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初春⑪

初春⑪


 静かに息を吐く。

 由季が去って、空っぽになった向かい側の席を見ながら、冷たくなったカフェモカに口をつける。

 酸化したせいか、飲み始めのころよりも酸味が強いような気がする。ワッフルの方は、ホイップがすっかり溶けて酷い有様になっていた。

 機械的にそれらを口に運んでいると、向かいの席に来栖さんが腰を下ろした。

「別れ話は上手くいったかい?」

「もう随分前に振られてますよ」

 けれど、本当の意味での『離別』をすることはできたと思う。もう、由季は僕に関わることはないだろう。学校の廊下ですれ違っても、他人のふりをする。いや、事実他人だ。

 テーブルの上には例の写真がそのままになっていた。来栖さんはそれを見ながら、「最近の若者はただれているね」と楽しげな口調で呟く。

 店員さんを呼ぶ。カフェモカのお代わりを注文する。来栖さんは「アメリカン」と少し早口に告げる。

「さっきの子、例の目撃者?」

「そうですね」

「ずいぶん、華音ちゃんと雰囲気が違う……」

「そうかもしれません」

「で、聞けた?」

「何をです?」

「華音ちゃんが、どこで死んだか」

 店員さんがカップを二つ僕たちのテーブルに並べる。カフェモカに口をつけると、身体が温まるのを感じた。やはり、この店は寒かったのかもしれない。

「聞けましたよ」

「そう、良かった。それで、彼女は何と言っていたの?」

「何でそんなことを聞くんだって言っていました」

 僕はこう返した。「自殺を調べるのが趣味なんだ」と。「自殺の絵を描きたいんだ」とも。華音とラブホテルに入ったのは、自殺現場の観光であったことも説明した。あのとき僕に向けられた、黒く濁った彼女の瞳を、僕は一生忘れないだろう。

 だから、僕はようやく離別することができた。本当の自分を相手にさらけ出すことができたのなら、その結果が離別だとしても、それは幸せなのだろう。

「でも、どうして華音ちゃんは君の元カノちゃんを『観客』として選んだんだろうね」

 アメリカンコーヒーをすすりながら、来栖さんは聞く。

「半分は仕返しだったんだと思いますよ」

「仕返し?」

 来栖さんが眉を上げる。

「推測なんですけどね。そもそも、由季が華音と有川の関係を知っていたのが不思議だったんですよ。有川って男は真面目なやつで、徹底してましたから、身体の関係がなかった以上、どこまでも精神的な付き合いだったんだと思います」

「真面目なヤリチンってこと?」

「有川にとって、セックスは愛情表現ではなかったですから」

 きっと、暴力かそれ以上のものだったのだろう。彼にとって、セックスの延長線上にあるのは誰かの死だった。それなら、呪いか、もしくは処刑だ。

 有川は何人かの女の子と身体の関係があった。もしかすると、彼女たちに死んで欲しかったのかもしれない。

「華音ちゃんと有川くんもなかったんだ?」

「そうです。僕と由季の『なかった』とは一緒ではないですけど」

 こちらは、端に僕が立たなかったというだけの話だ。

「だから、どこで二人のことを知ったか聞いたんです」

 色々な仮説はあったものの、解は最も単純なものだった。

「由季が有川の携帯電話拾ったんですって。同じ学園祭実行委員だったから、たぶん、そのときに。その携帯電話に、華音からの連絡があったそうです」

「はぁん。ディスプレイを見たら番号とか登録されている名前、見えちゃうものね」

「いえ、ブラフはされていたみたいですけど。由季、電話に出たそうですから」

「え」

 僕も驚いたけれど、由季の頭の中では、プライバシーの問題よりも、鳴っている電話を取らなければいけないということの方が重要だったらしい。

「まあ、そこで感づいたんでしょうね」

 声の温度とか、そういうもので。

「これは僕の勘ですけど、夜のことで電話したのだと思います」

「例えば?」

「今晩は電話できないわ、とか。たぶん、夜に僕と会っていたから」

「ああ」

 来栖さんは納得と苦笑を交えた表情を浮かべる。

「例のラブホテルに繋がるわけだね」

「おそらく、ですけど」

 もしそうなら、あのホテルは女子大生の自殺で呪われているのかもしれない。あの日の現場検証が、色々なところで火種となっているように思えてならない。

 雨の話を華音にしたのも、確かあの日だ。

 有川が雨の話を僕にしたのは、華音との繋がりを示唆することが目的だったのだろう。

 僕はそれを嫉妬させるためだと考えた。けれど、それは勘違いだった。

 有川は単に、僕の過去を僕が彼に話した以上に知っていることを遠回しに言いたかっただけなのかもしれない。華音から僕のことを聞いて、同情か親近感か、もしくは嫌悪感か、それは分からないけれど、ともかく何かを感じたのだろう。

