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初春⑫

初春⑫


 僕は一人、彼女の部屋にいた。

 絵を画架に立てる。

 丸椅子に腰を下ろす。

 パレットに絵の具を垂らす。

 筆を水で湿らせ、背筋を伸ばす。

『彼女』に向き合う。こうやって対峙したのは、もしかすると初めてかもしれない。いつも隣にいてくれた。でも、顔を合わせたことはなかった。

 もちろん、そんなことはない。喫茶店で、何度も僕たちは顔を合わせた。

 けれど、そんな気がしたのだ。

 彼女の頬を撫でるように、紙面に筆毛を這わせる。


 この絵を完成させよう。そう思ったとき、知らなければいけないことがあった。

 華音はどこから落ちたのか。

 どこの窓から。

 有川の右側か、左側か。

 僕ははっきりと確信を持ってどちらかと判断することができなかった。

 だから、由季に聞く必要があった。彼女と死別してでも。

 答えは、有川の左側だ。

 ピエロの人形の右手に触れるか触れないかの距離で、白い百合の花を描く。柔らかい秋の日差しと、冬の重たい夜の雲。乾いた土を霧雨でわずかに湿らす。窓からそれらを見る幼いおかっぱ頭の女の子。

「彼が死んだ絵」に「彼女が死んだ絵」を重ねる。

描きながら、考えた。どうして、僕が描き手として選ばれたのか。

 様々な可能性を考える。その間も、筆は止まることはなく、キャンパスの上で筆が踊る。

 結局、納得のいく答えは僕の中に生まれなかった。なら、外にあるのだろうか。それとも、金庫の中か。

 適当な理由をつけて思考を止めるのもいいし、頭が痛くなるまで想像を膨らませるのもいい。どうしたって、納得できる答えは、もう得られない。

 華音は死んだのだ。

 完成した絵を見る。

 驚くほど、調和が取れていた。同じ師から絵を教わったからかもしれない。

 絵に書くサインをどうするか、少し考えて、自分の名前を右下に書く。

 この絵を誰かに見せたかった。

 先生や華音――そして、父の気持ちが少し分かった気がした。大事なものをどうして売ったり人に見せたりするのか、幼い心のままの僕には理解できなかった。

 それは、僕が今まで拾うばかりで、生み出したことがなかったからだ。

 彼と彼女が死んだ絵。『二人』の絵。

 大事なそれを、誰かに、見て欲しかった。


 自殺の絵を描いている。

 その中に彼女がいる。

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