割れそうになる。
手首に指を当てる。いつもより脈拍がかなり早い。身近なところでの自殺は三度目だが、平常心でいられるはずがない。
けれど、冷静に、誰が飛び降りたのか、頭の中で情報の整理ができていた。
昨日の夜、言われた言葉。
教室にそれを口にした姿がない。
二通のメールが携帯電話に届いていた。一通が由季からで「飛び降りたのって有川くん?」という内容で、もう一通が華音から。
そちらは由季のものより確信の込められた内容だった。
『有川くんが飛び降りたわ』
迷わずとも、華音から先に返信する。華音が携帯電話でメールをするということ事態が異常でもあったし、由季に構っている余裕が僕にはなかった。
『見たの?』
『見たわ』
『偶然?』
テンキーの操作になれていないのか、短い文章でも返信が遅く、もどかしかった。
それとも、何と答えるべきか迷っていたのだろうか。
『ヒツゼンよ』
ヒツゼン、必然。
由季から、『ねえ、今から話せない?』という二通目のメールが来ていたけれど、意識の外に追いやる。
『どこにいる?』
『美術室』
『今からそこに行く』
華音にそれだけメールをする。
携帯の電源を切る。山田に「トイレ行ってくる」と告げる。
教室を出た。