 僕はそれに気づけなかった。

 華音と有川が裏で通じ合っていて、それを僕に隠しているのではないか、なんていう勘違いをしていた。

 勘違いをすることは罪だろうか。

「話を戻しますけど、華音にしてみれば、勝手に電話に出られたわけですから、腹立たしく思いますよね」

「そりゃあね」

「だから、由季を選んだんです。理由としては、それくらいだと思います」

「少し、自殺の観客にする理由として安易過ぎる気もするけど」

「由季も納得してませんでした」

 もしかすると、華音は失った自分の無邪気さを由季を通して見ていたのかもしれない。それを羨ましく、妬ましく思っていたのかもしれない。

 だけど、僕はそんな理由を知れたとしても、華音が死んだ理由や、誰かを選んだ理由に確信や納得はもてない。

「もし、帰り道で来栖さんの頭の上からぶつかっても痛くないくらの小石が落ちてきたら、あなたは気にしますか?」

「気にはするだろうけど、妙なことがあるもんだと思うくらいかな」

「なら、大規模な土砂崩れだったら?」

「気にするどころじゃない。大騒ぎだ」

「でも」

 僕は一口だけカフェモカを喉に流す。

「土砂崩れの理由なんて、前日に大雨が降ったことくらいです。大量殺人のための陰謀説とか、土地開発が生み出した惨劇だ、政治家の誰それが悪い……なんて言い始める人もいるかもしれませんけど、結局の理由は、『雨が降ったから』なんですよ」

 華音や有川が僕を話し相手として選んだのにも、大した理由はないのだと思う。単に、彼女と彼が持っていた心の傷と、近い過去を僕が持っていただけだ。親の不貞や自殺なんて、世界中探せばどこにでもいる有り触れた話だ。それなのに、二人が僕を選んだのは、「たまたまそこにいたから」という理由以外ない。

「割り切っちゃうと、何でもそうなってしまうよね」

 来栖さんは少し残念そうに両手でカップを口に運ぶ。

「華音ちゃんが死んだのも、『雨が降ったから』?」

「僕は、人が死ぬ理由を見つけられるほど単純にはなれませんし、考えられるほど複雑にもなれません」

 有川の自殺を、「十七歳になったから」として由季に話したけれど、本当のところどうなのかについて、確信はない。

「ただ、華音は『雨が降ったから』という理由だけで自殺できる人だと思います」

「人間はそんなに簡単に死ねるかな?」

「自殺したってニュースを聞くたびに、みんなこう言うじゃないですか。『どうしてそんな理由で』『そんなことで死ななくてもいいのに』って」

 死ぬ理由に意味はない。

 華音の考えを、僕は理解し始めているのかもしれない。

 華音の自殺についても、「こうなのだろうな」と思うものは一応ある。けれど、それを来栖さんに話す気はなかった。「大事なこと」だからではなく、「本当にどうでもいいこと」だからだ。

 華音は自殺した。死にたいから死んだ。

 その事実だけで、僕は十分だと思う。



 気が付くと来栖さんの姿がなかった。

 あまりにも自然に消えたので、白昼夢ではないかと錯覚したほどだ。アメリカンコーヒーの入っていたカップもない。

 代わりに一冊の本が置いてあった。

 それを手に取る。パラパラとページをめくって、華音の私物だと気づいた。ページとページの間に、短い手紙が挟まれていたからだ。

 華音の文字で、黒猫のサインもある。内容を要約すると、「絵を完成させて欲しい」ということと、あとは僕に対するいくつかの思い出話だった。

 考えてみると、来栖さんが僕に話しかけた理由もいまいち理解ができない。

 暇潰しなのか、彼女も華音に対して、何か思い入れがあったのか。

 そういえば、来栖さんはもう半分の理由を聞かなかった。華音が由季を選んだ理由――どうして、あそこに由季がいる必要があったのか。

 ともすると、来栖さんはそれを理解してしまえていたのかもしれない。華音の遺作であるあの絵を見たときに、気づいたのだろうか。

 華音と来栖さんの関係は分からない。ただ、二人にも二人だけにしか伝わらない何かがあったのかもしれない。

 来栖さんは、『観客』に選ばれたかったのだろうか。

 そろそろ帰ろうと席を立つ。華音の部屋ではなく、祖父母の住む家の方だ。

 結局、また温かいうちのカフェモカを飲み切ることができなかった。店員さんには申し訳ないけれど、また来ることを条件に、今回は残させてもらうことにした。

 レジにいた店員さんに会計を頼む。彼女は「ありがとうございます」と朗らかな笑みを僕に返す。

 代金には、しっかりとアメリカンコーヒー代が含まれていた。

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